− 戦中・戦後の私の記憶から −

2010.09.25 by とし子

 四十何年か前の事で、つまり戦争の頃のことです。(注:本文は昭和63年に書かれました。)

 私は昭和16年10月に21歳、夫・晴三は27歳で、岩手県の宮古で結婚しました。
昭和18年2月に田老の実家で長男(まーちゃん)を出産しましたが、その一週間後に夫に赤
紙(召集令状)が来ました。それから間もなく夫は水戸の連隊に配属されたと聞きました。

 私の実家は大家族でいつも賑やかで、ちっとも淋しいことはなかった。産後40日目で宮古
に帰り、それから義母と一緒に主人の郷里・茨城県土浦市に引越しました。
落ち着いたところは主人の義姉妹の所です。義母がよければそれでいい、私は義母に従うつ
もりで付いて来たのだから。
 義姉(当時33歳)のご主人は戦死したと聞いています。義妹は当時私と同じ21歳で未婚で
した。土浦に着いた日から5人の生活が始まったわけです。「所変われば何とやら」とよく
言いますが、まったくその通りで、岩手と茨城では「1から10まで」と言っていいほど、
やる事なす事が違う。

 私はかなりとまどったものです。ここからが私の奮闘努力していく…我ながら涙ぐましい、
だけど泣いてたまるか、泣かされてたまるか、一つずつ馴れて努力していくしかないんだ…
と、私の茨城の生活が始まりました。

 本土は、戦争と言っても最初は意外と気楽に暮らしていたのだが、何しろ食糧事情が大変
悪く、何でも配給で甘いものもなく、お砂糖の配給の時も一列に並んで順番を待つ。やっと
自分の番になって渡されたお砂糖はほんのちょっぴり。また、パンと言えば真っ黒なパンだ
った。
 私は野草でも何でも食べられると言うものは何でも食べたように記憶しているが、だけど、
その真っ黒なパンだけはどうしても食べられなかった。…何で作ったパンだと思いますか?
…フスマ(小麦粉を取った後のカス)つまり家畜の餌で作ったものなんです。
そのフスマとサツマイモの葉を粉にして混ぜて作ったパンだと聞きました。この頃のことを
思ったら贅沢などは言えませんがね。時代の流れでしようがないことなんでしょうか。
 また、空襲警報用の電球があって、周りが青で下だけぽつんと明るく、それに黒い布でカ
バーを作り、空襲警報発令になると黒いカバーを下ろして周りを暗くする。その他、色々キ
リも限りもないほど…、でも自分たちだけではないんだから、ぐちも言えず、国全体がそう
だったんだと思います。

 外地、ニューギニアに行かされたという夫のことも、初めは大変心配しました。
 ニューギニアからも初めは便りがありました。私も子供の写真を添えて「こんなに太りま
したよ」って便りを出しました。義母は孫のおんぶをすごく楽しみにしていましたし、義姉
妹も子供のことは大可愛がってくれました。
 18年5月5日、長男の初節句だなんてぜんぜん忘れていましたが、夫の勤務先の会社から
お祝いと「カブトの色紙」が届いた時は、ほんとに涙が出るほどうれしかった。また、時々
は田老に帰りたくなって、半年に1回は帰っていたように記憶しています。帰る時は、決ま
ってサツマイモで作ったアメ…黒光りに光っていた…を買って行く。このアメは当時は高級
な方だった。皆で分けて食べたものです。

 また土浦の話になりますが、義妹は時として影になり日なたになりして私をかばってくれ
ました。義姉はどう言うわけか時々チクリチクリと針を刺すがごとく…しかしここが我慢の
しどころで、負けるもんかと歯をくいしばる(ただし心でつぶやくだけ)…だけど、泣いて
たまるか…。
 でも、正直、1度だけ泣いた、トイレの中で。でも冷静になって考えてみると、子供を可
愛がってくれるんだもの、だからこれは五分五分だな、そう思うことにしました。

 頼りにしていた義母は、残念なことに病気のため息子の帰りを待たずに19年4月に亡くな
ってしまいました。苦しい中で無念に思いながら息を引き取ったかと思うと、何とも言えな
くて哀れに思いました。

