夢未来

 


 なんて人の多い街だ。初めて見たとき、そう思った。
 自分の故郷とは比べ物にならない、あまりに多い人、人、人。
  上海――劉が初めて訪れた、中国南部最大の都市。

「…人の多いところだ…」
 行き交う人々の姿も、どこかあかぬけているような気がする。 
「よう、坊主」
 駅から出たばかりの劉に声をかけたのは、いかにも胡散臭い格好をした老人だった。
 胡散臭いという点では、実は劉も同様である。着古したシャツに、背中に何やら大ぶりな
布包みを背負っている、この格好は、この街ではひどく目立つ。
「上海人じゃねぇな。どっから来た」
「福健からだよ」
「客家語だな――おまけに福健なまりがあるな。それじゃ上海でやっていけねぇわ」
「…なんでだよ」
「上海人には上海語があるんだよ」
 そういう男の言葉は、耳慣れた故郷の言葉だったのだが。
 中国はその国土の広さ、民族の多様性ゆえに、いくつもの言語が地方によって存在する。
上海人にとって、福健語は耳障りな方言でしかないということらしい。
「ついてこい。お前にいいものを見せてやる」
 なにかあてがあるわけでもないので、とりあえず劉は彼に従うことにした。上海の地理は、
まったくわかっていないのだ。それならば、どこに行っても一緒だろう。
 
 連れて行かれたのは、駅からそう離れていないところにある、さびれた酒場だった。他に
客がいることはいるのだが、どれも柄の悪そうな男ばかりである。少し――選択を誤ったの
かもしれないと、今更後悔した。
 もっとも、次の瞬間、(なんとかなるさ)と、腹をくくっていたのだが。
 客の一人が、何か男に話しかけている。早口の上海語なおかげで、まったく聞き取れない。
「…何いってんだよ」
「お前がどこから来た餓鬼かってことさ」
「――どこからでもいいじゃないか」
「まあ、座れよ。珍しい新入りだ」
 男が背中を叩いてうながす。適当に空いている席を見繕うが――どれもかなり傷んでいる。
座れば崩れそうな椅子まであった。
 とにかく立っているままというわけにもいかないので、仕方なく近場の椅子に座る。男は
劉の横に陣取って、店主らしき男と話しはじめた。
「坊主」
「…なんだよ」
 別の男が話しかけてくる。上海なまりの――福健語だった。
 しかし、上海人は、子供を見れば坊主としかいわないのだろうか。
「お前、その背中に背負ったもの下ろしたらどうだ?」
「――断る」
「おいおい。もう少し――」
 男がにやにや笑っている。
 何か堅いものが背骨に直撃する。思いきり、背中に何かがぶつかったのだ。その勢いで、
劉はテーブルにつんのめった。
「いてぇ!!」
「子供は素直にしとくもんだぜ」
 自分の後ろで、日焼けした顔の男が笑っている。――こいつか。
「何すんだよ、このおっさん!」
「おいおい、老王。この餓鬼は礼儀も知らんのか?」
 劉を無視して、日焼けした男は劉の横の男に話しかけている。隣の男は老王というらしい。
ありふれた、どこにでもありそうな名だ。
「礼儀も何も、さっき駅で会ったばっかだが」
「めずらしいなぁ、あんたがそんな餓鬼拾ってくんのも」
「久しぶりだといえ」
 老王は、ここではちょっとした顔らしい。他の客が彼には一線置いている。
「あのな、人殴っといて無視すんなよ、おっさん」
「おっさんとはなんだ、おっさんとは」
 椅子を蹴り、劉は立ちあがる。
「おい張、あんまりやりすぎんなよ」
「わかってるって」
「人の話聞いてんのかよ!」
「はいはい。よく聞いてますとも」
 まったく聞いていないのがあきらかな口調で、日焼けした男――張はからかうように笑う。
「餓鬼は素直なのが一番だって、親から教わらなかったか?」
 張の手が劉の腕をつかむ。
 次の瞬間、劉の体が宙に浮いていた。

