<ダンスの歴史〜タンゴあれこれ>

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2019.06.24 by swing 
ラテン語辞書から

    ・210824改定:ラテン語辞書の“tango”の項の抜粋図を添付しました。

ダンスの歴史(2) 投稿者:管理人 投稿日:05/25(日) 17:50 PC
【タンゴ@】

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

タンゴはアルゼンチン・ブエノスアイレスやウルグアイ・モンテビデオのダンスおよび音楽。

ポピュラー音楽及びダンスの一形態で、カンドンベ、ミロンガ、ハバネラなど複数の音楽が混ざり合って19世紀半ばにブエノスアイレス近辺のラ・プラタ川流域でで生まれたとされる。

日本では、タンゴがヨーロッパに渡って変化したものをコンチネンタル・タンゴ(コンチネンタル=大陸の=ヨーロッパの)ないし「ヨーロッパ・タンゴ」と呼び、それに対して元来のものをアルゼンチン・タンゴと呼んで区別することがある。

[編集] リズムの特徴
全般的に鋭いスタカートを多用する。2/4拍子ないし4/8拍子で、後年4/4拍子でも書かれる。以下4/4拍子で説明する。

第一拍のアウフタクトに深い「溜め」をおく。
第一拍、第三拍に強烈なスタッカートをおく。これを徹底するとオスヴァルド・プグリエーセの『ラ・ジュンバ』になる。
アバネラ (Habanera) のリズムも用いられる。
これらを滑らかにスピードアップすると、アストル・ピアソラの3, 3, 2のリズムに違和感なく到達する。
このように強靱なリズム体の上に、ロマンティックな、時としてメランコリックな主旋律が泣くのがタンゴの魅力である。

[編集] アルゼンチン・タンゴの演奏形態
バンドネオンが用いられる事が特徴である。また、非常に鋭いスタカートでリズムを刻むにも関わらず打楽器を欠く。

オルケスタティピカ(ヴァイオリン(1人以上)、バンドネオン(1人以上)、ピアノ、コントラバス)「標準編成の楽団」の意。
キンテート(バイオリン、バンドネオン、ピアノ、コントラバス、ギター各1)「五重奏団」の意。
アストル・ピアソラの作品のように、クラシック音楽の演奏家により、クラシック音楽のスタイルで演奏されるものもある。

[編集] コンチネンタル・タンゴの演奏形態
バンドネオンの代わりにアコーディオンが用いられることが多く、楽器編成も通常のポピュラー音楽での管弦楽編成に近い。ムード音楽的演奏から、マランドのように歯切れの良いリズムを重視したアルゼンチンスタイルに近い演奏までさまざまである。

[編集] ダンスの歴史
タンゴは、今から約130年前に、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの港町ラ・ボカ地区から始まった。スペインやイタリアからの貧しい移民のフラストレーションのはけ口としてボカ地区の酒場で、生まれたダンスといわれる。日頃の不満を歌にし、最初は単身赴任の男性達が酒場で荒々しく男性同士で踊ったとも、娼婦を相手に踊られるようになったともいわれる。 しかし、実際には記録はほとんど残っていないため、正しいことはわかっていない。ただ、リズムに関してはキューバのハバネラ、ヨーロッパ伝来のワルツやポルカ、アフリカ起源のカンドンベ、アルゼンチンのパンパで生まれたミロンガなどが初期のタンゴに影響を与えたとされる。