 義姉は航空隊に勤め、義妹は町の洋裁店に勤めましたが、その後二人でミシン屋を始める
ことになりました。ミシン掛けでは二人とも相当の腕前で、“ガード下のミシン屋”と言え
ばその界隈ではかなり有名になりました。
 私は腕前では到底足元にも及ばないことは分かっていましたが、やはり私にも意地があり
ましたから、子供と一緒に留守を引き受けて家事全般、合間を見て近所の縫い物(ミシン掛
け)もしました。涙ぐましいほど一生懸命に、です。

 私はこの頃から物事を割り切って考えるようにしました。戦地の夫は夫で、頑張っている
と思う、私は私なりに留守をしっかりと、笑われないように、一日一日を精いっぱい生きて
行くために、また、義姉妹たちともできれば仲良く暮らして行きたいために、たとえ明日に
食べる米、味噌がないとしても、決してくよくよしない、泣き言を言わない、何とかなる、
そう言う気持ちで、また明日を迎える、その日その日を生きて行くことが切実だったからで
した。

 その後、いろいろと真剣に考えました。つまり、お金が入る道のことを。おとなしくして
いても誰も助けてはくれませんから。
 そこで実家(田老)の父に相談してみました。そして間もなく父は、米俵で若布(わかめ)
をどんどん送ってくれました。「とし子頑張れよ」と言ってるようで、ものすごくうれしか
った。
 その若布をハカリに掛けて小さな束を作り、毎日のように少しずつ土浦の「ざい」に子供
をおんぶして売りに行きましたが、みんな気持ちよく買ってくれました。また、父は時々小
女子(こうなご)も送ってくれました。私は自分なりに味付けをして、お椀一杯幾らという
感じで売りに行きましたが、これもまた評判がよく、

  「また持って来てくれっけぇー」と頼まれる。
  「ありがとうございましたぁ。また持ってきますからぁ」と。

本当にうれしかった、有難かった。
いつも感謝していました。

 空襲もだんだんと激しくなり、子供をおんぶしてオシメを入れたトランクを提げて防空壕
に入ったりという日が多くなり、土浦は航空隊があるので危ないと誰もが言っていました。
それで、土浦から2里ほど奥の中根というところ(主人の実家)に疎開させてもらいました。
疎開先の義兄の家は農家で、米、野菜などを沢山作っていた。義兄夫婦と男の子5人で、7
人家族。私と子供がお世話になることになったので、9人の大家族になったわけです。
 私の仕事は家事全般、合間を見て畑の草むしりなど。農家のため、食べるものは意外と豊
富だったので、何よりも助かりました。毎日毎日、じゃがいもの皮をむき、細かくきざむ。
じゃがいもがゆを作る。でも、じゃがいもがゆは高級なほうだった。
 中でもこれはもう他では食べられない、すごく美味しいと思ったのは、もぎ立てのとうも
ろこしをサっと周りを焼いて、塩でよし醤油でよし、そのままでよしと、これは天下一品だ
と私は思いました。男の子が6人だから、時々は喧嘩もしていたけれど、食べることになる
と皆親切で、食えよ食えよと、そりゃあもううれしかった。

 そんなこんなが続き、やや一ヶ月も経ったでしょうか。ある日、何となく土浦に行ってみ
たくなって…。おんぶの子供と荒川沖という駅まで行こう(1里)。かなり暑かったけど、
なあに若いから子供をおんぶしても歩くことは全然苦にならない。もっともバスはなかった
し、歩くのが当たり前だったから…。

 そうです、1キロも歩いてないと思う。はるか向こうの方から「B29」が不気味に編隊を組
んでうなって来た…X字のように…何十機だったのか?(一瞬ものすごくきれいに見えた。
でも今は戦争である。そんな風に思ってはいけないんだ。)
 瞬間、「ア、撃たれる」。…素早く林の中に逃げ込んで伏せた。そこは中根方面では「お
林」と呼んでいる辺りだった。茶色の縞の風呂敷を子供の頭にかぶせて、声をころして「畜
生、撃つなら撃ってみろ、ぶっころしてやるから」、私の精いっぱいの声なき叫びだったと
思う。

 となり近所の世間話に聞いていたことですが、敵は撃つときは斜めから撃つ、真上からは
撃たないと。
私はそれを信じた。B29の編隊はたちまち真上に来てしまった。大きなため息が出た。
思わず、

  「はぁー、助かったんだぁ」、
  「まーちゃん大丈夫か」、
  「うん」。
  「よかったなぁ」。

でもすぐには立ち上げれなかった。B29のうなる音が遠ざかるまでは。
正直言うと震えるほど怖かったんだ。
その辺の草木にしがみついていた。
もう土浦まで歩いて勇気は消えていました。

