奇跡無き世界

 


 動くことすら、できなかった。
  静止した時間の中で、赤い色だけが動いていた。


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 重い沈黙。ここが病院であることを考えれば、別に不思議な情景ではない。
 それが、異様に重くのしかかっている。ただそれだけだ。

「如月さん」
 ロビーに出た如月に声をかけてきたのは壁際に立っていた壬生だった。
「どうですか、容態は」
「…相変わらずだ」
「…そうですか」
 緋勇が桜ヶ丘に運ばれてから数時間がたっている。あれから彼は意識が戻らない。
 はっきりいって危険な状態だった。
 大量の出血と、それによるショックのせいだ――そう、伝えられた。
 緋勇が瞬時に急所を避けたこと、その場にいた仲間が応急処置を施したこと。
そのおかげで、なんとか命がある――らしい。
「相手は、かなりの手練れみたいですね」
「ああ…多分な」
 あの緋勇に致命傷を与えられるほどの相手だ。それはわかる。
「例の、赤い学生服の男ですか」
 言葉にせず、如月は黙ってうなずいた。

「よう、相変わらず辛気くせぇ面してんな」
「村雨さん…」
 病院の中で、白い長ランというのはよく目立つ。本人は気にもしていないが。
「先生の様子も、相変わらずってとこだな。それだと」
「ああ」
「どこに行ってたんです、いったい」
「ちょっとばかり野暮用でな」
「…そうですか」
 彼の野暮用というのは、本当に聞くだけ野暮なことが多いということを、如月は経験上、
よく知っている。
「御門も…『らしくなく』心配してたぜ。『黄龍の器が欠ける如きことは、絶対にあっては
ならないことですから』とか言ってな」
「あの人らしいな」
 彼はまだこの病院に顔を出したことがない。彼にも背負うものがある。そちらを優先させ
たというだけのことだろう。仲間といっても――皆同じ考えなわけでもない。
「どうなんだ、実際のとこはよ」
「危険な状態が続いている。意識が戻らないのは傷を負ったときの大量の出血の
せいもあるが――誰かが、外から覚醒を妨害している可能性もある、と」
「覚醒を妨害? どうやって」
「そういう《力》の持ち主もいたそうだ。他人の意識――夢の中に入れるような
《力》を持った能力者が」
「確かに…そういう人間がいれば、覚醒を防ぐことも可能、か…」
「やっぱそれは、あちらさんの仕業ってことになるんだろうな」
「問題は、このまま意識が戻らないと治療を続けることもできなくなるということだ。今の
ままの体力では、同じ治療をするのにも限界があると」
「やべぇんじゃねぇのか、それは」
「意識さえ戻れば、後はなんとかなるらしいが…」
「そればかりは、どうにもなんねぇってことか」
 ソファーに座り込んだ村雨が、お手上げとばかりに両手を軽く上げる。
 このままでは、緋勇の体力は低下していくだけだ。そしていずれは――死に至る。
 そんなことはないと、皆が信じている。信じてはいる。
 だが、物事に絶対などありうるはずもない。だからこうして、彼の周りに皆が集まる。

 ――不安、なのだろう。
 信じている。だがもしも。信頼と不安は必ずしも矛盾するものではない。
 大丈夫だと希望を託し、それでも懸念を拭い切れず。

「どうでもいいがな、如月」
「…何だ?」
 怒ったような顔をして、村雨が如月を見上げる。
「今のお前、自分がどんな顔してるかわかってるか?」
 一瞬、言葉の意味を取れず、首を傾ける。
「別に――普段と同じだと思うが」
「どこがだよ」
 呆れた、らしい。理由がよくわからないのだが。
「鏡に自分の顔写してみろよ」
「……」
「ろくに寝てねぇな、その面は。それに…」
「それに?」
「昔の面に戻ってる。先生に会う前のお前の面だ」
「僕は前と変わったとは思ってないが」
「だから重症だってのがわからんかね」
 時計を見る。午後八時を過ぎていた。結局――店を閉めたままになってしまったことを、
今更になって思い出した。
「とりあえず、僕は帰るよ。店の始末もあるし…ここにいても何の役にも立たない」
 壬生がゆっくり壁から離れる。
「何かあったら…店に電話すればいいのかな」
「ああ。多分12時過ぎまでは確実に起きているから」
 きびすを返し、ガラスの扉を押す。錆びた金具らしき音が、やけに耳に残った。