1880年 現在譜面の残る最初のタンゴ「バルトーロ」が出版される。(これにも諸説がある)
1910年、「エル・カチャファス」が最初のタンゴ学校を開く。後にカチャファスは、アメリカやヨーロッパに渡りタンゴの普及に努めた。
同時期、アルゼンチン上流階層の芸術家によりヨーロッパに紹介、カトリック教会が禁止令を出さねばならぬほどパリで大流行。
1917年頃、“タンゴの神様”と言われる歌手「カルロス・ガルデル」ブエノスアイレスに現れる。
1920年代、踊りのためのタンゴバンド大人気(代表的指揮者:ダリエンソ)。
1940年代、アルゼンチン経済繁栄、タンゴ黄金時代。ペロン大統領の労働者保護政策で大衆化。
1950年代、日本でもタンゴ流行、国内に20を超えるタンゴバンドが存在。
1954年 ピアソラ、パリに留学。以降次々と新しいスタイルのタンゴを発表する。
1983年、パリで「タンゴアルヘンティーノ」初演され大人気となる。
1985年 「タンゴ・アルヘンティーノ」のブロードウェイ公演成功。
ブロードウェイで「フォーエバータンゴ」が成功。
2003年8月、第1回アルゼンチン・タンゴ・ダンス世界大会がブエノスアイレスで開催される。
2004年6月、第1回アルゼンチン・タンゴ・ダンスアジア大会が東京で開催される。

[編集] 作曲家
アストル・ピアソラ
フアン・フィリベルト
カルロス・ガルデル
ロベルト・フィルポ
オスヴァルド・プグリエーセ

[編集] 演奏家
アストル・ピアソラ
フランシスコ・カナロ
ファン・ダリエンソ
オスヴァルド・プグリエーセ
カルロス・ディサルリ
オスヴァルド・フレセド
藤沢嵐子
早川真平
オルケスタ・ティピカ東京
マランド楽団
アルフレッド・ハウゼ
小松亮太
ザ・タンギスツ
レオポルド・フェデリコ
鄭英徳
冴木杏奈(歌手)

[編集] 作品
ラ・クンパルシータ(注意:代表的なアルゼンチンタンゴの曲ではあるが、ウルグアイで作曲された楽曲であるため、区別する向きもある。)
淡き光に
カミニート
想いの届く日
ミロンガ・センチメンタル
バンドネオンの嘆き
エル・チョクロ
ジーラ・ジーラ
ウノ
アディオス・ムチャーチョス
さらば草原よ
パリのカナロ
アディオス・ノニーノ
夜明け
ダンスの歴史(12) 投稿者:管理人 投稿日:05/31(土) 19:07 PC
(12)及び(13)は、次のHPからの引用です。
http://homepage2.nifty.com/mitsu-sa/index.htm

タンゴあれこれ(1)
「アルゼンチン・タンゴとコンチネンタル・タンゴ」その1
タンゴは19世紀の終わり近く、アルゼンチンの首都であり南米屈指の貿易港でもあったブエノスアイレスの、船員や娼婦などがたむろする場末のいかがわしい界隈で発生した踊り、およびその音楽である。ただし、ラ・プラタ川を挟んだ小国ウルグアイの首都モンテビデオ(距離的にも近い)でも、タンゴにまつわる現象は同時発生的に起こっていたと思われ、著名なタンゴ人も多く排出している。それでも、経済的な規模などが違い過ぎるために、ブエノスアイレスが文化の中心となるのは必然だった。アルゼンチンは広大な国土を持つが、タンゴが盛んなのはブエノスアイレス及び2〜3の地方都市に限られた。地方に生まれてタンゴを演奏したいと思った者は、ブエノスアイレスに出る以外にほとんど方法はなかった。あくまでもタンゴは、都会の音楽であり、ブエノスアイレスに暮らす人々の感情の拠りどころともなったのである。そうしたこともあって、タンゴ・アルヘンティーノ(アルゼンチン・タンゴ)ではなく、タンゴ・リオプラテンセ(ラ・プラタ流域のタンゴ)と呼ぶべきだと主張する人もいるくらいである。

1910年前後から、ヨーロッパに渡って活動するタンゴの演奏家や踊り手が増え始めたことで、フランスやドイツなどにもタンゴの種が蒔かれ始めた。そして、1925年のフランシスコ・カナロ楽団によるパリ公演の成功を機に、大きなブームが起こる。ヨーロッパ独自のタンゴ文化が生まれ、1920年代後半から30年代にかけて、各国でオリジナルのタンゴが作られるようになったのである。有名な作品といえぱ、「ジェラシー Jalousie」(デンマークのヤコブ・ガーデ作)と「碧空 Blauer Himmel」(ドイツのヨゼフ・リクスナー作)が双璧だろう。当時の演奏家としては、ドイツのヴァイオリン奏者バルナバス・フォン・ゲッツィ(1897〜1971)率いる楽団が特に有名である。こうしたヨーロッパ製タンゴのことは、コンチネンタル・タンゴと呼ばれるが、実はこの呼称は日本独特のものである。