 中根の家に戻ったのは昼過ぎだったと思う。重大な放送があると言うので、皆でラジオの
前に正座をして聞いた。静かな口調である。放送の声は、恐れ多くも、天皇陛下だったんで
す。時々雑音が入るので、ラジオを二、三度叩いていた。放送が終わっても皆黙りこくって
暗い顔をしていた。私もあまりよく聞きとれなかった。

  耐え難きをを耐え、忍び難きを忍び…
  ポツダム宣言、

とその辺だけを記憶しています。

 翌日、誰と話をするわけでもなし。庭を掃いていたら、隣のおかみさんが私の肩をポンと
叩いて、

  「喜べや、まーちゃんらの父ちゃんが帰ってくっとー」。

 半信半疑だったけれど、それで大体の察しがついた。昨日の B29の編隊を見たのは8月15
日、終戦の日だったんです。主人の帰って来ることが確かでありますようにと祈りながら、
とにかく土浦に行ってみることにしました。これからどんなことになるのか不安にかられな
がら。
 ところが土浦に着いてみたら、そりゃあもう町中が大騒ぎをしていました。

 大騒ぎの内容はこうである、

  「アメコー(アメリカの兵隊)が上陸して」、
  「おらだつが…おめえだつもだー」、
  「バッタバッタとやられっからー」。
  「もっともその前に薬が配給されっぺがらー、覚悟しておけやー」

と言うようなことだった。
これは大変なことだ。全く信じていいものかどうかも分からず、かと言って全くウソだとも
言い切れない。
私も非常に不安になってきた。

 私は考えた、

  「でも、こんなところで野垂れ死にしてたまるか」。

私にも意地がありましたから。

 何はともあれ巻き込まれないうちにと思い、さっさと田老に帰りました。
 主人は絶対に生きて帰って来る。その時は田老に来るはずです。それを信じて…
そのころの汽車といえば窓から乗る人もいればぶら下がっている人もいる。汽車の中はごっ
た返し、想像を絶するものでした。最近時々テレビ映画でもやりますけど、まさにあの通り
でした。この頃はテレビでもかなりリアルにやりますからね。

 …後先の記憶が定かでないところもありますので、「こんなこともありました‐その1、
その2」と、
こんな形で思い出しながら書いてみます。


◇その1
 昭和19年6月だったと思う。当時、私24歳、妹「八重ちゃん」18歳。突然 妹が土浦に来ま
した。その日は義姉妹も家にいました。当時、妹は私のことを「トッチャン」と呼んでいま
した。

  「トッチャン、迎えに来たよ。アンチャンが兵隊に行くんで、今すぐ、早く早く」、

 妹はそう言う。私はあわてた。
 義姉妹が恐い顔をして(この時は特に)じっと見ている。私は困り果てました。妹は言う。

  「トッチャン何マヤマヤって。早くしないと汽車に間に合わないから!」

 柳ごうりに着替えを詰めたり、荷札を買って来たり、全部妹がやった。そこで、私も割り
切った。口には出さなかったけれど、何もこの家に嫁に来たんじゃないんだ、まごまごする
んじゃない、しっかりしろと、自分で自分に言い聞かせて…。

 妹は私の手を引っ張るようにして土浦の家を出た。おんぶの子供と三人で、一路田老へ。
本当にアンチャンが兵隊に行くのに間に合ってよかった。私たちの帰りを家族皆が待ってい
て、喜んでくれた。
この時のことは、とても有難く、今でも妹に感謝しています。


◇その2
 妹が女子挺身隊で横浜に来た時のことです。

 ある日、土浦に遊びに来た。この日は子供と留守番をしながらミシン掛けをしていた。妹
が来てくれたことがとてもうれしかった。今だったら「あそこが美味しいから、あそこへ食
べに行こう」、「それとも家でゆっくりお寿司でもとって食べようか」と、どちらの家でも
そうじゃないでしょうか。

 ところがその当時は何もなし。サツマイモが一番のご馳走で、サツマイモをドンとふかし
て食べさせたり、持たせたりしました。
 ところが、後になって聞いた話ですが、自分で食べるのも友達に上げるのももったいなく
て、柳ごうりの中にしまっておいて腐らせてしまったという。笑っていいのか?私はむしろ
悲しくなります。


