庭の桜に、蜘蛛の巣が掛かっている。それに気付いたのはつい最近だった。 以来、庭を見る都度、蜘蛛の姿を追う。 秋の風が枝を揺らす。その度に巧緻な糸の螺旋も揺れた。風に細い髪を任せ、 和装の青年はゆったりとくつろいでいる。 「…如月?」 隣でまどろんでいた緋勇が体を起こす。 「起きたのか」 肩にもたれたまま眠ってしまった緋勇。多分疲れていたのだろう。 「どのくらい寝てた」 「三十分くらいだよ。それほど…経ってない」 とはいうものの、自分も時計を見ていないから、正確な所はわからない。 着流しと腕時計は合わないため、屋内では外す習慣がついた。時間の流れなど というものも、もうどうでもいいような気がして、柱の時計すら見なかった。 ――何より、動けば緋勇を起こす気がして。 「もったいないな。せっかく如月の所に来たってのに」 何がもったいないのか、如月にはわからない。彼が顔を出さない日という方が 珍しいというのに。 休日の都度、緋勇は如月の家に泊まっていく。月曜になればここから真神へ通い、 放課後になればまた顔を出す。固定客というには少々ずれた客だろう。彼の目当ては 店の骨董などではなく、店先に立っている同年の店主なのだから。 それがわかっていて尚、自分はこの男を家に上げる。 『お前は妙に無防備だから』、と横の男は言った。自分でそうさせておきながら。 わかっていながら言い返せない。「それ」は彼の前だけなのだと、強がりもする。 それが自分の甘さなのだと、百も承知の上で。 「明日は…学校行かないとな」 面倒そうに緋勇が呟く。昨夜の彼は、平日だというのに帰る気などさらさら無い ようだった。執拗すぎる程に。 「さすがに、二日も続けて休むわけにはいかないだろう?」 「…実は前科がある」 「前科?」 「数日行方不明、拉致の上しかも薬物投与。…そういうお前はどうなんだ、如月」 一体何があったのか。考える前に話を振られて、如月は苦笑する。 「僕はいつものことだから。二日ぐらいではね」 遠くに仕入れに行った時、京都の本家に出向いた時等、日帰りできかぬ場合もある。 後は――敵の襲撃を受けた時か。 「お前って…優等生に見えるのにな」 「見かけだけだよ」 そう静かに笑う。こうして人前で感情を出す事があるなど、考えもしなかったのに。 「一つ…尋ねてもいいかい?」 「ん?」 「さっきの…もったいないというのは…」 「ああ。あれか」 如月の細い肩に重みが加わった。柱にもたれる要領で、緋勇がもたれかかっている。 「お前と二人でいられるんだ。無駄にできるか」 「…毎日のように来てるはずだが…」 「お前がいるから来るんだよ」 蜘蛛が――糸を巡らせている。捉まる獲物は何だ。 ゆうやりと、緋勇の手が首筋に伸びてくる。暖かい人の手。かつて自分が拒み続けた そのものが。 「如月」 名前を呼ぶ。それだけで充分だった。 「あれだけでは…足りなかったのか?」 昨夜の記憶を辿りながら、目は庭の蜘蛛を追う。――視線を合わせずに済むように。 螺旋を紡ぐ蜘蛛を追い、絡み付く腕を跳ね除けもせず。 「足りるわけないだろう…」 男の低い声がする。こういう彼の声は――嫌いでは無い。 「僕はもう…充分だ」 それは充足を意味したのか。それとも嫌悪か。 どちらともとれる言葉のままに、如月はその腕を取り、口付ける。 落日の紅が目に染みる。だから目を閉じた。 『さうして、逃げ道を残さうち足掻き乍ら、やはり獲物は落ちるのだ』 その唇に触れるもの。蜘蛛の糸にもにたそれに捕らえられ。 閉じた筈の唇を割り、入り込んで来る貪欲な舌に抗いもせず。 首筋に廻された両の腕の暖かさを感じながら、己の腕を上げる。 己の腕を上げ――抱きしめたのは狡猾な蜘蛛。 掛かると承知の罠を仕掛け、捉えた獲物を喰い尽くす。残酷で――。 「…欲しいのか?」 ――残酷で、狡猾な蜘蛛。 堕ち切ったと承知の上で、彼は何度も尋ねてくる。新たな困惑を与えるために。 「僕は――君以外に知らない」 離れた唇を追うように、緋勇の首筋に口付ける。縋るつもりなどなかったのに。 「君から以外、何も教わってはいないんだ」 言葉にする事の無意味さは知っていた。知っていながら言葉を紡ぐ。 新たに糸を巡らすように。――新たな罠を待つように。 「人として生きる方法を教えたのは君だろう?」 心というものが自分にあったとしても。ずっと、そんなものは意味がなかった。 そして今も、別の意味で無意味になった。 彼がいるから生きている。彼がいなければ心など無意味だ。 「だから僕を――壊してくれ」 壊してくれ。忘れさせてくれ。 その声。その顔。その指。全てに絡み取られたから。 『何か』に執着してはならない。『無』であれ。そう自分は存在づけられた。 今のような自分はあってはならない。だから――。 「分かった」 冷酷とも言えるような微笑の後に続いたのは、強すぎる抱擁、布越しの愛撫。 吐息が喘ぎへと変わるには然程の時もかからず、身体が熱を孕むのも、慣れた行為 故に時を要さず。 己を喰らう蜘蛛のもと、淫らな姿態を曝しながら、幾度となく声をあげた。毎夜の 如く繰り返されるその交歓。 そんな己の姿を思い、歓喜に溺れる弱い自分を嫌悪する。その嫌悪を知っていて、 彼は何度も声をあげさせ。 いつしか落日も沈み行き、闇の帳が降りていた。それにもかまわず蜘蛛は動く。 己の絶頂すら記憶から消える程、それは何度も繰り返された。 「如月?」 背中に感じた視線。縁を降り、如月は庭へ出る。 秋の風が涼やかに流れていく。夜の風は少々冷気が強かった。 「どうかしたのか?」 天上には細い月。やがて消え、再び盈つるであろう白い月。 葉のみの桜の樹の下に立ち、その枝を一つ、無造作に手折る。 見下ろした先は、蜘蛛が紡いだ細い螺旋。 そのまま手にした桜の枝で、女郎蜘蛛の巣を断ち切った。