浅羽通明
あるいは理想なき理想主義者


 浅羽通明さんの作品に初めて触れたのは「おたくの本」だったように思う。前後して「ニセ学生マニュアル」を読んだ。衝撃的だった。世間知らずのオタク高校生に実も蓋もない世界を示してくれた。この人には笑われないようになりたい、と思った。
 ときは流れて、私はオタク大学生を経てオタク社会人になった。社会に出てしまうと、大学で学んだ半端哲学などまるで役に立たない。しかし何らかの拠り所がなければ、多様な価値に押し流されてしまう。私は拠り所として、呉智英先生から論語を御講義いただきたいと考えた。
 呉智英先生は以費塾という論語講義の私塾を開いている。そして以費塾のプロデューサーが浅羽さんなのだ。次の塾生募集がいつからなのか知りたいというもことあり、私は浅羽さんの発行するレターペーパー「流行神」を申し込んだ。また浅羽ページ(現在は閉鎖)で情報収集を行った。一橋大学で阿部勤也学長と対談を行うと知った。
 当然、参加した。阿部先生のことは以前より尊敬していたのだ。
 現れた阿部先生は、写真よりも恰好いい方であった。生気がみなぎっている。禿頭だが、これがまた恰好いい。髪がないのではなく、堂々とした頭皮を晒しているという感じなのだ。ポケットから眼鏡を取り出してかける様もまた優美であった。
 一方の浅羽さんだが、「ゴーマニズム宣言」から飛び出したような容貌であった。前期型も似ていないことはないのだが、あれは美化しすぎている。マイク不要の大声といい、後期型の似顔絵が内面まで表している。
 対談の内容だが、テーマは「教養教育の行方 〜教養ある人とは〜」ということで、阿部学長は上梓されたばかりの「教養とは何か」をもとに語り、浅羽さんは「ニセ学生マニュアル」や「大学で何を学ぶか」をベースに議論を仕掛けた。
 この討論の内容については、メモをどこかにやってしまったので再現できない。残念である。しかし自説の紹介にとどまらない噛み合った議論がなされており、時間の経つのを忘れるほどであった。
 二人の基本姿勢も特徴的だった。阿部学長は、理想は存在し弛まぬ努力がそれを可能にする、と説く。対する浅羽さんは、理想は存在せず実現は不可能なのだとする。そして、不可能なもののために多大な労力を費やして教養教育の制度を改革するよりも、現存の制度を活用してできることをした方がよいしそれで十分だという。つまり、ニセ学生である。
 しかし私は浅羽さんの主張の裏に、高邁な理想の存在が感じられて仕方がなかった。それは到底実現不能であるから、浅羽さんはやや露悪的な現実路線を取っている。そんな気がしたのだ。
 ところで私は浅羽さんのことを、決して先生とは呼ばないでいる。私は以費塾で呉智英先生に弟子入りしたのであって、浅羽さんに弟子入りしたのではない。それに浅羽さんの考えの方向性はあまりに私と似ているように感じるのだ。これが傲慢な感想だというのは承知している。浅羽さんは司法試験を合格してからドロップアウトした本格派であり、私は司法試験を受ける気にすらなれなかった。知識量もまるで違う。それでもこの感覚だけは、どうしてもぬぐい去ることができない。


「愉快でカルトな語り部たち」に戻る