◇その3
 朝からさわやかな日で、例によって例のごとく、おんぶの子供と土浦の「ざい」に若布を
売りに出かけました。いいかげん山道を歩いて行く。

  「ワカメいかがですかー」
  「かあちゃんにばかりしゃべらせないで、まーちゃんもしゃべってみな」
  「ワカメいかがですかー」って。

 しゃべる気持ちはあるらしい。まだ片言だったが、それでも何かしゃべってた。

 今日はもう手当たり次第に当たることにした。一軒目の家のところで足が止まった。

  看板がかかっているなあ、
  古びていて字も読めないや、
  とにかく当たって砕けろだ。

  「こんにちは」。

 そこのご主人を見てすぐに職業が分かった。間もなく奥さんも出て来て、にこにこしてい
た。
 少しためらっていたけど、私は度胸を決めた。

  「あのー、ワカメですけど、いかがでしょうか」と。

 ところが、ご夫妻とも非常に喜んでくれた。
 そこのご主人が言った、

  「うちには誰も寄ってくれないんだよ。よく寄ってくれたね。」

 気持ちよく若布を買ってくれた。
 私も、幸先よろしく、実にうれしかった。

(さて、ここで問題です!)
(この家はどんな職業だったでしょうか?)


◇その4
 何でも「配給」「配給」で、隣組から口伝があった。

  「きょうは魚屋さんで、ナマリの配給だよー」

ちょっと不思議に思った。…だってどうして魚屋さんで“鉛”の配給があるんだろう?
そのナマリを何に使うんだろう、世の中も変われば変わったもんだなあと思いながら、何は
ともあれ、魚屋さんに行った。
 そうしたら、「ボヤブス(田老名)」のことだったんですよ。
 なるほど、この辺ではこれを「ナマリ」と言うのか、初めて知り、そこでまた一つ勉強に
なったわけです。


◇その5
 戦時中も全般にわたって大変だったが、戦後はもっと大変だったように記憶しています。
もちろん食糧事情は全く悪い。しかし生きて行くには食べて行かなければならないんです。

 当時、物々交換と言っていましたが、土浦の家に反物を運んでくる若者(義姉の知り合い)
がいました。その反物をお米と交換するのが仕事です。私にもやらせてくださいと義姉にお
願いして、私なりに頑張ることにしました。

 土浦には「ざい」が沢山ある…今日はどっち方面に行こうかな…自然に足の向く方に決め
る。
 おんぶの子供と話をしながら…
 さて、どこの家にどんな娘さんがいるのかな…、と。

 農家に行くんです。決まっておじさんかおばさんが農作業をしている。
 私は明るい声で、

  「おじさん、おばさん、こんにちはー、暑いのにご精が出ますねぇー。」

 当てずっぽうでも、

  「娘さんにすてーきな反物を持ってきたからー」、
  「手ぇ休まして悪いけんど、見てくれっけー」と。

 返事が、

  「そうげぇー、うんじゃ見っかぁ」

 私の顔と反物を見ながら、

  「なかなかええもんだなあ」、
  「柄もええしなあ。」

 気に入ってくれたようでよかった。

  「おめえもこの暑いのによー、チビおぶってよー、感心だなやー」
  「ところでおめえ、どっから来たんだや」
  「オレ、小松んどこのガード下のミシン屋だぁ」
  「あぁそうげぇ、ガード下のミシン屋げぇ」

 するとおばさんが、

  「んだよ。父ちゃん、ガードをくぐっとよぉ、すぐだっぺなぁ」
  「知んないことはなかっぺなぁ」

 ちらっと話に花が咲く。

 義姉から言われた通り、私も、

  「お米3升ぐらいじゃどうだっぺねぇ」
  「んだなぁ、おらもそう思ってた。よかっぺ」

 欲深いことはこの際なしっこだと思っていたから。でも付け加えた、

  「山盛りでも持って行けっからぁ」と、

 これは冗談のつもりで。

  「大丈夫だぁ。しっかりまげでやっからぁ。」

 農家のご主人も奥さんも、私がどこの人間かが分かって安心したようでした。
帰りは山道も何のその。足取りも軽く、チビと童謡などを歌いながら。


◇その6
 夫は復員後、東京・神田の会社に勤務していました。会社の帰りには、“アメ横”でお菓
子や洋服など色々な品物を少しずつ仕入れて来る。そして翌日、それを私が町に持って行っ
て売りさばく。

