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エンターテインメント・レビュー

第九弾

映画

「もののけ姫」

宮崎 駿監督作品

これは、各マスコミが「今世紀最大の傑作」と謳いあげ、多くの観客が感動したラシイ作品だ。
この作品を最後に、宮崎 駿氏はアニメ界を引退すると宣言していたが、後になって撤回した。
少なからず宮崎氏に影響を受けている自分としては、何としても劇場で見たかったが、諸事情によりかなわず、今回ビデオをわざわざ買ってまでして見た。
自分の父はもちろん凡人のサラリーマンだが、この宮崎氏を創作の父=オヤジと思っている。それは同氏が故手塚 治氏をオヤジと慕っているのと同じ感覚である。自分が今こうやって脚本や映像を書いたり作ったりしているのは、もちろん宮崎 駿の存在があったからだけでは決してないが、創作活動を始める発端の一つであることは否定できない。

だから、この「もののけ姫」にはムショウに腹が立った。
「何をやっているんだ!」が最初にでた感想だった。
陳腐な「自然と人間の共生テーマ」に「強引な愛情表現」。
彼の、この物語にテーマを押し付ける強引な演出は、かつて「ナウシカ」の時に押井 守氏(我が創作の師と思っている)に徹底的にたたかれていたが、「もののけ姫」はその部分が改善するどころか、更に悪化していた。

何故アシタカはサンを命がけで守るのか?
宮崎流ドラマツルギーでいえば、それはアシタカがサンに運命を感じたからだ。
問題は、何故運命を感じたか、だ。
コナンはラナに運命を感じた。それは無人島におじいさんと二人きりで住んでいた彼がはじめて出会った絶世の美女だったからだ。
ルパンは何故クラリスに運命を感じたか?それは少女だったクラリスがそれまでのすさんだルパンの生活に清らかさを持ちこんできたからだ。だから17歳になったクラリスを見た時もルパンは彼女を「きれいなネーちゃん」ではなく、絶世の美女としてとらえた。
もう二度と会えないかもしれない、セックスの対象としてでない美女。
これを守る事に男は命を懸けられる。
最初の問いに戻るが、何故アシタカはサンに運命を感じたか?
それには答えられない。
正直に言ってサンは、見た目に可愛いかもしれないが、二度と会えない絶世の美女ではない。
血まみれの口を拭いこちらを睨みつける彼女に、アシタカはセックスは感じるかもしれないが、運命は感じないはずである。
違う、というのであればそれを証明してほしい。宮崎氏はかつて、コナンの一話のラッシュを見て大塚康夫氏の作画に激怒したそうだ。「ラナは、コナンが運命を感じるくらいの美女でなければならない。こんなブスに運命を感じるか!」と。サンはブスではないかもしれないが、いたって平凡な少女である。
アシタカがサンにセックスを求めたとすれば、村に乱入したサンを命がけで守るのにも納得できる。だってヤリタイんだから。
でも、彼はサンにセックスは求めない。常に愛しげに見るだけだ。
そんなアシタカには「蓼食う虫も好き好きだなぁ」としか感じない。だからこの作品に感情移入する事は出来ない。
繰り返すがサンは、クラリスやラナのような「泥臭い性的概念から乖離した完璧なヒロイン」ではない。つまりそれまでの宮崎作品に登場する「うんこもおしっこもしない女の子」ではないのだ。
恐らく本作での宮崎氏の狙いの一つは「脱・理想のヒロイン」だろう。そしてサンというキャラが作られた。でもアシタカはサンを「理想のヒロイン」と認識してしまう。さながらそうプログラムされたロボットのように、である。この矛盾が、自分を興ざめさせた原因だった。
ではどうすればよかったのか?
宮崎氏の哲学には反するだろうが、アシタカがサンを「自分の女」にすべく努力すればよかったのだ。サンの野生的な一面と、ホロッと見せる女の部分に虜になって彼女を追っかけまくれば、少なくとも自分は彼の心情を理解できたはずである。
そういうキャラが主人公でも十分「自然と人間の共生」は語れたはずである。
つまり宮崎氏の図った「脱皮」が不充分だったのだ。

宮崎 駿のような個性の強い作家が「脱皮」をするには思いきった1歩が必要である。
だから引退を撤回したのは正解だ。
一度脱皮を始めたのだから、完全に脱皮しおわるまでがんばってほしい。


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