「あーあ、やっちまった」
「だからすぐクビになるんだろ、張」
「うるせぇ」
 わけのわからないまま、背中から汚い床に叩きつけられて。
 自分に何が起こったのか、把握できない。
「よう、生きてるか、坊主」
「……」
「普通の餓鬼なら脳震盪でもおこすかな」
「いや、一応受け身はとってた。…半分失敗したが」
 そう。だから立てない。
「おーい、生きてるかー」
「…勝手に殺すなよ…」
「すごい、すごい」
 これでは、まるで赤子が歩いたかのような誉め方である。
「張の投げをくらって意識があるなんざ、たいしたもんだ。――立てるか」
「…あたり、まえだ…」
 背中に背負った青龍刀を杖代わりにして、なんとか立ちあがろうとする。
 が、途中で膝が折れた。
「ほれ、いわんこっちゃねぇ」
 老王が手を差し出す。その手を払いのけ、再び立ちあがろうとする。
「気だけは一人前のつもりか」
 苦笑しながら、老王は手を戻す。
 二度目は、なんとか自力で立てた。さっきまで自分が座っていた椅子に腰かける。
「見た目より、腕はたつみたいだが」
「……」
「自分より強い相手に挑まない。相手の力量をはかるのも、実力のうちだ」
「――わかってる」
「なら、お前は短気なだけなんだな」
 横から、アルコールの臭いがした。劉でもわかるほどの安物の酒。
「気に入った。俺のおごりだ。好きなのを頼め」
「何か食えってことか?」
「ああ」
「ここ何売ってんだ」
「さあな。おい、今日は何があるんだ?」
 ずいぶんといいかげんなものである。無愛想な店主が出したのは、烏龍茶と何かの揚げ物
だった。
「慰謝料、ってことにしとく」
「借りは作りたくない、か」
 劉の意図を察して、老王が笑う。
 揚げ物は――豚の切り身だったらしい。見た目よりあっさりしていて食べやすかった。
「何でお前が投げられたかわかるか?」
「坊主の態度が気に食わないからだろ」
「惜しいな、はずれ」
 老王は縁の欠けた椀を揺らしながら、酒をあおる。
「お前が、そんな物騒なもの背負ってるからだ」
「俺が俺のもの背負ってて悪いのか?」
 これは盗品でも何でもない。一族から渡された、れっきとした自分のものだ。
 自分が唯一持ち出した、一族の――。
「そういうことじゃない」
 老王が、ふと遠くを見るような目をした。
「ここには、上海には、銃を持ってる奴も、もっと危険なものを持ってる奴もいる。そんな
中で、お前はこんな目立つ代物を背負ってやってきたんだ。その意味がわかるか?」
「――」
「…お前は、自分を標的にしてるようなもんなんだよ。世の中渡るなら、もう少し要領良く
なったほうがいい。でないと、いつかくだらんことで命を落とすぞ」
 御節介もいいところだ――だが、そうと言いきれない、胸に何かひっかかるものがある。
「俺は、こいつを手放すわけにはいかない」
「ほう。理由は?」
「村の――皆の形見だ」
「形見?」
 劉は黙ってうなずく。

 ずっと、もう長い間。一族が封じ続けてきた凶星。
 それが目覚めたために、村は滅びた。
 地図にも載らないような、小さな村だった。
 それでも――それでも、自分のたった一つの故郷だった。
	
「それじゃあ、お前は仇討ちのためにここに来たのか? 今時流行らないことだ」
「流行とかはどうでもいい」
 一族のツテを使って一人、なんとかここまでやってきた。自分の故郷を滅ぼした、あの男
をこの手で倒すために。
「俺はあいつを倒したい。そのために――東京に行く」
「東京? 日本の?」
 老王が首をかしげる。
「あんなところまで一人で行く気か? それはずいぶん強気なことで」
「あんなところって…行ったことがあるのか!?」
「もうずいぶん昔だが」
 意外だった。
「あんまり…いい感じはしなかったな。なんていうか、ここよりこう、違ったかんじがする」
「上海とどっちが都会なんだ」
「そりゃあ、上海が上だといいたいが。あっちは街並みからして全然違う」
「へぇ…」
「なんだ、坊主。そんなことも知らずに日本に行く気だったのか」
「俺は――村から出たことなんてなかったから」
「客家にしてはめずらしいな」
 一族の者は、たいてい小さな村の中で一生を終える。その生命のすべてを賭して、大地の
龍脈を守るのだ。
「それでわざわざ、日本まで一人で行くつもりなのか?」
「ああ」
「――驚いた」
 そう言うわりに、驚いた顔には見えない。
「そんなことのために、そこまでする奴がいるなんてな」

