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究極のセレブブランド・アウトレット JBL J520M
セレブレティ御用達ブランドは高価で当たり前...もちろん、最上のクオリティやクラフトマンシップを求めれば相応のコストがかかるのはやむを得ないことである。

が、おそらく人は、"価格が高い"ことにステイタスを感じる生き物ではない。アルマーニやシャネルのスーツも、ベントレーやランボルギーニ・ミウラも、モナコのマリーナに集まる豪華な上に豪華なクルーザーボート(観光客によるレンタルが可能なことはあまり知られていない)だって、海外の王族や現在の各国の"領主"系貴族が住まうお城にしても、それ自体としては特定の誰かの占有物でありたい等と思っていないのではないか、という気がする時もある。

贅沢をしたくない人はいない。贅沢はしていない、という人物がいるとすれば、それは彼もしくは彼女の贅沢観が貴族寄りというよりは民衆寄りだというだけで、民衆の世界には民衆の世界の贅沢だってある。本当にお金がなくて自分なりの贅沢さにこだわるができない、という人は土日もショップレジのパートでもやるなどしてアルバイトでもしなさいという他にない気もしてしまうのだが、実際のところ、少なくないセレブな贅沢はアルバイト程度の副収入で実現できてしまったりもする薄利多売の時代。

民衆に愛されるサービスを実現できる経営者やエンターテイナー、VIPは真に西洋的な領主階級や生産手段もしくは巨富を有する階級における社会的な使命感である"ノーブレス・オブリージュ"の意識にも気づいているはずだろうと思われるのだが、(まともな)本流の上流階級はけっして民衆との間の階級断絶を目指してエゴイスティックに贅沢や名誉を独占しようとしてきたわけではなく、(衝撃的なスター出現劇とブリティッシュロックサウンドの古典フォーマットを築いたことで知られたザ・ビートルズを宮殿に招いたり実質男爵の爵位に当る勲章を授与したりしたように)栄誉に値する人間に対する評価付けやソサエティへのメンバー入りを認めるなどを積極的に行なったり、また実際の階級意識は目に見えたり相伝されてきた便宜的な部分だけの問題で、神の下で人は皆等しなみ、という認識を最もしっかりと確立してきたのはより本流に近い王侯貴族であったり強大な権威で地方を治めてきた領主であったりしてきた。

モダン以降の時代になり、ライフスタイルは個人を規準として好みに応じて誰でもがデザインできるようになってきた。求められることはしっかりと、毅然と、本当の自分自身を磨き、心身ともに向上させること。贅沢はすでに薄利多売の時代に入り、あとは個性を磨くことであり、必要な社会的な義務や使命を良心的に果たせるか、というテーマの追求にあることは間違いがない。

何が贅沢であるかは、個々の当人にしかわかりえない時代になった。社会的なフォーマットやモードは多方向から多様に入り組んでいる。高価であることが素晴らしいのではなく、一流の究極であることこそが輝かしい事実なのだ、という認識が、より広く浸透していくことが望まれているような気がする一方で、現代人はもっと(誰のためでもなく誰に気兼ねするものでもない営為としての)自分らしい贅沢を追求していっていいはずだ、という気がしてならない。

サロンにとって不可欠な(実際のところそれが高尚であるかどうかはともかくとして)ファッショナブルでエレガントなファクターとしての音楽の重要性に気づいている日本人は、いったいどれほどいることだろう。日本人の多くの音楽マニアの感覚はよかれあしかれ"下手の横好き"としてのものである。それが磨きこまれて一流の究極になっていったアーティストはわが国にもけっして少なくはないが、実は現代ニッポンの民衆社会においては"下手な横好き"感覚はとても重要なヒットファクターだったりもする一方で、営々と育まれてきた旧上流階級側の文化もまた伝承されるべき資源なのであって、(マーケットとしてのキャパシティはともかくとして)きわめて重要度の高い流れであることも間違いがない。

音楽の世界には、スコアにおけるクリエイティブな感性にも一流の究極が求められるべきだと思われ、またアーティストの歌唱や演奏の技術やまたストラディバリウスのヴァイオリンや往時のスタインウェイピアノに見られるような楽器職人のクラフトマンシップのレベル、また演奏会場の芸術への配慮や高い音響工学レベルの実現、教養や素養があり好意的な、あるいは厳然たる公正な尺度を持った観客や評価者の存在等、様々なファクターが複合的に織り成す総合芸術としての要素もある。

しかし、レコードの発明以後の時代となり、コンサートはライヴステージ同様にインドアでも装置再生的に繰り広げられる時代となり、よりパーソナルに聴かれる嗜好品ともなってきた。

一部のロックファンやヒップホッパーのような風俗としての存在の耳はともかく、聴き耳の領域での一流の究極を目指すコンサートリスナーにとっては、ファッションやグルメ、インテリアやライフアイテム、また自動車や(ロンドン-ニューヨーク間片道30万円也のファーストクラス専用キャビンで知られるコンコルド機のような)交通用のマニアックなメカニズム愛好等の贅沢と並んで、コンポーネントステレオというジャンルのオーディオ機器にこだわる贅沢というものもあり、それはたいへん重要なライフスタイル上の必須ファクターであったりもしてきた。

