第五回 「”ラブシーン”論」

 

アジアや日本の性表現は抑圧されている。
もちろん宗教的あるいは社会的通念からだ。
これは紛れもない事実で、最近のアジア映画や日本のヤングシネマでアッケラカンとセックスシーンが挿入されるのは、いわばこの抑圧に対する爆発的表現。

それはいい。
別に否定はしない。

でもね、それがすべてになってくると、ちょっと困る。

特に最近の日本のヤングシネマにおけるセックス描写はエロティックというよりもリアルだ。これって考えようによっては日本的ではない。実にアメリカ的だ。
アメリカ映画でそういう表現があってもなんとも思わないが、これが日本映画となると、僕はちょっと抵抗感がある。

だって、日本人だもの。
古いとか新しいとか、保守的だとかリベラルだとか関係なしに、日本人のDNAには「セックスは恥ずかしい」という概念がどうしても刻み込まれている。他のアジア圏の人もあまり変わらないだろう。

チェン・カイコー監督がハリウッド映画(タイトル忘れた)でやったようなことは、ハリウッドだから抵抗感なく見れる。僕らはアメリカ文化を見ているのだ。

だから、その文化を強引にアジアに、日本に持ってくると、ちょっと違和感がある。

「性の解放」はいいことだ、と誰もが思っていると同時に、どこかに疑問も持っていないか?
ある女優があるヤングシネマのインタビューで「セックスシーンは楽しんで、積極的に挑んだ」と某雑誌にのべていたが、非常に僕はそれが嫌だった。
何か嫌だったかっていうと、「みんな、セックスはいいことなんだよ、はずかしくないんだよ!」と強制されているようだったからだ。それにDNAが猛烈に拒否反応を起こしたんだね。

ラブシーンというのは、なにもセックスシーンである必要はないし、要はピストン運動をしっかり描くということではないと思う。男と女が見つめあうだけでもラブシーンにはなり得るのだ、と僕は思う。

だから、自分の作品でセックスシーンを赤裸々に描いたことはほとんどない。
一回だけ、アメリカが舞台のオリジナル脚本で描いたことがあるが、あれはテーマがアメリカ文化の日本侵略だったので、敢えてそういうシーンも入れた。
でも、日本を舞台にした場合、僕は必要性が多少あっても敢えていれない。それが自分のオリジナリティのひとつだと思ってるし、ハリウッドではない映画文化を創っていきたいのだ。

「みんな、赤裸々にセックスしてカンヌに行こう」ってのはどうかねぇ?

僕は、ラブシーンってのはそうであってほしくないな、って思うね。

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