学校の帰り、家とは反対の方向へ行く。 いつものルートになった、あの道を通って。 「まったく…君はいつになったら家に帰るつもりなんだ?」 「そりゃあ、お前が食事作らなくなったら」 やっぱり学校からの帰りの如月をつかまえて、いつものように彼の家に行く。 駅前で待っているのは反則だと言われたが、そんなことは知ったことじゃない。 制服のまま台所に向かう彼を眺めながら、緋勇はテーブル代わりの炬燵の横で 寝転がる。 「つまり、君はいつまででもただ飯を食べていくつもりなわけだ」 「…あのな、如月」 「なんだい?」 こっちを振り向きもしないのが腹がたつ。 「一人でメシ食うのってつまらないだろうが」 「僕はもう慣れたよ」 一人暮し歴は長い如月である。そう返されても不思議ではないが。 「そういう問題じゃなくてだなー」 「じゃあどういう問題なんだい? 君がここからいなくなったら僕の家の家計の 負担が一気に減ってくれるんだが」 「お前、俺のことそういう風に見てたのか?」 「他に何があるというんだい?」 やっと振り向いた。だがその手には。 「――殺意でもあるのか、その出刃包丁は」 刀使いにそんなものを持たせてはならないだろう。たぶん。 「おや。そんなつもりはなかったんだが」 絶対嘘だ。断言していい。微笑とともにまた調理に戻る彼。 こんな風に、一人でいるときはどうもつまらない。 体を起こし、気配を消して歩き出す。 ダシ汁のいい匂いがした。夕食には必ず何か汁物を作るのが彼の習慣らしい。 毎日違うメニューなあたり、かなりこだわっている。 足音を殺し、背後に近寄る。 伸ばした腕で、肩を抱く。 「――龍麻」 如月が手を止めた。少々怒っているようだ。 「僕がここにいるときはおとなしくしているよう、前に言ったはずだが」 「…つまらんから」 「刃物を扱っているときに近寄らないでくれないか」 「相手してくれたら離れる」 そう言って、軽く耳朶を噛む。 その瞬間だけ、如月の体が硬直する。 「…龍麻」 「怒ったか?」 「あたりまえだ!」 料理の邪魔をされるのを如月は極度に嫌う。それくらいとっくに、緋勇は身を もって知っている。知っていてやっている。それを如月も気づいている。 ――だからよけいに怒るのだ。 「夕食抜きでもいいのか?」 「作ってくれないのか?」 「この状態で作れたらの話だが」 後ろから緋勇がしがみついていては、どんな名コックでも無理だろう。 「まあ、抜きでもいいか…」 「ほう」 「その代わり、お前もらうから」 首筋に突きつけられる、出刃包丁。 「そんな怒ることないだろ…」 「地天斬と水裂斬、どっちがいい?」 「先に聞いとくが、水裂斬かけられたとして、後始末は誰がやるんだ?」 「当然、龍麻だろう?」 にっこりと笑いながら言われては、反論のしようがなく。 「なんで俺…」 「不服なら、この手を離してくれないか」 「嫌だ」 「龍麻」 さて、そろそろ潮時か。ものには限界というものがある。 さっきまでのしつこさが嘘のように、あっさりと如月にかけた腕を離す。 「あと十分もすれば出来る。それまで向こうに行っててくれ」 「了解」 「それから、次にああいうことをしたら、問答無用で――斬る」 「はいはい」 『ああいうこと』って何だろうな。そう言って茶化してやろうかとも思ったが、 そんなことを言ったら手裏剣が飛んできかねないのでやめた。 「如月のトコ来るようになってから、肌色よくなったよなー」 「そうかい」 食後の後片付けは緋勇がする。それくらいは労働しろということらしい。 「僕の家計は厳しくなったがね」 「そんな商売厳しいのかよ」 「そう思うかい?」 身内にでも一銭もまけないような商売をしておいて、そんなことがあるものか。 「――思わねぇ」 「不景気だからね、今は」 「お前のトコに限って、そんな世間一般のことは関係ないような気がするが」 「何か言ったかい?」 「いーえ。別に」 と、思いっきり含みのある声で言っておいて、緋勇は手早く皿を拭く。 こういう面倒事は、さっさと終わらせるのが吉だ。 「如月、この深皿どこだっけ」 「右の棚の二段目。同じ皿があるだろう」 夕刊に目を通したまま、こっちを見もしないで言う。 最後の皿を片付けて手を洗い、居間に戻る。 「おかずが多いと洗い物が多いんだよな…」 「なら今度から一品減らそうか」 「悲しいぞ、それは」 「洗い物が多いと面倒なんだろう?」 「そこまでは言ってない」 「そうか」 如月はまた新聞に目を戻す。いつのまにか着流しに着替えていた。 食後の数分は休戦期間だ。お互い何も干渉しない。 が、軽い労働のおかげでその時間も退屈せずにすんだ。 「如月」 着流しの青年は「仕方ない」という顔をする。 「相変わらずだな、君は」 ため息とともに、横から伸ばした手を逆にとらえられ。 「お前がいないとつまらないから」 「理由になってないと思うが…」 「いいんだよ」 隣に座り込み、その瞳をのぞきこむ。 とられた手が細い首にあてがわれる。 「たまには、おとなしく帰ろうとは思わないのかい?」 「お前がいるのに帰ってどうする」 「…そういうことか」 「そういうコト」 首にあてた手を後ろへ動かし、その黒髪をすく。 目を閉じたまま唇を重ね、むさぼるように抱き合った。 二人の唇が離れた後も、互いの腕は相手にまわされたまま。 「まったく…僕もどうかしている…」 かすかに上気した頬。 「俺も同じだな、きっと」 首筋に。浮き出た鎖骨を指でなぞり。 苦笑しながら閉じた瞼に軽くキスして。 その手が、襟を横へと広げ。 白く、あらわになった肌に、何度も花を散らし。 艶めいた吐息に煽られるよう、熱くなった肌を重ね。 「龍麻…」 かすれた声が耳元で呼んでいる。 自分のもっとも大事な人の声。 「――好きなんだよ」 今更かもな。そう思ったが、なんとなく言いたかった。 彼がかすかに笑った気がする。 最上の幸福を形にしたなら、こんなものだろうか。 お互いの手のひらを合わせるように、強く、如月の手を握りしめる。 爪が食いこむかと思うほど、強く、握り返される手。 それは、想いの強さ。言葉にできない不器用な心。 甘い、甘い喘ぎの声が、精神を狂わせるのにまかせ。 何度も、何度も。確かめるように肌を重ねた。 「――如月?」 自分にもたれかかっている如月に問いかけてみるが、返事はない。 (この顔が、いいんだけどな…) そう思うが、さすがにこれ以上手をだすのはまずいだろう。 こういう、半ば意識が戻っていないときの如月はタチが悪い。無意識のうちに、 そばにいる人間に寄ってくる。いつもの彼からは考えられないほどの無防備さだ。 もっとも、そこまで彼が無防備になるのは自分の前だけだろう。 それが嬉しくもあるから、あまり強くは言わない。 (こういうのも悪くない、か…) 意識が戻ったら、また小言を言われるかもしれない。 それがわかってはいるのだが。 ――少しくらい、こんな甘い生活を楽しんだところで、ばちはあたるまい。