ハイフィディリティオーディオ界の定番高級ブランドといえば、スピーカーの分野では、アメリカのブランドならJBLやイーストコーストの新興勢力BOSE、そしてイギリスのTANNOYが有名であり、そこにカスタムメイドのクラフトマンメーカーや中堅新興メーカーも参入してきわめてマニアックなインドアリスナー向けの耳の贅沢をデザインしつづけてきた。

FLEX-J webmasterの実家には世界の宮殿ニーズを満たす究極のカタログモデル、TANNOYウェストミンスターという機種がつい最近まで存在していた。システムとして商品として評価すれば、トラディショナルな音作りを目指すスピーカーカテゴリーの中では、伝説的な機種JBLパラゴン(超高級スピーカーシステム界の"ランボルギーニ・ミウラ")に匹敵する超一流の究極アイテムだったということができた。ただし、世の中そうは問屋さんが卸してはくれないもので、本来的に石造りの宮殿様式あるいは高度に音響環境が良く広めの設置空間での再生を念頭に入れた設計であったために、一般住宅としては広めのリビングダイニングルームに設置していたとはいえ、推奨される位置にリスニングポジションがとれなかったために定位面での失格ということがあり、実際に自宅でならした結果は結果はいまひとつだった。カタログモデルの新品で400万円程度、中古で50-70万円くらいで手に入れられる贅沢なので、中古品に関して言えば一般の音響マニアにとっても決して購入不可能なゾーンではない。よってTANNOYウェストミンスターは売却され、かわりにリビングダイニングルームには宮内庁とNHKの御用達(らしい)アイテムとして伝えられてきた三菱製のフロアスピーカー""2S-305"というアイテムが設置されるに至った。

さて、しかしFLEX-J webmasterの耳が認めた日本の世帯向けのアイテムとしては、TANNOYであればかつてのスーパーレッドモニターのスモールモデルや、BOSEであれば301MMといったスタンダードサイズクラスのもの。高級スピーカーはシステムサイズ容量が巨大化するほどに高価になり、小さいサイズのものは必然的に安くなってくるものなのだが、小さくなったからといって音質が劣るということはけっしてない。大型機になれば低音がリアルに、生々しくなってくるという楽しみが増えるのは事実なのだが、必ずしも大型機の音がライフスタイルの洗練やフィーリング上のセラピーやリラクゼーションに役立つとはいえない。コンパクトな機種は繊細な音がして、一般的にとてもエレガントな存在である。ただし、家電屋さんで売られているありがちなミニコンポのスピーカーシステムは、大きなお世話ながら、はっきりいってしまえばただ単に音が出るだけの代物でしかなく、ラジカセのそれと実力的には大差ない程度の、粗末な間に合わせでしかない。オーディオに関しては入門機クラスで十分なので、アンプやCDプレーヤー等、単体売りでハイフィディリティを追及しているゾーンの商品をブランドやサウンドキャラクターにこだわってコーディネイトすべきである。

世界のセレブレティレベル規準を満たす音の贅沢というものは、スピーカーの"ハコ"の大きさや新品・中古の別にこだわらなければ格安に実現できてしまう。ワインやグルメ、クルマ、ファッション、ライフスタイル面まで一流を目指しているというのであれば、プライベートなマイルームコンサート用のサウンドシステムが"チャチ"というのでは致命的に不完全だとしかいいようがない。ソニーのミニコンポ等も世界に通じるアイテムには違いないが、世界のソニーだって普及品は作っているのだ。新品のミニコンポに15万円かけるのであれば、CDプレーヤーとプリメインアンプ、ミニスピーカーの単品物のシンプル構成を中古で揃えるのでなければならない。そこに後からアナログプレーヤーやFMチューナー、MDシステム、DVDプレーヤー、また(アイトレックを含む)大型ビデオモニターやマルチメディアコンピュータシステムを増設したりするのは個人の好みに応じるが、ハイフィディリティ機で聴けばCDよりもアナログ盤のほうがずっと芸術的なつやや響きを持っていることもわかってくるというものである。"アナログ盤よりCDの方が音がいい"等と安易かつまことしやかに口にしていた一部の人類などは、率直にいってしまえばろくなステレオを使っていなかったのだとしか、いいようがない。しかも手軽に揃えようと思えばそれなりのプライスで揃えられるものなのだから、やっぱり安易に惰性で暮らしてしまうとライフスタイルは全般的にプアなものとなってしまい(かといって"ノーブレス・オブリージュ"の精神からいえば相手がプアであろうと蔑視してはならないが、それを思えば"並"の民衆であるのが"ラク"は"ラク"である)、色褪せていってしまうのも道理というものだろう。

