私の従軍記

2006.07.17 by 晴三


■其の一
 私は大正三年十月、茨城県の農村に生まれ、生家が農業のためもあって農業学校を出たの
ですが、故あって昭和九年徴兵検査を済ませてから上京致しました。翌年、右も左も分から
ぬままに鹿島建設の下請として工事周リフト建設のため岩手県宮古市に余儀なく出張させら
れました。
 以来八年間を出張所生活をしていた訳ですが、野丁場廻りの鳶職や製缶屋を相手に若くて
経験不足のため、相当の苦労を余儀なくされました。昔のことなので、年月は定かではあり
ませんが、宮古から北海道へ、発電所の建設工事に四ヶ月程出張したこともあります。

 昭和十四年に召集を受け、水戸歩兵第二聯隊に入隊したのが五月三日と記憶しております。
三ヶ月で検閲が終わり、同年兵達の内、三回ぐらいに分けられ戦地に行かれました。
 丁度その頃はノモンハン事件の最中でしたが、なぜか私は残留組に廻って、十二月一日付
で除隊、宮古へ戻りました。一年ほどして長野・福島と掛け持ち出張となり、出張中に宮古
の人(現在の妻)との結婚話が進められ、結婚式の二日前に宮古へ戻り挙式と言う訳で現在
の若者達には想像もつかない事と思います。

   出征時の記念写真、中央が父

 翌年の七月に現在の北朝鮮に単身出張を命ぜられ、吾が社は鹿島建設と傍系会社と成った
ため、二等車乗車待遇で北鮮(北朝鮮)に向かいました。私の担当任務は四ヵ月後の十一月
に終わったので、朝鮮煙草や飴を土産にして戻りました。
 翌十八年二月十五日長男が誕生しましたが、その喜びもつかの間、三月三日入隊の令状が
舞い込んだのです。再び軍人になった訳です。私の勘ではソ満国境だなと思って、水戸駅に
着いて見ると意外にも町中では「今度の兵隊は南方だってねぇ」との声が耳に這入って来た
のです。入隊して見ると誠に三月と言うのに、夏物の軍用品が支給されたのです。
 ところが不思議なことに、私を含めて九年度徴収兵三名だけが軍用品を貰えず私服で一週
間程いる内に、病弱者を入れ替える事になってしまったのです。軍の編成がが終わると間も
なく内原と言う所に当時満州開拓団のため作られた青少年義勇軍養成所と言う所があって、
そこの空舎に全員送り込まれるはめになったのです。

 それから二ヶ月ほど過ぎ、いざ出発と言うことになり、何とかしてそのことを血縁者に連
絡したいと思いながらもその術のないまま、軍用列車に乗る事になりました。私共は機関車
の直ぐ後ろの車両、つまり一番前の車両でした。発車してしばらく過ぎてから列車が停車し
ました。すると同時に後ろの方から私の名前を呼びながら走って来る婦人がいることに気付
きました。実姉が来て呉れたのです。この時は本当に嬉しかった。何処に行くのか分かりま
せんが、兎も角、今発ったと言う事だけは知らせる事ができたのです。
 実姉は分隊長に挨拶を済ませ、あの物資不足の時に稲荷寿司やリンゴを持てるだけ持って
来て呉れたのです。分隊全員で食べ合いまた語り合い、最後になるかも知れない別れを告げ
ることができたのです。

■其の二
 私にとっては偶然と言うべく、土浦駅にて
実姉と逢う事が出来、一生の別れになるかも
知れない別れを告げ、行先不明の列車にまた
しても乗らなければなりませんでした。
 車内では鎧戸を下ろして居りましたので、
何処を走っているかは皆目見当が付きません。

 着いた所は広島でした。その日の内に急改
造の貨物船に乗り込みましたが、誰に聞いて
も行き先は不明でした。下関であろうと思う
ところに停泊、燃料を補給した貨物船は(輸
送船)は押入れを積み重ねたようなものです。

