津  波

昭和8年 高二 赤沼とし子

アンダーラインの語句:分かりにくいと思われる語句には注記を付けましたので、マウスを当てて下さい。
  三月三日午前二時半頃、家の人達は皆すやすやと眠っている頃でした。急にがたがたと
 家が大きくゆれました。私はびっくりして床から起き上ったら、お母さんも続いて起きて
 子供達を起こし、着物を着せていました。その時は電気はもう消えていました。お母さん
 は色々と注意して、戸を開けたり何も危くないようにしました。

  それから間もなく小さい地震が起りました。びっくりした瞬間、電気はつきました。
 お母さんは安心した様子で、子供等に「電気がついて何も起こらないと思うから、着物を
 着たまま寝ろ」と言ったので、私も姉さんも子供等も着物を着、えり巻もしたままで床の
 中へ入りました。お母さんは寝ないで家の中を色々と注意している様子でした。

  少したったら、家のあたりをむすむすと人の走る気配です。そのために私は起きて子供
 達も起し、お母さんと二人で外へ出て見ました。お母さんは何回も 何回も、走る人々に
 火事だか何だか聞きましたけれども、誰も教えないでただむすむすと走りました。
  遠くの方では、火事だ火事だと騒ぐ声が、低くかすかに聞こえました。お母さんは気を
 もます様にして家の中に入って行きました。私はその時そばを通る人から、

    「ユダだ ユダだ」

 とききました。けれども 私は そのわけを知らなかったので、ゆっくりと家の中へ入って
 行って(そのことを)姉さんに言ったら、

    「それは津波のことだ、お前達は早く逃げろ」

 と言いながら、私に自分のマントを着せました。

  それから私がカバンを持って逃げようとした時には、もう子供達はいませんでした。お
 母さんは、先生や兄さんを起こしに行ったそうでした。私はマントを着、カバンを持って
 裏の山(赤沼山、俗称:ぼうず山)へと逃げました。行く途中暗いので、垣根にぶつかっ
 てころびました。起き上がって後ろも見ずにまた駆けて行ったら、今度はせきへ入って、
 上がろうとしてもマントを着たりカバンを持っているために、上がることが容易ではあり
 ませんでした。それでマントを脱ぎ捨てカバンだけを持って駆けて行ったら、今度は電信
 柱の針金に引っかかって転びました。また起き上がって駆けて行きましたが、胸ばかりど
 きどきして、足はなかなか運ばれませんでした。

  山の近くまで行った時、家の人々を考え出して「どうなっているだろう」と心配になり
 ました。けれども戻ることは出来ませんでした。あっちこっちから泣き叫ぶ声、また誰か
 を呼ぶ声、遠くの方からは家のこわれる様な、わりわりという音がものすごくかすかなが
 ら聞こえて来ました。山へ上って墓の前まで行ったら、人々が沢山いました。
  私が一番高い所へ行くと、多くの人々が、たき火をしてあたっていました。
 あちこちを見たら、八重子と梅子姉さんが皆と一所におりました。思わず「姉さん」と言
 ったら、私の方を向いて目には涙を一杯ためながら、

    「誰だと思ったらお前か、よく助かった。
     お母さん達はどうなったろうなぁ」

 と、一人言の様に言ったまゝすすり泣きをしました。それを見て、私の目にも知らず知ら
 ず涙がぽろぽろとこぼれて、ふいてもふいてもあとからあとからとこぼれてまいりました。

  山からお山の方を見ると、一面に火が燃えて、その火の中から片方の手を上げて、

    「助けてくれー助けてくれー」

 と叫んでいるのが見えました。そのかわいそうな事ったら、何とも言えない程でした。ど
 この人達も涙をこぼさない人はありませんでした。そうしている中に、夜は段々明けてま
 いりました。

  今まで夜が明けるのを待ちかねていた私達は、早くすっかり明るくなってくれればよい
 と思っていました。そこへどこかの人が二、三人来たので、「お母さん達はどこに居るの
 か知らないの」と聞いたら、「お母さんは見ないが、姉さんを見た」と言ったので、八重
 子と梅子姉さんと三人で家の人達を探しに行きました。

  お父さんやお兄さんは、お墓の前で火を燃やして、身体をあたためておりました。それ
 を見たら何となくあわれに思われて、ただ涙がこぼれるだけでした。お父さんは流された
 そうで、肱のところが少しはれていて大層痛そうでした。身体もずいぶんぬれていたので、
 梅子姉さんはネンネコを着せてやりました。またお母さん、姉さんを山中探したけれども、
 中々見当りませんので、お寺へ行って探しました。

  それでも見えなくて、学校へ行ったら多くの人達がみんな学校の中へ土足で入っていま
 した。私達も中へ入って、あちこち見たけれども居ませんので、火にあたって身体を温め
 ました。そして、お母さんも姉さんもとうとう見えませんでした。

  その晩は小田代の家へ私や子供達だけ行ってとまりました。とても静かで、たゞ川の流
 れがさらさらと聞こえるだけでした。床についてからは、色々のことが考え出されて中々
 眠ることが出来ないで、とうとうそのまゝ夜を明かしてしまいました。

  朝になって田老に帰り、子供達とお寺に行ったら、兄さん達が「なつ子の死がいを見つ
 けたから行く」と言ったので、私も連れられて行きました。行って見ると、もう二、三歩
 走れば助かるにいい様な所で死んでいました。身体にはムシロをかけて、その上に板があ
 って、「赤沼なつ子」と書いてあったので分りました。顔には砂が一杯ついていて、すね
 は片っぽうだけ血だらけになって傷んでいました。着物はきちんと着て、身体もあたりま
 えにきれいになって居りました。私が「姉さん姉さん」と呼んだけれども、息は既になく
 なっていたのでした。兄さん達は、姉さんを板の上にのせて、お寺にかついで行きました。

  私はその日に、おじさんと鍬ヶ崎に向いました。妹の死がいは三日目、お母さんは四日
 目に見つかったそうです。とてもかわいそうで、何とも言われないくらいだったとの事で
 した。

■あとがき
  本稿の原文は、とし子さんが昭和8年の「三陸沿岸大津波」の経験を当時の学校の作文
 として書いたものです。その後、次の二誌に掲載されました。
田老町誌(第一集)〜防災の町
田老町教育委員会・田老町誌編纂委員会
昭和46年9月20日発行
海の壁〜三陸沿岸大津波
吉村 昭 著、中公新書 224
昭和45年7月25日発行
  本稿は、上記二誌のうち、主に「防災の町」掲載の文章をできるだけ忠実に書き写した  ものですが、本人に意味を確認しながら、一部の語句を改訂したり、句読点の位置などに  ついて、若干手を加えました。   また、本人の後日談によれば、実は当時はあまりの衝撃のため「涙」などは出なかった  とのことですが、衝撃の大きさをうまく言葉に表現できなかったため、作文執筆当時の心  境を「涙」を借りて書き綴ったものとご推察ください。   この津波で、母親と姉(なつ子 20歳教員)と妹(けい子 9歳)の三人の家族を亡くしま  した。  当時の住所は、岩手県下閉伊郡田老村大字田老で、現在の宮古市田老です。  とし子さんは当時13歳(14歳の誕生日の三日前)でした。 (文責:swing、2008.10.17記)