 今日の品物はカーキ色の男物の純綿のシャツ…。
 この日もまずまずのお天気模様。寒かろうが暑かろうが、子供はおんぶが一番!
 今日もまたおんぶで、売り物のシャツ5枚を持って明るい気持ちで家を出る…。

 外で立ち話をしている人に声を掛ける。

  「あのー、純綿シャツですけどぉ」、

 と言って実物を見せる。
 と、たいていの人が、

  「あぁ、あんた釜石げぇ」

 と言う。

  「えぇ、そうです。でもお客さん、ほんとによく分かるんですねぇ。」

 するとお客さんが、

  「だっておめぇ、“純綿”がなまってたもんやなぁ。」

 思わず笑っちゃう。

  「どうしてもお国ナマリがでちゃうんですよぉ」…。

 立ち話をしてた同士で、

  「買ってやんべぇよなぁ」と。

 5枚がペロっと売れちゃった。
 うれしくて、感謝の気持ちを、そこで下手な歌でも1曲歌いたい気持ちになるけど、まさ
かそこまではできません。またよろしくお願い致します。と、帰りは何か美味しいものでも
買って行けたらよかったんですが。
…どこへ行ったんでしょうね、お菓子の数々、美味しいものなど…ほんとにそう思いたいぐ
らいに、何にもなかったんです。

 でも、いつか、いい時が来るんだ。悪いほうに考えたら、きりも限りもない。それに人間
が暗くなる。物事は良いほうに考えることにしよう。道々そんなことを思いながら、今日も
また足取りも軽く、

  「おい、チビ助、母ちゃん、天才…かなぁ」(これはほんの冗談です。)

 何秒間かだけ威張ってみたりして。

 現在は、何でもあり過ぎて溢れていますね。戦時中も戦後も、物のない時だったからこそ
出来たんだと思います。
 それに私も若かったし、頑張れたんだと思います。付け加えますと、行商に歩いて、ただ
の一度も意地悪されたことはありません。私も旅に出たようなもので、人の情け、親切を身
にしみて感じました。

 また一つ一つが大変勉強になっています。

 最後に、言うまでもないことですが、戦争とは、要するに、絶対、戦争なんです。
 これはもう絶対にやってはいけないことなんです。
 私たち大人はこれから育っていく子供たちに言い伝えて行かなければならないことですし、
あなた方子供さんたちも戦争は決してカッコいいものだと思わないで頂きたいのです。

 木月に住んでいるおばあちゃんからの忠告と致します。

 今回はここまでと致します。
 分かりにくいところが多々あると思いますが、何卒よろしくご判読ください。

                          昭和63年5月3日、とし子(68歳)

◇追記1◇ 田老人会、集会の時

 私にこういうことを聞いていたA君がいた。

  「○○さんはご主人が兵隊から帰って来た時に、取りすがって泣いた?」
  「ほら、ドラマなんかによくあるでしょう、ああいう風に。」
  「オレも1度ああいう風に泣かれてみたかったなあ」
 と。

 さあどうだったかな。記憶をたどってみようかな。

 主人は昭和18年3月に出征。昭和21年1月、ニューギニアより復員。
 復員は土浦の義姉妹のところ。
 私は、その頃、親のそばでのうのうと大家族の中で賑やかに暮らしていたんです。主人か
らは復員後に手紙をもらいました。生きて帰ってくることを信じていたから、そりゃあやっ
ぱりうれしかったです。家族皆で喜びました。

 それから二ヶ月経って、主人は田老に来たんです。私はバス停まで迎えに行きました。紺
のジャンパーがよく似合う人がバスから降りてくる…
  主人に似ているけど、すごく太っているし、おかしいなぁ。
  ニューギニアは食糧がないと聞いていたから
…でもやっぱり主人だった。

 顔を見たら涙がこみ上げて来そうで、…ここは町の真ん中だよ…私は大分間をおいて、後
から歩いて行きました。家に着いて、アヤヤー迎えに行ったのに御免。とにかくお帰りなさ
い。本当にご苦労様でしたと、心から言いました。
 私の姉たちも来ていて、オラオラ、オラオラ、マアマア、マアマア、よくご無事でと、賑
やかに迎えてくれた。主人もうれしかったと思います。