さて、無頓着派のルーズ(=やる気ナッシング)なライフスタイルをいたずらに責めることになど、実際のところ何の意味もありはしない。やる気のある常識的な一流サウンドライフはミニサイズスピーカー導入で小気味よく、というテーマで追求してみた結果、スピーカーシステムのチョイスは写真のアメリカJBL社製のJ520M。なんと秋葉原のダイナミックオーディオで発掘した中古品である。中古品だから格安。セットで2-3万円台だった。

しかし、インポート高級ブランドのミニスピーカーの2-3万円台中古品を侮ってはいけない。BOSEの101MMとほぼ共通サイズの"カフェサイズ"システムながら、そこから奏でられる珠玉のサウンドはまさに"音のジュエリー"。中間価格帯のJBLに独特のジャズやブルース向きじみた癖のようなものは皆無。音のコンセプトはまさに永遠の芸術品JBLパラゴンの境地。カタログモデルはすでに発売中止になっているという話もあったため、選択肢は他になかった。"超一流の音のソムリエ"が聴き耳を立てている世界的な高級メーカーらしい芸術指向の高い設計思想が随所に息づいている逸品。ケミカルな先端テクノロジーがベースとなっているいかにもマサチューセッツ工科大学ライクなイーストコーストサウンドもまた秀逸ながら、あまりにも(垢抜けてはいるが)偏差値エリート的な音素の"調合"ぶりで、しかも工業品に徹しすぎているために予定調和的でもありすぎ、スペクタクル感が足りない。モードファッションのブランドでいえば偏差値の高い都市的女性のイメージで一貫されている"CHANEL"のスーツのようだ。

JBLのスピーカーシステムの本流は、プロトタイプを構築するクラフトマンシップ(一流の職人魂)がこだわりながら吟味した音のデザインにあるような気がする。偏差値云々の化学的な成分配合よりもストラディバリの精神での音作り。しかも人生において何が起こっても不思議ではないウエストコースト文化圏(いってみればビバリーヒルズのセレブレティ)指向の音作りなので新しい創造社会への夢も希望も充満しているポジティヴシンキングな感じも心地よい。服飾系のセレブブランドで一致するイメージはまさにエルメスだ。イギリスの最高級ゾーンの音響メーカーTANNOYの音がカルティエだとすれば、一時期TANNOY社との資本合併を経験したことのあるJBL社の音はまさしくエルメスであり、馬術競技のようなアクティヴなイメージも似合う動的で金管にもエレガントさの中に華やかさのある世界共通指向のサウンドは必然的にアメリカ国内に"音響界のエルメスブランド"を産みだすに及んだのである。中古で2-3万のエルメスブランドのアイテムというものも実際に存在しているであろうし、エルメスブランドのアイテムは一律に究極の一流に属するのであって、値段がお手ごろなアイテムだからといって手を抜いているということはない。JBLの音もそうだ。落ち着いていながらも厭味のない華やかさに満ち溢れていた音の贅沢J520M。ほかは極めたのにコンポだけは"チャチ"なやつしか使ったことがないということなら、今週末のリゾート外出は世界の高級オーディオもまた集まっているアーケードと化している秋葉原あたりのオーディオ機器ショップであるはずだ。値段はともかく自分の耳や生活空間にしっくりとなじむ洗練のサウンドを目指そう。そこはあなたの人生にとってかけがえのない、無二のプライベートコンサートホールであるから、である。

さて、中古品の是非について記すとすれば、近年巷にはUSED商品のブティックが増えだしている。国際線C/Aが現地で仕入れてくるとっておきのブランドアイテムの放出から、過去の高級インポートカーから、中古の書店まで。中古品の購入にある種のマイナー感が漂うのは、消費活動として一次業者である製造元へのコスト還元が中古品マーケットからなされていない、という認識からかもしれない。しかし、カタログモデルを新品として買う人がいるとすれば、新品購入者はのちにそれらの品物を買取店に放出することによって一定の払戻金を得る。つまり、新品ユーザーであった彼が得ることになる一定の買取金というものは、中古品ユーザーのセカンドハンズ購入代金に転嫁されるわけなのだから、新品購入価格における"買取価格"額分はすでに新品段階から中古品ユーザーが支払っていることになるはずである。ゆえに、中古品市場が新品マーケットにまったく寄与していないという説はまことしやかな虚偽なのであり、中古品買取業者に放出可能という前提で新車が新品の高級オーディオ、また高級ブランド品が売れているという側面は否定できない。カタログモデルにないモデルも中古市場では入手ができる。海外の直営店やセレクトショップで購入されたエルメスが、価格もこなれて国内の高級リサイクルブティックに流れたりすることは、国内流通のフローに対するある種のアンチテーゼでもあるのだろうし、同時に東京の流通相場を生産地に近かったり流通合理化が高度に実現されている地帯に対抗可能とすることにもつながるのだから、それはそれでいい、とFLEX-J webmasterとして思われてならない。


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FLEX-J Webmaster wrote this column on 2001/05/25
(本コラムはJBL社の広告ではありません)