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「結構…まいってるな、あいつも」
「僕には、それほどには見えませんでしたが」
「やべぇんだよ。あいつがあんな顔しだしたときはな」
 村雨は背伸びをしながらつぶやいた。
「相変わらず冷静ぶってるけどなぁ…あいつは、冷静になったときがやべぇんだよ。状況が
悪化すればするほど冷静になるように、ガキのころからしつけられちまってるから」
「さすがに、よくわかっているみたいですね」
「つきあい長いからな、意外と」
「それで…どうするつもりなんです」
「どうもしねぇよ」
 かすかに、壬生が眉をしかめる。
「俺がどうこうしたところで、あいつが耳を貸すとは思えねぇだろうが。だいたいあいつは
一度こうと決めたら何があろうと譲らねぇ。そういう奴だ」
「こっちも…処置なしというわけか」
「…先生がいてくれたらな。あいつは《黄龍》には弱いから」
「……」
 何か、自分に関わる理由がないと動けない男だ。承知の上でそういう道を選ぶ。不器用と
しか言いようがない。
 言ったところで、どうしようもないことだとわかっていたが。
 村雨がらしくもないため息をつく。
「ところで、お前の方は? こんなトコで油売ってて」
「館長には連絡してある。仕事は他の人間に代わってもらった。それに…」
 壬生の表情は変わらない。それがどこかもう一人の仲間に似ている。
「それに?」
「館長が、彼の容態を知らせてくれと」
「そういえば、拳武館の館長は先生の師匠だったっけな」
「ああ」
 如月は《四神》という宿星を背負い、壬生は兄弟弟子というつながりがある。自分だけが
何もない。気楽なものだ。
 だからこそ見えるものがあるということに、多分如月は気づいていない。
 それに気づいていたのは緋勇だというあたり、おもしろいものがある。
「ま、そうでもなけりゃあ、お前がこんなところでたむろってるわけないか」
「…僕だって、いつも仕事というわけじゃない」
「そうだよな。でなかったら」
 にたりと、村雨が意地の悪い微笑をひらめかせる。
「でなかったら、俺達につきあって麻雀なんてしねぇよな」
 返答は無言。しかし、その口元がかすかに動いている。

「先生が回復したら、また一局打とうぜ。如月んトコでよ」


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 怖い――のだろうか。
 多分違う。
 恐れているのだろうか。
 それもきっと違う。

 ならばいったい何なのか。
 自分の心を惑わしているものがわからない。

 何か、自分をつなぎ止めるものが要る。
 そうしないと。

 そうしないと、《何か》が壊れていきそうだった。

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 ――もう少し早く発つべきだった。
 
 店を閉めて家にあがっても、特に何をするというわけでもなかった。遅く帰ったところで、
誰かに叱られるということもないのだ。
 なのに、自分はどういうわけかあの場から離れたがっていた。だから帰ってきた。
 自分以外住む者のない、この家に。
 如月は電気もつけず、縁側に座り込んだ。何もする気がおきない。
 
 ――今のお前、自分がどんな顔してるかわかってるか?
 
 村雨の言葉が甦る。消してしまえ――そういう声もする。
 
「わかっている、それくらい…」
 
 月が出ている。
 綺麗――なのだろうか。
 よくわからない。

 自分があの場にいたところで、何ができるというわけではない。治療ができるわけでも、
劉のように活剄が使えるわけでもない。
 自分の判断は正しかったのだ。
 無駄に人間がいればそれだけ問題が増える。それを防ぐには必要な人間だけがいればいい。
その方が合理的で、理にかなっている。
 だから、自分はここに戻った。
 そうだ。だからここにいる。
 なのに、どうして。