 A君が言ったように「取りすがって泣く」なんてとてもできない。たとえ土浦にいたとし
てもできなかったと思います。こう言うことは、その時の環境にもよるのでしょうか。

 その後、テレビドラマでもちょいちょいそう言う場面があった…そう言う場面を見ると、
決まって主人は言う、

  「オレの時はああ言うことはなかったね」と、

 何度言われたことか。
 その都度、私は「あれはドラマ。ドラマだから、あのようなクライマックスがあるんです
よ。だから見る側も感動するわけ。本当にドラマはいいね」と。
 私は別に弁解しようとも、ああだこうだとも言う気もありませんが、しかしここで負けて
いては私なりの3年間の苦労が水の泡ですからね。

 戦時中のニューギニアのことは、主人からいろいろと聞きました。聞けば聞くほど、生き
て帰れたことが不思議なくらいです。「紙一重」と言うか運が強かったんでしょうね。もち
ろん本人の頑張りもあったんだと思います。

 主人が配属になったのは一つの中隊で 250名位。その内、復員したのはたった4名。この
ことだけでも、生き延びることがいかに大変だったかが分かります。
 また、悲しみのどん底に落とされた人たち。まだまだ私たちの知らないことが沢山あると
思います。私の苦労などとても苦労の中には入りません。ただ、私なりに3年間頑張って生
きて来たことだけは、胸を張って言えるような気がしています。


◇追記2◇ 一生に一度の失敗談
 主人は復員後1年半ほどは義姉妹と一緒に暮らしていました。戦後間もなくだったと思い
ますが、お金が「新円」に切り替わって、私たちは借家だったんですが、その大家さんが家
を売りたいと言って来ました。それで、私たちが買うことになりました。5,000円でした。

 昭和22年5月に次男が誕生しました。義姉妹はちょうどその頃、他に所帯を持つことにな
って私たちの家からは出て行きました。私は家を守るために、ここに落ち着きました。当時
は食糧事情はますます厳しくなり、竹の子生活とか玉ねぎ生活とか言っていました。

 その頃、ご近所の奥さんたちはバスに乗ってお米の買出しによく行きます。そのお米を東
京のお寿司屋さんに持って行って売る。つまり「ヤミ米」です。
 しかし、人のことを言っている場合じゃないんです。当時は多かれ少なかれ「ヤミ」をや
らなかった人はなかったんじゃないでしょうか。「ヤミ」をやらないと生活が成り立って行
かなかったように思います。
 当時の波にのって、私もお米の買出しに行きたい。そこで、ご近所の奥さんに紹介しても
らい、子供たちを裏の奥さんにお願いして…

 ある日、さわやかな朝だった。

 私は標準服、緑のモンペ姿でお米買出しのため、一人でバスに乗りました。目的地の○○
さん宅に着いて、お米5升(約7キロ)ほどを買いました。うれしくて、意気揚々としまし
た。自分のお金で買ったんだし、他に売るためではない。たまにはギンシャリで食べたい、
食べさせたい。その一心で買い求めたので、誰にはばかることなく、周りを気にするでもな
く、大国主命じゃないけれど、ヨッコラショヨッコラショと担いで帰りのバスに乗りました。

 バスが走り出して間もなく、私の肩をトントンと叩く人がいて・・・

  「それお米ですね」
  「はい」
  「ここで降りて下さい。」

 二人の私服のお巡りさんに促されて、バスから降ろされた。

 私の他にもう一人の奥さんと男の人が一人、三人が一緒に降ろされました。
 私は黙りこくって歩くのが非常に惨めに感じたので、一緒に降ろされた奥さんに話しかけ
ました。すると、お巡りさんが、

  「ハナシをするんじゃない!」と、

 大きな声でどなりました。

  「なるほど、そう言うものかなあ」と、

 恐く思いました。

 私は一人、一緒に降ろされた他の二人とは別の交番に案内されました。その交番には若い
お巡りさんが二人いました。そこで質問されました。まず、

  「名前は?」
  「はい、○○トシコです。」

 すると、左側のお巡りさんが右側のお巡りさんに肘でつついて、

  「おい、○○、アンタの女房と同じじゃねぇか」

 話の内容を聞いていると、どうやらそのお巡りさんの奥さんが偶然にも同じ「トシコさん」
だったようです。しかし、職務は職務と言った感じで、一寸厳しく、

  「お米は買って来たんですか、もらって来たんですか?」

 私は、

  「買って来ました。」
  「相手の名前は?」
  「さあ、分かりません。」
  「名前を言えば許して上げますよ。それにすぐに帰れるんですよ。」

 しかし、名前を言えば紹介先にまで迷惑が掛かるかも知れない。絶対に言えない。

 でもこれだけは言わなければ…

  「決して他に売るために買ったんではないんです。」
  「育ち盛りの子供が二人待っているんです。」
  「これは本当です。」
  「お巡りさん、信じてください。」と、