「そんなこと!?」
 音をたてて乱暴に湯呑みを置く。劉の舌鋒が急に厳しくなる。
「そんなことだと!? 俺の村の宿願なんだ、これは!」
 滅んだ故郷。記憶にしか残っていない村。
 誰一人残らなかった。今も覚えている、あの男の赤い髪。
「宿願、か…それとお前の意志と、どっちが大切なんだ?」
「俺の意志…?」
 思いもよらない言葉だった。
「お前という、一人の人間の意志を無視してまでやる価値があることかってこった」
 自分の意志?
 今まで、自分はかなり気ままに好き勝手にやってきたほうだと思っている。今度のことも、
自分で選んだ道――そのはずだ。
「仇討ちというのも一つの手ではあるな。でも、そんなことしたって、死んだ人間が帰って
くるわけでもない。生き残った奴が幸せになるというのも、道じゃないか?」
 生き残ったのは自分だけ。自分が死ねば“封龍”の血は絶える。
 だが。生き残るだけでは駄目だ。
 自分には、もう一つやらねばならぬことがある。

「日本に…俺と同じ“兄”がいるらしいんだ。そいつに会って…話をしたい」
「生き別れか?」
「…血はつながってないけどな。俺の村で死んだ日本人がいて…その息子が日本にいるはず
だから。俺の名前はその人からもらった」
「恩人、か」
「村の皆が死んで、結局その人が――弦麻っていうらしいけどな――やったことも、無駄に
なってしまったから…。そいつに会って、話をしないといけないんだ」
 記憶のかけらにしか残っていない、“兄”。彼は、どんな顔をしているのだろう。
 今、何をしているのだろう。大陸の、小さな村のことを覚えているのだろうか。
「そいつの親父さんがやったこと、これから起こること…全部、伝えないといけないんだ」
「――偉いな、お前は」
 ふっと、老王の目がなごんだ。
「お前の目には、歪んでない光がある。今時めずらしい、まっすぐな目だ」
「ど、どうしたんだよ、爺さん」
 いきなり誉められて、劉は戸惑う。さっきまでさんざんこきおろしていたというのに。

「行ってみるか? 東京に」

「は?」
 突然の問い。
「俺の知り合いが定期船の船長にいる。日本のどこに着くかは忘れたかな。なに、日本にさ
えつけば、後はどうにでもなる。なんせ、こっちと違って狭い島国だ」
「…いいのかよ」
 実は余分な旅金もパスポートもない。持っているのはいくらかの――それこそ一月食べて
いけるかどうかというぐらいの金と、替えの服が数着、背中の青龍刀ぐらいだ。
「金はいらん。餓鬼一人なら、なんとかなるっていってたしな。ただし、見つかったときは
――わかるな?」
 劉はゆっくりうなずく。
「それでもいいっていうなら、俺が話をつけてやろう。どうする」
 向こうに行ってどうなるのか。それは自分にもわからない。右も左もわからない土地で、
ほとんど会ったこともないような人間を探すのだ。
 ――日本に行け。そこに、お前の《宿星》がある。
 そう、村長が伝えてくれた。
 だからきっと――彼に会える。

「――のった」

 向こうで何が待っているのか、劉自身にもわからない。だがそれは、ここでも同じことだ。
 だったら一つ、大きな冒険に出るのもいいじゃないか。

「商談、成立だな」
 老王が笑う。差し出された手を劉の手がたたく。
「ここでさっきの話はなかったことに、なんていったら、こいつで叩き斬るからな」
「俺の面子にかけて、そんなことはしねぇよ」
 店主に何事か言いつける。奥の棚から店主は新たな湯呑みを二つ取り出した。
「成立の証拠だ。お前も飲め、坊主」
「子供に飲ませんなよ」
 さっきまで飲んでいたような酒とは違う。花のような、甘い香りがした。
「酒が飲めんような大人になるぞ、それはつまらん」
「…わかったよ」
 苦笑いしながら、初めての酒を受け取る。
 口に含んだそれは、思っていたより甘かった。


