主婦は賢い

 

僕は専業主婦というものに対して偏見に近いものを持っている。たとえば東急電車にのって、玉川高島屋のコミュニティスクールあたりから帰宅途中とおぼしき女性群にであうと、その思いは一気に強いものになる。あの緊張感のない顔の群を見ていると気分が悪くなる。要するに主婦は働いていない、という思いこみである。

 

だいたい専業主婦の仕事とはなんであろうか。世の中には共稼ぎをしている人達がいる。お店をもって働いている夫婦もそうだし、二人ともに給与労働者の場合もそうである。彼らの場合には、専業主婦の仕事である家事一般は二人で分担していることが多い。つまり、専業主婦の労働量をYとし、たとえば給与労働者の労働量をXとするとき、共稼ぎの場合には、ともにX+Y/2ということである。また、中には片親で子どもの世話までしているケースがある。こうした場合にはX+Yを一人でこなしているわけで、人間はそこまで実行できるのである。しかるに、専業主婦の場合には、夫がXであるのに対して、Yということになる。そのとき、本当にX=Yという形で、同じ負荷を分担しているといえるのだろうか。僕はそこに大いなる疑問を感じている。

 

夫が夜中まで仕事をしているときに、主婦が教養と称してカルチャースクールに通う。この図式を考えるととても気分が悪くなる。もちろん労働は時間だけで評価されるべきではない。その密度も問題である。したがって、労働時間に密度を掛けたものを総時間に関して積分したもので両者を比較する必要がある。しかし、それをやったところで主婦の総労働量が夫のそれに等しいことにはならないだろう、と予想している。もちろんそれは予想にすぎないのだが、そういえば、こうした計算が発表されたという話を聞いたことがない。なぜなのだろう。おそらく、そうした計算を主婦の側がやれば自分たちの不利をさらけだすことになるからだし、夫の側からすれば、そうして計算したところで自分の仕事がへるわけではないから、といったような考えがあるからではなかろうか。

 

しかし考えてみれば、労働というのは総労働量によって評価されるべきものでもない。たとえば労働の対価としての収入についていえば、必ずしも長時間汗水たらして働いたからといって高額の収入が得られるとは限らない。むしろ椅子に座って電話で売買の指示をしている株主の方がはるかに高い収入を得ている。あるいは財閥の御曹司などは、労働をしないでもばく大な財産の上にあぐらをかいている。

 

そうなのだ。労働と収入とは独立な概念なのだ。だから、賢い人間は、安定した収入の上に、安楽な生活パターンを構築しようとするし、それができるのだ。で、僕みたいに賢くない人間は、ちょこちょこ走り回って、小金をかせいでは時間がないない、といって不平を口にしているわけなのだ。世の中とはかくも不公平なものなのだ。だから賢く立ち回らねば損をするだけなのだ。で、主婦という人種は、そうした世の中の仕組みに敏感であり、巧みに自分たちの立場と言い分を確立してきたのだ。だから、自分たちに不利な労働量の計算などは絶対にやろうとはしないのだ。

 

しかし、このように夫と専業主婦とのバランスがくずれており、後者が安楽な生活をしているからといって、それを職場での男女差別の口実にするのは適切ではない。独身の女性もいるし、共稼ぎの女性もいるわけだが、やはり職場では均等な権利と報酬が保証されるべきだと思う。だから最近、均等化への動きが、ゆっくりとではあるけれども進行しつつあることは良いことだと思っている。だが、ここで強調しておきたいのは、それと並行して改善されるべきは、家庭における均等化であり、不平等の撤廃である。職場においても、家庭においても、男女の権利と義務が均等化されてはじめて本当の男女平等が達成されるのだと思う。

 

仕事に疲れたら結婚して家庭に入ろうか、などというけしからん言い方をする女性がいる。これは家庭が仕事からの逃避の場になりうるということ、そしてまた家事の負担があきらかに仕事にくらべて軽く、ストレスのないものであることを語っている。こうした発言、いや発想を根絶するべく、男性はもっと高い意識をもって戦わなければならない。男性の世界は職場であって、そこでの権限を保持していくことが大切なのだ、などという考え方は時代錯誤である。そんな男がいる限り、家庭での主婦の怠惰な生活は改まらないし、定年退職をして、すでに主婦の世界になりきっている家庭に入っていこうとすると粗大ごみ扱いをされることになるのだ。男性はもっと先をみて、真の男女平等にめざめるべきなのだと思う。その意味では、今流行のフェミニズムとあわせて、マスキュリニズムとでもいえばいいのだろうか、そうした発想をもっと世間に浸透させる必要もあるだろう。

 

ともかく、そのように積極的にとりくまなければ、狡賢い専業主婦には太刀打ちできないのだ。男性諸君、労働量の計算をしてみようではないか。そして家庭における権利の復活に向かって動き出そう。きっと、世の中には、フェミニズムに同調する男性がいると同じように、マスキュリニズムに理解をしてしてくれる女性もいるはずだ。彼女たちは単なる女性解放論者ではなく、真の意味での人間解放論者だといってもいいだろう。職場における男女平等の確立と同時に家庭における男女平等をめざして、さあ彼女たちと共に立ち上がろうではないか。