偶像・雨

 



 天上より水は落ち、地の乾きを慰める。
 地を巡り、海へ流れ、気を潤し、天へと還る。


 外で雨が降り始めた。
 広い屋敷の中は無人。無柳を癒す者もない。
 この屋敷に自分以外の人がいることが、そうそうあることではないのだ。
 孤独を感じたことなど――寂しいと思ったことなどはない。寂しいなどと思う
には、自分の心はあまりに歪みすぎていた。
「のう、ガンリュウよ」
 もう一つの自分に向け、雹はゆっくり手をのばす。
「わらわは、どうして単なる人形になれぬのだろうな」
 雨音が耳に心地よい。軒から落ちる滴の音、庭の葉にあたる雨の音。
 こんな日は、どうしても考えなくてよいことを考えてしまう。
「人というものは…かくも面倒じゃ。愚かじゃ。このようなあさましき身が生き
のびておることすらわずらわしい」
 両の足は動くこともならず、この巨大な人形なくば、一間の距離すら動くのも
ままならない。
 ただ、足の筋を斬られた、というだけで。
「そなたはよいな。動くからくりも、仕組みも、何もかもが明確じゃ。何故人は、
そなたのようにわかりやすくならぬのか不思議でならぬ」 
 言葉なき人形に語りかけ、その足を優しく撫でる。
「わらわはあやしの姫らしいぞ。皆が言うにはの」
 雹の顔に笑みが浮かぶ。自らをからかい、嘲る如く。

 村を滅ぼし、己を嬲り者にした輩たち。彼らが憎くないわけがない。
 だがそんな憎悪よりも先にあるのは、無様な自分の姿に向けられる侮蔑。
 ――嫌悪と嘆き。昏く醜い負の情念。
 様々な感情が入り乱れ、もつれあう。さながら、蜘蛛の糸のように。

「そなたと同じしかけを使うて、わらわの足が動かぬかと試してみた。わざわざ
動かぬ足を切り裂いてな。そなたにも見えるか? この足が」
 細く白い足。その足に白い布が巻かれている。
「だが人とは厄介なものよな。そなたにしたようにはうまくはいかぬ。血が流れ、
畳を汚したのみよ」
 肉を切る――その感触に覚えがあった。
 身を切る痛みにも声をあげもしなかった。
 自分は、半ば人ではないのだから。
「人はわらわの為したことを解せぬ。そなたの他には、わらわの思いを解する者
などそうはおらぬであろう。…もしおるとするなら、わらわと同じ目にあった者
だけであろうな」

 自らの足を切った女を、人は気味悪がり、遠巻きに眺めるのみ。
 誰にわかるだろう。自分の中でうごめく感情すらわずらわしいということが。
 人は考えて生きるものだという。しかし「考える」ということが、すでに自分
にとってわずらわしいものでしかないのだ。
 侮蔑も。嫌悪も。憎悪も。嘆きも。あらゆる感情を捨て去って、単なる人形に
なってしまえたなら、どんなに楽なことであろう。心から思った。
 ――そうして、自分は実行した。
「血など見慣れておる。今更そんなものを恐れてどうしようぞ。この傷を負った
ときに比べればのう」
 屋敷の中に漂う臭い。
 散乱する小さなからくりの部品たち。
 己の流した血でできた、畳の上の血だまり。
 そこに入ってこれたのは、血にも似た色の髪持つ村の主。

 自分のやり方がまずかったのか。そもそも人には合わぬものだったか。
 気がついたとき、自分は暖かい布団の中にいた。
 おぼろげに、抱き上げられた記憶があった。
 覚えているのは、彼の声と、赤い髪。
 だからだろう。絶望の中にいたあの頃のことを思い出したのは。暗黒の、希望
すらない世界から救いあげてくれたあの時を。
 懐から小さな玉――彼から頂いたものだ――を取り出して、眺めてみる。玉は
何も語らない。ただ静かに光るのみだ。
「わらわにはもう何もない。そう思っておったがな…」
 目覚めたときに傍らにあったのは、優しく笑った彼の顔。
 ――気がついたか。
 心から安堵したという表情で、彼は言う。
 ――あまり、無茶はせぬ方がいい。命は大事無いそうだが…。
 何を躊躇うのか、彼は顔をそむけ、目をそらせた。
 ――傷をつけるのは…惜しいと思うぞ。
 いったい何をかと思った。しばらく考えて、ようやく思い当たる。
 今更自分の身を案じる者がいるなど、思いもしなかったのだ。
 ――言い方がまずかったか?
 かすかに首を振り、否と答えた。

「どうせ傷ついたこの身ならば、せめてあの御方の剣となり盾となり傷つきたい。
…そう思うのは愚かであろうか」
 手当てをしたのは彼だと聞いた。それを聞いたとき、自分の中で何かが動いた。
 何であろう。言葉にもならぬこの「何か」は。
「この身がわずらわしいのに変わりはない。心無き人形となれば楽であろうとも
思う。思うのだが――」
 
 雨は静かに振りつづける。
 人形は答えない。ただ雨音のみがこだまする。
 宝玉を胸におさめ、心無い人形に身を寄せた。

「この人形を操る糸の端が――あの御方の手にあればよいものを」

 そうなれば、自分は何の苦痛もなく糸を巡らすだろう。
 敵を捕らえ、嬲るだろう。かって、自分がそうされたように。
 そう。捕らわれるのは自分ではない。
 ――蜘蛛は獲物を捕らえるものなのだから。
 美しい女は、毒を秘めたまま静かに目を閉じる。

 あの紅蓮の髪の男の影が――。
 今も、まだ胸中に浮かぶ。

 
 

 


『偶像』は鬼道衆→御屋形様な話。
雹様ラヴです。オナゴでは一番やもしれません。
雪山で萌。エンディングでさらに萌。
ただのお姫様(おひいさま、と呼んでください)じゃないとこが大好きです。
あと純愛なところも。 嵐王の次が雹というのはひょっとしてからくりつながりか。

剣風帖で、例に漏れず水角好きでした。そういえば。

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