「西暦二千年に思ふ」(平成つれづれ草)  木村貴
もうすぐ西暦二千年を迎える。
日本の「ミレニアム騷ぎ」は實にくだらぬが、さりとて「キリスト教の暦
が代替りするからといつて、日本人に何の關係があるか」と言ひ捨て
ることはできない。
現代は鎖國時代ではない。
日本は五十年以上も前にそのことを思ひ知つた筈だ。
折口信夫は昭和二十四年に出した「神道の新しい方向」と云ふ文章
の中でかう書いた。
「まさか、終戰のみじめな事實が、日々刻々に近寄つてゐようとは
考へもつきませんでした。その或日、ふつと或啓示が胸に浮かんで
來るやうな氣持ちがして、愕然と致しました。それはこんな話を聞い
たのです。あめりかの青年達がひよつとすると、あのえるされむを
囘復する爲に出來るだけの努力を費やした、十字軍における彼らの
祖先の情熱をもつて、この戰爭に努力してゐるのではなからうか、と。
もしさうだつたら、われわれは、この戰爭に勝ち目があるだらうかと
いふ、静かな反省が起こつても來ました。」
日本は、アメリカがいかに強力な精神的支柱を持つか、よく知らぬ
ままに戰ひ、敗れた。「日本は神國」と言つたはいいが、アメリカも
また「神の國」であることに思ひ至らなかつた。
しかもアメリカの神、即ちキリスト教の神は、日本の人間臭い八百萬
の神と異なり、甚だ不寛容で峻厳な、手強い神であつた。
折口は別の文章で書いてゐる。
「我々は(中略)神々の敗北といふことを考へなかつた。(中略)我々
は奇蹟を信じてゐた。しかし、我々側には一つも現れず、向うばかり
に現れた。(中略)過去の信仰の形骸のみにたよつて、心の中に現實
に神の信仰を持つてゐないのだから、敗けるのは信仰的に必然だと
考へられた。」(「神道宗教化の意義」)
西暦二千年の年月はそのまま、西洋人がキリスト教と格鬪してきた
歴史である。その間、彼らは「全知全能の神が創造した世界に何ゆゑ
惡が存在するのか」「救はれる人間とさうでない人間があらかじめ
定まつてゐるのなら、なにゆゑ人間は道徳的に生きなければならない
のか」といつた難問に惱み、答へを見出そうと七転八倒してきた。
パスカル、ニーチェ、キルケゴール、ドストエフスキー。
西洋近代の哲學、文學でキリスト教と関係の無いものはほとんど無い。
西洋の自然科學も、キリスト教拔きには発達し得なかつたと言はれる。
さうした彼らの努力に引替へ、今の日本人は、日本の神の問題に
どれだけ眞劍に取り組んでゐるか。
日本の神の問題は、天皇を抜きに論じる事は出來ない。
しかし今上天皇のご在位十周年で、我々は藝能人を引つ張り出し
ての馬鹿騷ぎは樂しんだが、日本の宗教について眞劍に考へようと
しなかつた。
そして、上滑りの「ミレニアム騷ぎ」。我々はキリスト教についても
眞劍に考へやうとしてゐない。
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日本人とは対照的に、西洋の人々は二千年を機に信仰についてあらた
めて考へを深めようとしてゐる。
こんな情景を想像する。
華やかなミレニアム・パーティーを期待して教會の扉を開くと、そこには
十字架の下で静かに祈りを捧げる人々。
「あなたは何をしにここに來られたのですか?」
さう問ひかけられた時、我々はどう答へればいいのだらうか。
(平成11年(1999年)12月30日記)