 どうしてこれほど心がさざめく。

 
 どこか感覚がおかしい。
 何かが違う。体がそういっている。
 
 月が出ている。
 何色――なのだろうか。
 よくわからない。
 
 月というのは、こんなに紅いものだったか。
 ――違う気がする。
 紅いのは――。

 目を閉じる。無に近づくために。
 心を封じるために。乱されぬために。

 紅いのは、――あの時の血だ。

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 朝が来ていた。自分が眠っていたことにすら気づかず、如月は目を覚ました。
 あのまま、縁で眠ってしまったらしい。少々肌寒いのはそのせいだ。
 ――妙だな。
 意識の覚醒と同時に、体の状態を確認する。飛水の名を継いだ時からの習慣だった。
 体の状態そのものは悪くない。が、どこか動きがぎこちない気がする。まるで油の切れた
歯車のような、かろうじてかみ合っているという状態。
 睡眠不足というわけではない。原因が思い当たらない。夜風で冷えたというわけでもない。
 どういうことだろう。
 昨夜の、あの状態が続いているだけだということに気づくまでに、えらく時間がかかった。
それ自体が、今の自分の状態を物語っている。

 ――もう一度、桜ヶ丘に顔を出しておこう…。

 そう決めて、如月は立ち上がる。少なくとも、今の自分にはやるべきことがあった。
 店の準備もあったし、他の仲間と連絡もとらねばならない。

 動いて、自分の気をまぎらわせている方が、まだ楽だ。

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 やはり、まだ意識は戻っていなかった。
 白いベッドに横たわったままの緋勇の横に腰掛け、如月は誰に聞かせるともなくつぶやく。
 
 ――まだ…時は来ないのかい?
 返事は来ないとわかっている。それなのに声をかけるというのは――ただの愚行だ。
 わかっていて声をかける自分も愚かとしかいいようがない。

 扉をたたく音がする。誰かが来たらしい。
「如月…クン?」
 見なれた真神の制服。緋勇と同級の桜井と美里だ。
「やぁ」
「如月君…来てたの」
「新宿に用があったからね」
 嘘は…ついていない。「新宿」に用があったのは確かだから。それがここだというだけで。
「君達こそ、学校の方はいいのかい?」
「授業なら終わったよ。マリア先生からプリントどうしようかって言われてたんだけど…、
この様子ならどうしようもないし。それなら葵とお見舞いに行こうって」
「そうか」
 もうそんな時間だったらしい。どうも調子が狂っている。
「如月君こそ…学校の方は…」
「別に、気にするほどのことでもないよ」
 こういう言い回しも、すっかり得意になってしまった。丁寧に相手に答えるフリをして、
核心から遠ざかる。
「龍麻は…」
「相変わらずの状態だ。せめて意識が戻ってくれれば何とかなるが」
「戻るよ。でなかったら…」
 失敗した。顔を伏せた桜井を見て、内心舌打ちする。
「――大丈夫だ。龍麻なら」
 そう言える保証なんてどこにもない。安易な慰めは無益ではないのか?
「うん、そうだよね…」
 そのくせ、自分はこうして彼女を慰めている。自分でも――何をやっているのか。
 立ち上がると、椅子が床とこすれて不愉快な音をたてた。
「君達がいるなら、僕はもうここにいる必要はないな」
「如月クンは帰るの?」
「そうするよ」
「気をつけてね。龍麻に何かあったら知らせるから…」
「ああ」
 彼女達は――龍麻のそばにいる理由がある。だからそばにいる。
 そういうことだ。
「それじゃあ、また…」
 その言葉を誰にかけたのか。彼女達か。それとも彼か。如月自身にもわからない。
 病室を出て、廊下に出る。病院の無機質な風景。廊下を歩く者もいない。静かな病院だ。
自分達がいなければ、もっと静かな病院なのかもしれない。
 産婦人科と銘打ってはいるが、ここに入院している患者の何割かは出産とは関係ない患者
だろう。それもここの院長の「奇跡」のなせる業だ。
 自分の足音が妙にあたりに響く。それが不愉快だった。
 ロビーに出るところで――如月は足を止めた。


 


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