 聞くところでは貨物船の速力は8ノットと
言うことでしたが、ジグザグ進行なのでなか
なか進みません。船団は八艘位だった様に記
憶して居ります。外海に出た様に思ったら、
島らしい所に着いて、船はどうやら錨を落と
した様子でした。
軍服での記念写真
 入浴のため下船を命ぜられましたが、海事の基地に成っている佐伯港(?)とのことでし た。吾々の船の舳先には不造の擬砲が取付けられ、船尾にはやはり不造の高射機関銃が取付 けられて居るのです。  佐伯港出港直後から海は大荒れで、吾々の90%は船酔いのため勤務不能となりました。舳 先には対潜看守兵、船尾には対空看守兵が交代で立つ事に成って居りましたが、私はとても 交代に立つ事ができませんでした。  そうした日が四〜五日続いたように思って居ります。  海がようやくにして静かになったと思ったら奇妙な島々が見え、近づくにつれ、椰子の木 が島に見えるように成って来ました。戦友達は大喜びでしたが、港内に着き下船命令により、 各自装具を付けて下船した所はパラオ群島と言うことが分かりました。  早足行軍と成りましたが、当時日本が統治していた所でしたので、気持ちとしては安心し ながら行軍を続けました。マラカルロ島と言うパラオ本島と道路続きの島のパイン畑の中に 各分隊ごとに小屋を作る作業に移り、夕刻までには雨露を凌ぐことが出来ることに成りまし た。  パイン畑と言っても収穫の終わった疲労しきった畑で、パイン等は一つもなく、何時まで 居るのか、この先何処に行くのか依然として不明でした。その後、二ヶ月位当地に滞在して 居た様に思います。  ようやく出発命令が出て、元の貨物船まで行って見ると、そこで初めて船首に本物の砲が 一門取付けているではありませんか。船尾には高射機関銃が据付完了後出発と言うことに成 ったのです。  出発数日後、吾々の行く先はニューギニアであることを知らされたのです。  依然としてジグザグコースで運航されて居るので、何日後にニューギニアに着くのか全然 分かりません。数日の間は、駆潜艇一艘と哨戒機一機が前後しながら警戒して呉れてはいま したが、途中でそれもなくなり、単独進航となりました。  数日後の夜「右前方に潜水艦見ゆ」の伝令の声に、救急食と救命具を持って甲板に全員集 合と成りましたが、中には血の気がない程驚いた人が多かった様です。自分もその一人では なかったでしょうか!

■其の三
 右前方に潜水艦見ゆ、の声に蒼白になって震い上がっていた私共でしたが、時がたつにつ
れ、段々に冷静を取り戻し、何事も無かった事を喜び合いながら各々の押入れのような室に
戻りましたが、もし魚雷が発射されていれば、一発の魚雷で我等は貨物船(輸送船)諸共南
海の藻屑となっていたことでしょう。

 翌日からは何事もなかった様にジグザグ運航を続けたのです。赤道に近づくにつれ南の海
面は鏡のように波一つない静かな海面になりました。赤道を通過し幾日か過ぎてから一機の
哨戒機がやって来ました。それを見た吾々は目的地が近くなってきた事を悟りました。
 それから数日して陸地が見えて来たので、ようやくにして無事に辿り着く事ができた事を
喜び合った事でした。
 着いた所はニューギニアのウェワークと言う所で、地図によると二重丸の印があるので大
都市とばかり思って居りましたが、意外や意外、道路らしきものもなく、人家らしき所も見
えず、時折黒人(原住民)が裸で異様なフンドシにパーマ姿又は丸刈り頭に腰ミノ姿を見る
だけでした。
 ただ、パラオで呑んだ椰子とは違って、本当にうまいと思いました。吾々はその前に輸送
船から種々様々な物の荷揚げ作業がありました。本船がダイハツと呼んで居る我が国の上陸
用舟艇で運ばれて来た物を陸揚げするのです。そのダイハツと言うものは双胴になって居り、
後尾にウィンチにワイヤロープで巻き付けた錨があって、適当な所に錨を落として全速で陸
地に突進浅瀬に乗り上げて舟を止め、荷揚げが終わるとウィンチに依ってロープを巻けば錨
の所までは人手に頼らずに戻って行けると言う仕掛けになって居るので、大変に便利である
と思いました。

 甘味品、米・塩等々、武器弾薬類もあったと思いますが、驚いた事には農機具類が多数あ
ったことです。「吾々は百姓をする為にニューギニアまで来たのか」と言う声が所々で聞こ
えました。たぶん幾種類かの種子類等も積んであったことと思います。
 数日後に吾々の駐屯地が決定され、夜間にダイハツによってハンサと言う所に着きました。
此処も見渡す限りの椰子林です。此処は吾が軍の大兵站基地でした。

 日時の記憶はありませんが、ハンサにて或る時、分隊の荒井上等兵が熱病に侵され入院し
ましたが、病状が日毎に悪化し三週間位で部隊最初の犠牲者となられました。

 吾々は四四兵站警備隊と言う事で戦闘部隊ではないので、軽装備の部隊で重火器としては
歩兵砲中隊が一、重機関銃中隊が一で、各中隊に軽機関銃小隊があり擲弾筒班があると言う
部隊編成でした。
 私は小銃分隊でしたが、前回十四年の召集時に擲弾筒の筒手を習得した実績が有った為か、
現地で擲弾筒の方に廻されてしまいました。

