誰かが、名前を呼んでいる。 誰だろう。 自分に、何が残っているのか。 柳生の陰謀を砕き、自分の役目の一つは終わった。 だがもう一つ――飛水流の役目は残っている。 この都市は楽園だ。何もかもが揃い、満ち溢れている。 善なるものも、悪なるものも、何もかもを混ぜ合わせた、偽りの澱んだ楽園。 この都市で、自分が守るべきものがどれほどのこっているというのだろう。 自分が守っていくものが何なのかなんて、以前は――考えもしなかった。 「――如月」 眞崎が眉をしかめる。自分がそばにいるときに、如月が他のことを考えている ことが、彼には気に食わないのだ。 ひどく、独善的な男である。 「考えごとをしていた」 「余裕だな」 からみついてくる腕。それをふりほどこうとする気もおきなかったけれども。 そうなったのは、いつのことからだろう? 「俺といるときに、考えごととはな」 少し意地の悪い表情をして。そんな彼の顔は、嫌いではない。 「僕がどうしてこうなったのか、考えていた」 彼と出会っていなかったら、自分はどうしていただろう。 父の趣味と祖父の意志を継ぎ、あのまま骨董店の店主として暮らしていったの だろうか。 四神の一つである、『玄武』の宿星が自分にある以上、それは半ば以上ありえ ないことなのだと、わかってはいたけれども。 「昔の僕は、何も考える必要はなかったんだ。…自分に与えられた道を進めば、 その道をいかに進むかだけ考えていればよかった」 その意味では――何も考えていなかったのだ。 未来も何も考えない。 ただ、その使命を果たすことだけに生きる。 その使命を、次代へと渡すためだけに。 「君たちに会ってから――変わったんだ」 夜の風が、肌に冷たい。 開け放したままの窓から、欠けた月がのぞいている。 「『俺たち』じゃなくて、『俺』だろうが」 如月の髪をすいていく指。彼が何をしようとしているのか――嫌でもわかった。 「俺に会って、苦しかったか?」 「……」 運命が巡る――という言葉があるならば、この一年の自分がまさにそうだった。 彼に会い、自らの使命を昇華させ。 充実は、していた。だが、それと同じほどの困惑がある。 「変わりすぎて、自分がわからなくなったか?」 「そう、かもしれないな」 考える必要などなかった自分の運命。 考えねばならなくなった自分の未来。 「俺は…お前の迷った顔は好きだがな」 ためらうそぶりもなく、彼はとどめの一言を投げつける。 おそらく、彼が『黄龍』でなくても自分は彼に勝てないのだ。 ――このまま、ずっと? 「僕は…どうしようか」 ふっと、口元がゆるんだ。 笑っている? 「君はこのまま、この街にいるのかい?」 たずねても、眞崎は静かに笑うだけ。 「お前が望むなら」 「…困ったな」 髪をすく指が止まり、耳に触れる。 「僕次第というわけか、それは」 「そうなるな」 首筋を、ゆっくりと下りていく指。 「俺は、俺のやりたいようにやるだけさ。生きたいように生きてな」 「…矛盾していないか? それは」 「気のせいだ」 襟元を崩し、あらわになった肌にくちづけられる。慣れた感触が全身をつたう。 「もう遅いんだが、今日は…」 「“今日は”あと22時間ある」 ゆっくりと、衣を剥ぎとっていく腕。何度も繰り返したはずの行為。 「…っ…」 肌の上をすべっていく舌の感触が、感覚を奪っていく。眞崎のこういうときの 顔は、ふだんと違う微妙なものがある。 他の人間にも、彼はこういう表情を見せるのだろうか。 「考えるのが嫌なら、何も考えられないようにしてやるよ」 「…もとは…君のせいだろう」 「そうだったか?」 眞崎は如月の腰を抱いて、強引に自分の前までひきずらせる。背筋を指で軽く 撫でられた。 「まあ、どっちでもいいか、そういうことは」 必死で自分の反応を隠そうとした如月を見ながら、眞崎は笑う。 その右手に、ゆっくりと如月は舌をからめる。念を押すよう、丹念に、丁寧に。 濡れていく指が抜かれるまで、如月はずっとそれを繰り返した。 「皐哉…っ」 「痛いか?」 無言で首を横に振る。 自分の中へと入っていく指に眉をしかめながらも。 何度体を合わせようとも、慣れないものは、慣れない。それが楽しいのだと、 本当に楽しそうに笑う男を、自分は知っている。 「前よりは、楽になっただろう?」 腰を浮かせることができなくなって、眞崎の肩にすがるように腕をまわす。 彼の息。鼓動。呼吸がわかる。うつろになった両の目にうつるのは、何よりも 重要な存在。 眞崎が、何か言おうとした。 「…どう、した…?」 彼の唇は動かない。代わりに動いたのは腰を支えていた左の手。 首筋を押さえられ――唇を奪われる。強引に侵食してくる舌にあわせるように、 己の舌を動かすようになっていた。 そうさせたのは――目の前にいるこの男。 唇が離れても、吐息が熱い。熱をもっているのは、それだけではなかったけれ ども。 「如月…」 どれだけ彼は、自分の名を呼んだのだろう。どれだけ呼んでも――彼は如月の “名”を呼んだことはなかった気がする。 「…皐、哉…」 「欲しいか?」 黙ってうなずいた。欲求と、そんな自分自身に対する嫌悪。憔悴と倦怠、諦観。 自分の中で、様々な感情が交錯し、入り混じっていく。 ――心を“無”に還せ。 ――すべてを“無”へと。 意識が一瞬飛んでいた間に、眞崎の手が動いている。彼に背を向けるよう向き を変えられ、昂ぶったものを撫でられた。 「…はっ…ん…」 力の抜けた体に、割り込んでくるもの。 ゆっくりと、自分の中に入ってくるものをたしかめるよう、呼吸を合わせる。 頬をつたっていく汗の感触にさえ、体が反応していく。 背後から押さえられた体は、さらに熱をあげる。 眞崎は一度、最奥まで入ってから、動きを止めた。ひざの上で、せがむように 動いた如月の手を、その上から無理やり押さえつける。もう片方の手で、如月の 芯を嬲り続けたまま。 「…っぁ…」 徐々に、体が侵食されていく。 自分以外の何物かに。快楽という名の化物に。 それに溺れていく、もう一人の自分に。 わかっている。 わかっては、いる――。 自分の体が、眞崎の動きに応える。そうなったのも、この男のため。 「…皐…っ」 「まだ、他のこと考えていられるか?」 言外に――俺のこと以外は考えるなと――そう言っている。 「そんな余裕があれば、だが」 この男はきっと、そう言いながら助けの手を引っ込めるのだ。 決して、相手を楽にさせるような男ではないことぐらい、百も承知のくせに。 「僕、を…甘く見るな…」 言うだけ虚しい抵抗であったかもしれない。 だがそれでも、言葉にしておきたかった。 「…君がいなくとも、生きては、いける…」 「――そうだろうな」 喜んでいる? 表情は読めない。口調だけで、そう思った。見上げた窓に、月が傾いていた。 そして熱が上昇する。 意識が消える。 最後に自分が何を考えていたのかさえ、思い出せなくなった。 体を起こす。隣りで眠っている眞崎を起こさぬように、静かに、ゆっくりと。 「…どこ行くんだ」 裾をつかまれ、歩みが止まる。 「…起きたのか?」 「お前の気配がしなくなったからな」 気配を消すのには慣れているのだが、どうもこの男相手だと調子が狂う。 「別に…何というわけではない」 「そうか」 「ああ」 この男が何をしたいのか。時々わからなくなることがある。 「如月。さっきの質問だ」 眞崎は――絶対に如月の“名”を呼ばない。 その名が背負うものを知っているがゆえに。だからきっと、これからも、彼が 如月の“名”を呼ぶことはない…。 「俺に会って、変わったか?」 何が変わった? 何を変えた? 「変わったな」 自分の使命を疑うことなどなかったはずだった。 この街を守る価値があるのかなど、考える必要もなかった。 親を、兄弟を、子を売り。何もかもが満ち溢れた街で、人がさまよう。 平和と安全を当然のものとして売り買いし、流血の惨事すらも見世物に変える。 互いの正義の名のもと、殺し合うように夢を見て。 そのまま、腐った澱みの中に沈んでいく。 享楽だけの残ったような、この街を。 「少なくとも、僕は自分のことを考えていけるようになった。――これが進歩か 退行かまではわからないけれど」 「進歩だと思った方が、楽でいいぞ」 「そうだな」 「俺も…そうだったからな」 軽く、首をかしげる。が、彼は何も言わない。 自分の言いたくないことは答えないのが、眞崎という人間だった。 「そうなのか?」 「ああ」 彼は――何を見てきたのだろう。 眞崎が仲間に要求することはない。ただ、彼らのありさまを眺めているだけだ。 ただ黙って、その生き方を見ている。否定することも、肯定することもなく。 「俺がいなくなっても、大丈夫か?」 「やはり…東京を出るのかい?」 「そのつもり、ではある」 「そうか」 いつまでも、このままの状況が続くはずがないのだと、わかってはいた。 宿星という枷が消えた今、二人をつないでいるものはないに等しいのだから。 「お前はどうするんだ?」 柳生の陰謀を砕き、自分の役目の一つは終わった。 自分に、何が残っているのか。 自分が、何をやりたいのか。 「僕はまた、前の生活に戻るだけさ」 それだけだ。 「誰かを待つことなんて、ない」 眞崎は、苦笑いしたらしい。布団をつかみ、ぐるりと背を向ける。 「――好きにしろ」 らしくないほど、めずらしいそぶりだった。 「怒ったのか?」 「まさか」 また明日になれば、いつもの毎日が始まるのだ。 自分の使命を果たすための、自分の未来を選ぶための毎日が。 ――これほどまでに、余計なことを考える余裕が自分にあるなんて。 そんなこと、思ってもいなかった。 それが嫌でないことに、何より自分が困惑したのだけれども。 「早く寝ろ、如月」 「…誰のせいでこんな時間になったと思っているんだ?」 「さぁて、誰のせいだろうな」 反論する気も失せた。 「眠気も失せたよ。僕はここにいるから、君は眠っていればいい」 壁にもたれながら座り込み、眞崎の背中を眺める。 「明日、早いのかい?」 「別に」 「だったら、早めに起こす」 「意地悪いぞ、お前…」 「君のせいだ」 言いながら、口元がほころんでいる自分に気づく。 まだもう少しだけ。 このまま、あともう少しだけ、こうしていたいと思った。 心の底から、強く。 それが自分には許されない、「甘え」なのだとわかっていても。 つなぐもののないあいだなのだとしても。 ――それがいつか滅びていくだけの、偽りの楽園だと知っていながら。
うわー。実はかなり久々の主如でした。