偶像・神

 


 神の御稜威は雷となり、天より降る鉄槌となる。
 ずっとそれを信じ、期待していた。
 信仰を踏みにじった彼らに向け、罪を犯した自分に向け、神罰が下ることを。
 だがどれだけ待っても、どれだけ信じても天の雷が光ることはなく。
 彼らが許されたとも、自分の懺悔が認められたとも思えない。
 絶対の主の意志はどこにあるのか。もう自分ははかりかねている。
 人は人でしかない。罪を背負って生きる、神に似せて作られた人形。
 人の苦しみを救われるというなら、神はどうしてこの疑念から自分を救っては
くださらぬのか。
 いっそこの身を咎人として打ち砕いてはくだされないのか。
 道を説く自分に架せられた十字は、日に日に重くなっていくようだった。


 救済という言葉は、けして優しい意味ではない。人一人を救うことすら、普通
の人間には困難だろう。一時の手をを差しのべることは誰でもできるけれども、
己の人生を犠牲にしてまで他人を助けようとする者は稀である。
 それに、本当に難しいのは、人を「救済しつづけること」なのだ。
 そのときその場で人を助けることはたやすい。だが、それから人がうまく前に
進めなければ、その手助けも意味はなくなる。
 ――自分が説いた道は、彼らを救えたのだろうか。
 道を説く者が疑念を持ってはならぬことくらい、とうにわかっている。しかし
彼らは、自分の説いた道を信じ、信じたゆえに死んだのだ。この責は自分にある。
 泣き叫ぶ女や子供の姿を見せられながら、なおも御神槌は生かされていた。
 「己の所業をわからせるため」、もしくは彼らの娯楽として。
 教義ゆえ死を選ぶことはできなかった御神槌は祈り、怒り、慟哭し、嘆いた。
 自分の中の信仰が揺らぎはじめたのはあのときからであったろう。
 神に救いを求め、仇なす者たちを呪い、彼らの所業に怒り、幼子の死に哭し、
何も出来ぬ無力な己を嘆いた。声にならぬ絶叫が胸にあふれ、血の臭いと何度も
くりかえされる情景に死を願った。

 それでも、今自分はこうして生きている。

 穏やかな人々の村で、信仰を説きながら、御神槌はまだ過去から逃れられずに
いた。
 いや、逃げてはならぬものなのだ。「これ」は。
 今ここに生きている者たちは大切である。それと同じくらいに、過去の人々も
大切なのだ。
 自分の話を聞く人々の顔が真摯であればあるほど。自分の手を握る童子の姿が
無垢であればあるほど。自分の中の矛盾と葛藤は大きくなっていく。 
 自分があげる復讐の旗に、真摯な者を、無垢な者を巻き込んでもよいのか。
 彼らは御神槌の過去を知らない。御神槌の抱く私怨が何なのかまでは知らない。
 この村の人々は、皆何かしらの過去を背負っている。だから誰も御神槌の過去
を問いはしない。何も問わず、御神槌の言葉を日々の暮らしのよりどころとして、
耳を傾けるのだ。
 己の過去のために、未来を望む者たちを犠牲にしてよいのか。そういう葛藤が
常に御神槌の中にある。
 ――つまり、一番救われたがっているのは、他ならぬ御神槌自身なのだ。
 重い過去から。光のない未来から。永遠に続くような現在から。
 普通なら、人は救いを求めて信仰という糸にすがる。御神槌にとっては、救わ
れるための信仰こそが、自身を縛す枷となるのだ。逃れられぬ原罪の如く。
 御神槌は礼拝堂にかかげた十字架を見上げる。 
 神は偶像を禁じられた。されど、形あるものであれ、なきものであれ、救いを
求める人々の思いをどうして止められよう。
 あのとき、確かに自分は救われたのだ。絶望の中、ただ一人生きのびた自分は。
 どれだけの煩悶のうちにあろうと、彼に感謝していないわけではない。彼の人
に感謝し、彼の理想に賛同したからここにいるのだ。
 深い絶望の中にいた自分を救い上げてくれた紅蓮の影。
 我を忘れていたあのときですら、はっきりとそれは覚えている。
 自分はどこへ進むべきなのか。自分は何を為すべきなのか。
 迷うとき、必ず思い出す映像がそれだった。

 人は神ではない。そうでない自分は常に迷い続けている。
 
 神と懐の宝玉に向け、御神槌は祈った。
 ――自分と、自分が愛する者たちが、正しい道にいけるよう。

 


予想はしてましたが、やはり重くなりました御神槌。
名前を読み込んだ冒頭は気に入ってるんですが…。なんにせよ重い。
元ネタの歌には一番近い出来になりました。
私が書くと御神槌は「迷い続ける人」になるようです。人を救いながら自分は救われぬ人。
そういう意味で、一番の十字を背負わねばならぬ人。でも逆の位置からみれば幸せかもしれなぬ人。
どこまでも不幸属性な方です。この人も。

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