「魔胎伝」

脚本 ブレード・ムラタ、 監督 本田明成

1991年ソロプロジェクト作品

 この年の4月ににっかつ芸術学院(現・日活芸術学院)映像科に入学し、4年ぶりに日本に帰国した本田明成氏とともに自主映画を創ろうということで、プロジェクトを立ち上げたんだ。ああ、もちろん、本田さんも一緒ににっかつに入った。
 で、仲間を何人か集めて、本格的に大規模な映画のプロジェクトがスタートした。
 それが、この「魔胎伝」。

 これも87年度城南高校映画部時代に企画していたプロットなんだけど、今回映画化にあたって特にいじったところはなかったね。
 せいぜいコミカルなシーンをいれたくらい。

 キャスティングは、俳優科の人達に声をかけて、これも結構な人数に集まってもらった。
 でも、主役は同じ映像科の小松公典=こまっちゃんに決めていた。
 主人公はキザな関西人。これをできるのは演技経験豊富な関西人のこまっちゃんしか考えられなかった。
 でも、俳優科は、主人公が映像科の人間であることに猛反対。
 結局こまっちゃんを降板したわけだが、これはいまだに残念に思っている。妙な縄張り意識が当時の映像科と俳優科にはめだってあったからねぇ。

 こまっちゃんは、面白い人だったよ。
 なんか志村けんみたいなキャラだったな。からだはってたから、彼は。
 今はシナリオライターとしてピンク映画の脚本をバンバン書いてるらしい。
 がんばってほしいな。俺もだけど。

 後任には俳優科で、チョイ役をやる予定だった仁井田秀雄を繰り上げた。イメージがだいぶ違ったが、俳優科との力のバランスを考えれば、仕方のないことだった。

 ヒロイン役には俳優科の関塚まいこを抜擢していたんだけど、正直自分にとって彼女はたいした存在感をしめしていなかった。
 このヒロインというのは、いわゆるいるのかいないのかわからないタイプのヒロインだから、むしろ引き立て役の助演女優の方が重要だった。

 自分は俳優科の面子に会った当初から野口律子=りっちゃんには目をつけていた。だから、このサブヒロインを彼女にやってもらうことにしたんだ。
 彼女には、他の俳優達にはない「華」があったね。
 まあ、その後彼女は「カクレンジャー」の悪役とかやってそれなりに業界で活躍するわけだから、自分の目に狂いはなかったといえるだろう。ネットで調べる限り、彼女にもファンがいるようだから、その修行時代に一緒に映画を撮ったということで自慢にはなるわな。
 りっちゃんは気さくな子だったけど、この作品の後、自分の企画をオファーしたけど「トレンディがやりたい」と断られた。
 当時はそういう時代だったし、彼女の言うことも理解できたけど、あの企画に参加してたらもっと演技の幅が広がったと思うよ。そういう考えというのは、当時のりっちゃんをはじめとする俳優科の連中にはなかったし、なにせみんな若かったからしょうがないよね。

 結局、この「魔胎伝」は完成していない。
 一番重要な部分のフィルムの欠損が原因だった。
 この失敗と、次企画の失敗により、自分の立場はなくなり、にっかつ芸術学院を後にする遠因となったんだ。

 でも、楽しかったな、あの頃も。
 金の心配もなかったし、若い連中で昼夜とわずワイワイやってた。
 今の自分がやろうとしても、まずできないことだよな。たとえ著名な監督になってたとしても、だ。

 だから、青春っていうのはいいもんなんだろうね。