 必死でお願いしました。

 二人のお巡りさんは私にリラックスさせたいと思ったのか、態度が柔らかくなりました。

  「いやぁ、どう見てもヤミ屋をする人の様には見えないよ。」
  「あんた、そのお米はもらって来たんだろう?」、

 二人で声を揃えて言った。
 私は、

  「いいえ、買って来たんです。」

 するとまた、

  「何を勘違いしているんだ。もらって来たのに決まっている。そうだろう?」

 私はまた、

  「いいえ、買って来たんです。」
  「そうかぁ、じゃぁ仕方ない。そのお米は没収。それに本籍を書いてください。」

 そう言われて、私は一瞬迷いました。茨城を書くべきか、岩手を書くべきか…もし茨城を
書いて意地悪されると、私の気持ちが許さない。「よし、決まった。」…岩手を書くことに
しました。

  「本籍は書きますけど、田舎の父が病気で寝てますので、これ以上心配を掛けたくない
   ので、知らせないでください。このことを約束して頂けますでしょうか。」

 と、お願いしました。

 お巡りさんは、

  「そうか、分かった。知らせないと約束する。」

 それを信じて何となく安心しました。ただ、カラ身で帰る自分が情けなくて、空しくて、
朝はあんなにさわやかだったのに、…今日は運が悪かったんだ…そんなことを考えながら、
バスに揺られて帰宅しました。

 二人の子供たちと共に、夜になって昼間の出来事をしみじみと反省しました。冷静になっ
て考えてみると、せっかく二人のお巡りさんが私を助けようとしてくれたのに、私はとんだ
「八百屋お七」だったわけです。

  そうだったのか!
  何で私は「はい、もらって来ました」と言えなかったのか。
  もう弁解のしようもない。間に合わないんです。
  成るようにしか成らないんです。

 それから2〜3週間後、わが家に検察庁から「タナカさん」と言う男の人が来ました。メ
ガネがよく似合う人でした。罰金支払い通知書のような紙切れを持って、応対に出た私に田
中さんは、こう言いました、

  「奥さん、せっかく買ったお米は没収されるし、それにこのように罰金取られるんです
   よ。」
  「こんな惨めなことはない。これからは1円2円高くても、座って買った方がどれほどい
   いか。」
  「これからはそうしなさいよ。」

そう言うと、ゆっくりタバコを1本出しました。

 その時です。一生懸命ハイハイ(高ンバイ)をして、手に何かを持って、田中さんに渡そ
うとしている
…マッチでした。私もびっくりして、

  「アラララ、のんちゃん」

 検察庁の田中さんも、

  「へぇーえ、この子はまぁ…」と、

 びっくりしていました。
 田中さんはのんちゃんの頭をなでて、渡されたマッチで一服して、ニコニコして帰りまし
た。

 罰金は1,000円でした。

 その 1,000円をどうやって工面したらいいのか、出張中の主人に知られたら大変なことに
なる…できれば知られたくない。背に腹は代えられない。よし、着物を1枚売ることにしよ
う。未だ袖を通していない「お召銘仙」と言う生地の素敵な縞模様…私には愛着のある1枚
だったが、考えてもどうしようもないことで、急いで質屋さんに持って行きました。
 1,000円にも売れないかもと思いましたが、質屋のご主人は、ようく見て言いました。

  「すごく丁寧に縫ってありますねぇ、1,500円で買いましょう。」

 (この着物は私の姉のキクさんが縫ってくれたものでした)
 私は思わず元気な声で「はい」と答えました。

 1,000円払っても500円残る。そりゃもううれしかった。翌日早速罰金を払ってさっぱりしま
した。

 後にも先にも米の買出しはこの時の一度だけでしたが、その一度が要領が悪く、運も悪か
ったんですね。

 それから何年後だったか、当時のことを妹の八重ちゃんから聞いて驚いた。当時、妹は田
老役場の受付係をしていたそうですが、ある郵便が配達されて、妹が内容を読んで、びっく
りしたと言う。