「老王」
「なんだ」
 結局劉は、老王のねぐらに厄介になった。さすがに上海に知り合いはいなかったから、他
に選択肢がなかったのだ。
「なんで、俺にそこまで世話をかけるんだ?」
 粗末な寝台の上で、薄い毛布にくるまりながら、劉は老王にたずねる。
 いきなり声をかけて、宿の世話をし、日本までの行程まで段取りをつけてくれるという。
疑うわけではないが、理由が気になった。
「俺の娘が、福健の男と結婚してた」
「それで、俺の言葉がわかったのか」
「息子――俺にとっちゃ孫にあたるんだがな。生きてたらお前ぐらいの年だった」
「生きてたら――?」
「死んだよ。もう、五年も前の話だ」
 狭い、薄暗い部屋。どこかこもっていて空気が悪い。
「あれは、日本に行くのが夢だった。お前を見てそれを思い出した」
「…そうか…」
 謝るべきかとも思った。だが、彼の背中がそれを拒絶している。
「明日の晩、船が着く。それまで餓鬼は寝てろ」
「わかったよ」
 あっさりと劉は従った。
 これが何日かぶりの、落ち着いた睡眠だったことを、眠る直前に思い出した。


 次の日。老王は上海を案内してくれた。
 劉にはすべてが初めて体験することばかりだった。
 行き交う人、自動車。飛び交う声。
 これ以上のものが、東京にあるのだという。

「どうした」
「ん?」
 歩き通しの一日の終わりに、二人は外灘までやってきた。
「空なんか眺めても腹はふくれんぞ」
「いや、こっちの空は小さいなって」
 ビルの隙間からのぞく空は、まるで切り取られているようだった。
 故郷の、地平の彼方まで続くような空とは全然違う。
「東京も、同じようなものだろう」
「ああそうだっけ」
 今日で、この国とは別れることになる。いつかまた、戻ってくるかもしれないが。
「お前に一つ、頼みたいことがある」
「なんだよ。やっぱりただじゃやらせないってか?」
 老王は、ポケットから白い布を取り出す。
「こいつを――日本まで持っていってくれ」
 ところどころ、それは色あせている。
「なんだ? これ」
 手に取ったそれをしげしげと眺め、劉は問いただす。
「長生の――孫の形見だ」
 彼が何故劉にそこまで手助けするのか。それで完全にわかった気がした。
「――わかったよ」
 手入れせず、すっかり伸びてしまった髪をかきあげ、劉はうなずく。
「ちょっと貸してみろ」
「ん?」
 老王は白い布を器用に折り、劉の頭に巻きつける。
「お前の前髪はうざったいんだ」
「おい、いいのかよ、大事な形見なんだろ!?」
「いいんだ」
 彼が言うなら、それでいいのだろう。
「短いつきあいだったな」
「でも、一生忘れないからな」
「忘れるなよ、お前はこの大陸で生まれた人間だ」
「ああ」
「いつかまた、ここに帰って来い。自分の道を見つけたらな」

 こことはどこだろう。誰もいなくなった故郷か。この上海か。
 たぶん、そのどちらでもない。
 ――自分が生まれた、この大陸だ。

「今度は――酒の飲み方教えてくれよな。本場仕込みの日本語教えてやるからさ」
「…遠慮する。お前の日本語なんて、ろくなもんじゃないに決まってる」
「ひでぇなぁ…」
「先に、その福健なまりの客家語をなんとかしろ」
「へいへい」
 二人は歩きながら、笑っている。
 夕暮れが、空を赤く染めていた。



 船上の甲板に出て、風を浴びる。船室のこもった空気よりは潮の匂いのする風のほうが、
はるかに心地よい。
 白いバンダナを撫でながら、劉は故郷の大陸を眺めている。
 
 これから、何が起こるのだろう。
 自分たちが封じていたものが目覚め、東京へと動いた。
 そして、東京に自分と同じ《宿星》を持つものがいる。
 自分はどうするだろう。どんな道を歩み、どんな未来をつかむのだろう。
 これからのことに不安がないというわけではない。
 新しい道を進む不安より、未来への希望のほうが大きいというだけだ。


 大陸からの乾いた風が、髪を揺らした。
 それが、劉が最後に感じた、故郷の記憶だった。


 


 

月伽サン、これでいいですか?

ほとんど初書きの劉弦月でした。書きやすそうで書きにくい彼。
とりあえず、東京にやってくる前という設定で。
この劉はすべて『ひよ研』月伽氏に押し付けます。返品不可。覚悟せよ。
徹底的に中国語にしてやろうかとも思いましたが、俺の体力と時間、 さらにネット環境を考え却下。
彼がしゃべっているのは客家語なので、こういう表記です。
似非関西弁じゃないのはそういうこと。書いてて違和感あるあたりが彼だ。
彼のシリアスというのもおもしろいかも。
上海は、凄く好きな街の一つですな。いつかもう一度ゆっくり行きたい都市。
卒業後に中国行ったら、一ヶ月くらいいそうだな…。

 

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