ヨーロッパで独自に発展したタンゴは、まさにヨーロッパ的と言える優雅で美しい旋律を特徴とするものが多い。反面、アルゼンチン・タンゴが本来持っていたリズムの面白さはほとんど感じることができない。曲の構造も違えば、演奏スタイルも異なり、弦楽器が主体で、通常バンドネオンは入らず、代わりにアコーディオンが入ったりする。1940年代、ブエノスアイレスではフアン・ダリエンソやアニバル・トロイロ、オスバルド・プグリエーセらの台頭などによってタンゴが音楽的に成熟し、大衆の幅広い人気を得たのに対し、ヨーロッパのタンゴは第二次世界大戦の影響などもあり、音楽的に発展することが出来ず、大衆音楽としては明らかに衰退していった。

そのコンチネンタル・タンゴが、いささか歪んだ形で紹介されたのが、戦後の日本だった。日本では戦前からタンゴが親しまれていたが、アルゼンチンのタンゴもヨーロッパのタンゴもひとまとめにしてヨーロッパ経由で紹介されることが多く、コンチネンタル・タンゴのファンも多かった。そうした経緯があったことから、一部のレコード会社やプロモーターが、ヨーロッパでは既に落ち目のコンチネンタル・タンゴを盛んにプッシュしたのである。そのピークは1960年代半ばのことだった。日本でのコンチネンタル・タンゴ・ブームの立役者となったのが、西ドイツ(当時)のアルフレッド・ハウゼ(指揮)と、オランダのマランド(アコーディオン、指揮)。例えばハウゼは、本国では放送局のオーケストラの指揮者を務めていて、タンゴはレパートリーの一部に過ぎなかったが、日本ではタンゴ専門の楽団として売り出され、成功したのである。しかし、ハウゼやマランドの音楽は、形骸化したムード音楽に過ぎず、タンゴ本来の魅力からは極めて遠い位置にあった。そして、日本でのコンチネンタル・タンゴ人気は、更なる弊害をも生み出した。日本の制作サイドが、例えばエンリケ・マリオ・フランチーニのようなアルゼンチンの一流のタンゴの演奏家に、日本向けにコンチネンタル・タンゴのレパートリーを演奏させる現象まで起きてしまったのである。本人たちは、普段とは違うレパートリーを楽しんで演奏したのかも知れないし、それなりにアレンジの面白さも感じられるものの、やはりどこか本質を見誤っていた気がしてならない。
ダンスの歴史(13) 投稿者:管理人 投稿日:05/31(土) 19:10 PC
(12)及び(13)は、次のHPからの引用です。
http://homepage2.nifty.com/mitsu-sa/index.htm

タンゴあれこれ(2)
「アルゼンチン・タンゴとコンチネンタル・タンゴ」その2
戦前のヨーロッパで特にタンゴが盛んだったのは、フランスとドイツである。戦後のドイツでコンチネンタル・タンゴが衰退していったのは、前回書いた通りだが、フランスでは少し事情が違っていた。アニバル・トロイロやマリアーノ・モーレスなど、アルゼンチンでの新世代台頭の影響を受けて、ヨーロッパ風にアレンジされた従来のタンゴとは異なる、アルゼンチンのタンゴ本来のスタイルにより近い演奏をする楽団がいくつか現れたのである。モーレスは1953年から翌年にかけてパリに滞在し、演奏活動やレコーディングを行っているし、アストル・ピアソラも1954年、モーレスと入れ替わるようにパリに渡った。ピアソラの渡仏の目的はクラシックの勉強だったが、結果的には弦楽オーケストラ編成(パリ・オペラ座の楽団員が中心)で16曲の録音を行い、自身の新しいタンゴを世に問うことになった。こうしたモーレスやピアソラのパリでの活動が、当地のミュージシャンたちに刺激を与えただろうことは、想像に難くない。