  「○○トシコ、賞罰あるか、なしか」

 妹は昼の時間に、ちょっと用事を思い出したからと言って役場を抜け出して、父のところ
に行って相談したそうです。

  「バカー!、トシコに賞罰があるわけがない!」

 父は一筆書いて、

  「これを木村村長に持って行ってすぐにハンコもらって出しなさい。」

 そう言われて妹はトッチャンのためなんだ、ちょっとぐらいイヤな顔をされることは覚悟
の上で、その通りにしたと言うことでした。

 私が「八百屋お七」になったばかりに、父にも妹にも迷惑を掛けてしまったことに、申し
訳なく思いました。あの二人のお巡りさんも職務上だったんですね。突き詰めて考えると、
憎むべきは戦争のせいなんです。つくずくそう思いました。


◇追記3◇戦後20年後にわかったこと
 ある日、電話のベルが鳴った。
 主人が電話に出た。電話の相手は主人の妹だったようです。

 主人:「うちのヤツはお金のことになると全然記憶がないと言っているが、お前は知って
     いるのか。」
 義妹:「おっかさんに頼まれて、私がもらって通帳に入れた。」
 主人:「その通帳はあるのか。」
 義妹:「全部、おっかさんが亡くなった時に使った。」

と言ったそうです。

 つきつめて考えてみると、おっかさんは19年4月に亡くなっているし、主人が兵隊から帰
って来たのが21年1月だから、私はそこまで頭が回らなかったんですね。それで夫に代わっ
て私が受け取る分を3年間もポッポに入れられていたことを知らなかった。
 私は心の中で許してはいたけど、一言「姉さん、御免ね」と言ってもらいたかった。後で
考えたんだけど、私たち二人で義妹の家へ行って話を聞くべきだったように思いました。


◇終わりに◇

今年は、お蔭様で元気に卒寿を迎えることができました。
この機会にこれまでに書き溜めておいた私の戦中・戦後に経験したことやその時々の思いを、
まとめてみることにしました。

私事の拙文ですが、ご一読頂ければ幸いに存じます。

                                 平成22年9月25日
                            木月のおばあちゃん、とし子

◇お読み頂いた方へ(編集後記 by swing)◇

・お読み頂きまして有難うございます。

・本文は、ごく個人的な内容で、身内以外の方にお読み頂いても意味が分からないとことが
 あるかも知れないと思いますが、母の力強い生き方に拍手を送り、これまでの苦労にねぎ
 らいの気持ちを込めて...
 また、私にできる数少ない親孝行の真似事の一つとして、残しておいて上げたいと思い..
  もしかしたら、「読んで良かった」と思って下さる方もいらっしゃるかも知れないとも
 思いまして、ネットに公開させて頂くことにしました。

・16年前に父が他界し、父の兄弟・姉妹は既に皆さん他界しております。
 現在は、母の兄弟・姉妹も、母と妹の「八重ちゃん」(とそのご主人)のみが健在です。

・現在 母は100歳を目指して、デイサービスではデジカメを持参しては皆さんの写真を撮っ
 て楽しんでいます。
 そうそう、今でも「若布の仕入れ販売」もやっています。地方の方にはクロネコでお送り
 できますので、どうぞご用命下さい。ついでにちょっと宣伝でした。^^

   ★真崎のわかめ、とろろ昆布 

 私も母の生き方をできるだけ見習って、頑張りたいと思う今日この頃です。^^



◇とし子さん他界◇ ・母とし子さんは、昨年末の12月23日に高熱で入院しましたが、その数日後の12月28日に、  力尽きて他界いたしました。96歳9ヶ月でした。 ・もうじきクリスマス、年を越してお正月。  自宅では「寝たきり」になることはなく、車椅子で生活をしていました。近々寝たきりに  なるだろうことを想定してケアマネさんと相談していた矢先でしたが、残念ながら年を越  すことは叶いませんでした。 ・年明け早々の葬儀には、想定していた以上の多くの方々に駆けつけて頂き、冥福をお祈り  頂きました。  母の友人の皆さんも90歳を越えていて駆けつけることはできないものの、遠方より冥福を  お祈り頂きました。  今でも手紙や電話で、とし子さんの思い出話を聞かせてもらっています。  とし子さんは、ただただ「少しでも役に立ちたい」と言う思いのみで生きてきました。    とし子さんへ     優しい気持ち、これまで知り合った皆さんちゃんと受け取っていますよ!     これまで長い間、本当にご苦労様でした。本当にありがとう!     安らかにお休みください     宮古から送ってもらった「いくら醤油漬け」、最後の食事になっちゃったけど、     本当に美味しかったね!                                平成29年4月22日追記                                       swing