 ある時擲弾筒の実射をやる事になり、私も入念に筒の手入れをして実射場に行き、命令通
りに準備を整え、実弾としては初めて弾薬手の装填の後に引鉄を引いたのですが、どうした
事か私の筒は発射しないのです。
 後方で見守って居た人達も驚いて段々と遠のいてしまいました。筒手である私は筒を捨て
て逃げる事は許されません。数年前の訓練通り距離調整用の捻子を静かに押し上げて、信管
の割ピンが抜き取ってあるままの弾を静かに静かに弾薬手に筒より抜き取らせ、距離計を元
に戻して再度の装填となり、神に念じつつ、引鉄を再び引きました。二度目は大成功でした
のでほっとした次第です。

 数ヶ月して吾等第一中隊の警備地点が決定され、中隊の主力はウリンゲン、吾等第一小隊
はその又前線のブナブン、と言う地点になり、移動開始の行軍となりました。ウリンゲンも
ブナブンも原住民の小屋を利用することができたので、小屋建設はせずに済みました。戦況
が悪化するまでは同じ地点に留まって居たのですが、その間は全くのんびりした戦地生活で
したので、センチに居る様な気分にはなれませんでした。

 しかし、一年経過してからが大変に成った訳です。

   戦地での集合写真(場所は不明)

■其の四
 ブナブン地区に駐留して居たのは一年間位のように記憶して居りますが、その期間はとて
も戦地と言う気分では有りませんでした。下駄履きで毎日が遊びのようでした。ジャングル
にパパイヤやマンゴーを取りに行ったり、又は煙草の空き箱を集めて二枚宛貼り合せにして
花札を作って、花札遊びをしたり、又小隊長室では麻雀牌を作り、麻雀遊びをしたりして居
た事がありました。
 その間、茄子畑を作って収穫しましたが、温暖な気候でしたので何時までも何時までも茄
子が収穫できました。私は花札遊びと言う遊びを知らなかったのですが、私の分隊に須崎文
弥と言う面白い兵隊が居り、その人に花札を教えられ、煙草一本位のカケでよくやった記憶
が有ります。

 三十七年も過ぎて居りますので、記憶も定かでは有りませんが、当の須崎と二人で中隊本
部のウリンゲン迄伝令に行かされた事がありました。伝令としての任務も終わって戦友達と
山に這入りそこで又々花札遊びにふけって居りますと、突然敵のノースアメリカンと言う双
発の戦闘爆撃機三機に依る攻撃を受けました。当方の被害はありませんでしたが、重機分隊
が応戦し、一人の射手が「自分の撃った弾が命中したように思ってなりません(曳光弾に依
り判明)」とのことでしたが、丁度その騒ぎの最中に山の遥か向うの方でドカーンと言う音
が聞こえまして、あれは敵機の墜落の音かも知れませんと言う話でもちきりとなりました。
 ところがその時にたまたま中隊長室に来ていた輸送指揮官の北園少将が出て来て、日本の
重機ではノースアメリカンは落とせないよと言われ、戦友達特に「俺が撃った弾が命中した」
と思って居た射手は不満そうでした。

   戦地での集合写真(場所は不明)



★ 本文について ★
 本文は、私の父・晴三が生前所属していた「日研 川崎北部支部 北部へら鮒釣研究会」の
会報『魚らく』に1980〜1981年にかけて寄稿・掲載されたものです。
 諸事情により、話の内容は上記の通り中途で終わっておりますが、父は 1994年9月25日に
80歳の誕生日を目前にして他界してしまったため、大変残念ですが本文の続きはありません。

 手先が器用だった父は、手近の物を利用して釣り針などの道具を手作りして魚釣りもした
と話していました。また脱皮したばかりの蟹が美味しかった話もしていました。
 昭和21年、終戦によりニューギニアから日本に無事戻りましたが、戦地では戦闘には一度
も加わらずに済んだこと、幾度となく爆撃には遭ったものの…

    爆撃を避けるべく防空壕に退避していた時、壕の一人が「おい○○、あそこを行軍
    しているのはお前の班ではないのか」と呼びかけられ、「それでは私は、あちらへ
    移動します」と、その防空壕を出て行軍に加わった直後にその防空壕が爆撃を受け
    てしまった…。

 奇跡的にも無傷で帰郷の日を迎えることができたことは、非常に幸運だったと思います。
現地ではマラリアに罹り高熱で倒れたこともあったとのことですが、幸いにしてこれも命を
落とす程には至らずに済んだようです。
 もちろん、もし父が戦地で不幸にして命を落としていたなら、私は誕生して居りませんし、
私の子供たちも当然生まれては居りません。当ホームページを通して皆様と知り合いになる
こともなかったでしょう。

 生前、父は折りにふれて従軍の経験談を聞かせてくれましたが、私達家族は「また始まっ
た」と言う思いで、熱心に耳を傾けることはなかったように思います。今更ながら話をしっ
かり聞いておくべきだったと後悔する次第です。

 本文を亡き父、並びに戦地ニューギニアで父と苦楽を共にされた戦友の皆様に捧げます。

                                  (文責:swing)