1950年代のフランスで、アルゼンチン・スタイルの演奏を得意としていたのは、プリモ・コルチア楽団やマルセル・フェイジョー楽団などである。バンドネオン奏者フェイジョーはアルジェリア生まれのフランス人で、楽団を結成したのは1945年のこと。ピアソラとフェイジョーはパリで「S.V.P.(シル・ヴ・プレ)」を合作し、お互いに自分の楽団で録音した。またピアソラはフェイジョーに「バンドー」を捧げている。パリでのピアソラはほかにも「ミ・テンタシオン(わが欲望)」(ラモン・シロエとホセ・モラネス作)、「エスタモス・リストス(用意はできた)」(アンジェロ・ブルリ作)といったパリのタンゴ人たちの作品を取り上げていて、様々な交流があったことが伺える。一方、ピアソラがパリで書いた作品には、例えば「グアルディア・ヌエバ」や「セーヌ川」など、コンチネンタル・タンゴ風とまでは言わないまでもヨーロッパ的な雰囲気を漂わせたものが目につく。ピアソラのパリ滞在(〜1955年)を契機にタンゴ・ブームが起こる、というようなことはなかったものの、ピアソラの影響力はじわじわとフランスの音楽界に浸透していった。

そのフランスを中心に新しいタンゴの波が起こったのは、1970年代以降のことである。ピアソラは1974年、イタリアのローマに移住し、ミラノのスタジオ・ミュージシャンたちをバックにアルバム『リベルタンゴ』を録音、76年からはパリに移り、他ジャンルの音楽家との共演を含めて積極的な演奏活動を続けた。77年、歌手スサーナ・リナルディのバックでパリを訪れたバンドネオンのフアン・ホセ・モサリーニは、亡命する形でそのままパリに残る(1976年から83年までアルゼンチンは軍事政権下にあり、自由な活動を制約された多くの文化人が亡命した)。ほかにもフアン・セドロンなど何人もの音楽家がこの時期にヨーロッパに移り住み、70年代後半から80年代にかけて前述のスサーナ・リナルディやセステート・マジョール、オラシオ・サルガンとウバルド・デ・リオ、オスバルド・プグリエーセ楽団などが、頻繁に演奏旅行で各地を訪れたことから、ヨーロッパのタンゴ・シーンが活性化されていった。特にモサリーニは、演奏家としてのみならず、バンドネオンの教授として後進の指導にも大きな役割を果たしてきた。

後にブロードウェイを席巻し、タンゴ・ダンス・ショーのブームの先駆けとなった『タンゴ・アルゼンチーノ』のスタートは、1983年のパリだった。84年には、イタリアの人気歌手ミルバとピアソラ五重奏団とのショー『エル・タンゴ』がパリでスタートし、スイスの室内楽団イ・サロニスティがアルゼンチンのバンドネオン奏者オスカル・ギディをゲストに迎えて秀逸なタンゴ・アルバムをリリース…。もはやここまでくると、かつてのコンチネンタル・タンゴの面影は微塵もない。アルゼンチン・タンゴの世界的な展開といった感じである。そしてヨーロッパのあちこちから新しいグループが登場し様々なアプローチを展開、90年代半ばに始まるピアソラ・ブーム以降は、クラシック界からの新規参入も盛んになって現在に至るというわけだ。

ヨーロッパといっても広く、どこの国でも同じような状況だったわけではない。たとえばフィンランドは、いわゆるコンチネンタル・タンゴとはまったく別のところで独自のタンゴ文化を築いてきた国である。フィンランドではタンゴは国民音楽のように親しまれて来たが、レパートリーはほとんどが自国で作られた歌入りのタンゴだった。それが10年ほど前からは、ピアソラの作品やアルゼンチン・タンゴ全般、あるいは過去のフィンランド・タンゴの人気曲などをインストゥルメンタルで演奏するグループがいくつも登場している。果たしてヨーロッパのタンゴは、これからどのように展開していくのだろうか。