木村貴、・・・言葉つかひ

「帝王は人民に羅馬(ロオマ)の公民權を與へることは出來やう、しかし新しい言語を作ることは出來ない」−−森鴎
外「仮名遣意見」より
オーストリア出身のノーベル經濟學賞受賞者で、哲学者でもあるフリードリッヒ・フォン・ハイエクは「自生的秩序
」という概念を強調してゐます。
自生的秩序とは、人間が自覚的に作り出したものではないのに、結果的に何らかの目的にかなうやうに自然に發達し
、人間の社会生活に不可欠になつた制度を指します。市場經濟はその一つですが、言語もまた代表的な自生的秩序で
あるとハイエクは言ひます。
言語は特定の天才が發明したわけでもないのに、實にうまく出來てゐます。聖書に「はじめに言葉あり、言葉は神と
ともにあり、言葉は神なりき」(ヨハネ傳福音書)とあるやうに、昔の人が「言葉は神樣が作つた」と考へたのも不
思議はありません。
市場經濟に人為的な介入がなされるとしばしばその機能が狂ふやうに、言葉も人間の手でいぢくり囘されると本來の
合理性を失なつてしまひます。
ギリシャ語で「言葉」を意味する「ロゴス」が同時に「論理」を示す通り、言葉とは本來合理的なものです。言葉の
姿をねぢ曲げれば、 様々な不合理が生じてきます。
その典型が戰後日本に導入された「現代假名遣い」です。以下に例を挙げます。
「づ」と「ず」、「ぢ」と「じ」
現代假名遣いでは、手綱は「たづな」なのに、絆は「きづな」でなく「きずな」と書く。両方とも「つな」から出來
た言葉だが、なぜ違ふのか。
片付く、小突くは「かたづく」「こづく」なのに、肯く、躓くは「うなづく」「つまづく」でなく、「うなずく」「
つまずく」。書き分けの基準が不透明。
「大地」は「だいち」なのに、「地震」は「じしん」。鼻血を「はなぢ」と書くのだから、「ぢしん」でいいではな
いか。
「中」の字は「最中」では「ちゅう」なのに、「世界中」では「じゅう」。「曾根崎心中」では「じゅう」なのに、
「心中お察しします」では「ちゅう」。同じ「中」の字を、濁れば「じ」、濁らなければ「ち」と書き分ける意味が
あるのか。
活用形の不合理
歴史的仮名遣では、「書く」の未然形は「書かない」と「書かう」で、ともに「あ列」。しかし現代假名遣いでは、
「書かない」「書こう」となつて「あ列」「お列」が混在し、規則正くない。
「おめでたう」「ありがたう」は、現代假名遣いでは「おめでとう」「ありがとう」となり、語幹(變化しない部分
)であるはずの「おめでた」の「た」、「ありがた」の「た」が、どちらも「と」に變はつてしまふ。
胡瓜、狩人、河原
胡瓜(もともとは黄瓜または生瓜)は歴史的假名遣では「きうり」、狩人は「かりうど」と語源に忠實な表記。現代
假名遣いは「きゅうり」「かりゅうど」となり、語源が不明になる。河原を「かはら」でなく、「かわら」と書くの
も同じ弊害がある。
…等々です。
言葉は歴史の中で多くの先人達によつて磨かれてきたものであり、鴎外も書いてゐるやうに、皇帝と言へども勝手に
變へることは出來ません。すなはち、政治による言葉への介入は越權行爲であり、言葉の生命を枯らしてしまふので
す。
經濟問題や社會問題では政治の介入を嚴しく批判する人々も、言葉への介入には甚だ鈍感の樣に見えます。
しかし言葉とは人間が物事を考へる土臺であり、その土臺がぐらついたままでは、何事につけ精確で緻密な思考はで
きないのではないでせうか。
 

(了)