冬の凍てついた冷たい空気を追い払うように暖かい陽が差してくる。
   季節はもう春になったことを嫌が上でも感じさせるさわやかな風が吹く。
   春の陽気に誘われて土筆が芽を出すように、ひっそり静まり返った住宅街も新しい朝を迎えて
   活気付く。

   朝のあわただしい喧騒が過ぎ去った後のけだるい時間。
   ひとりの少年が自分の家の門の前で所在無さげに立っている。
   まだ衣更えの時期ではないので、この陽気の最中制服は冬服のままだ。
   少年は何度も腕時計に目をやり、ため息をつく。
   誰かを待っている様子。

   隣の家からけたたましい声が聞こえて来る。
   「なんでもっと早く起こしてくれないのよ!!」
   玄関が勢いよく開かれ、少女が飛び出してくる。
   少年の前をまるで春一番の風のようにさっそうと通り過ぎてゆく。
   少年は彼女に向かって何か言おうとしたが、すでに少女は少年の視界から消えていた
   フー、とため息をついて少年は歩き出そうとした時、少女が急いで少年の元へ戻ってくる。
   「あんた、何しているの、こんなところで?」
   「ま、待っているんです」
   「誰を?」
   「葵さんを」
   「いつから」
   「い、一時間前から」
   「なんで?」
   「い、いっしょに学校に行く約束したから」
   少女は呆れた顔をしながら、
   「あんた馬鹿じゃないの、一時間も待っているなんて」
   と、少年の手を取り走り出した。
   「玄関で1時間も待つなら、なんでうちに来て、起こしてくれないのよ!」
   「そ、そうですね」
   「チャイムを押すなり、電話するなり、いろいろあったでしょ!」
   「あ、はい」
   「まったく馬鹿なんだから」
   少女はいつもの少年の要領の得ない返事に苛立っている。
   いつもこうなのだ。
   これで、学校1の秀才とはとても信じられない。
   優柔不断でつかみ所のない性格。
   いつも何を考えているのかわからない。
   小さい時からいつも行動を共にしている少女すら、その性格は理解に苦しむ。
   気の強い少女としては自然とそんな少年を守ってやらなきゃいけないとする保護者然とした。
   性格が身についてしまった。でないと、少年はひとりで何をすることも出来ないし、ひょっとして

   生きて行くことも出来ないのかも知れない。

   「もういい! 遅刻するから全速力で走るわよ」
   少女はそう行って猛ダッシュで走り出す。
   運動神経が一段と劣っている少年は、少女に引っ張られてはうはうの呈でついて行くだけで
   精いっぱいだ。


                             *

   案の定学校の正門は閉まっている。20分の遅刻だ。
   あのこうるさい国語教師と歴史教師に見つかればなんて言われるだろう。
   これも全部少年が悪いのだ。
   学校1の秀才でありながら運動神経はゼロに近い。その上無口であまり人と話しを
   しない内向性の少年は不良どもにとってはちょうどいいからかいの対象になる。
   昨日も不良にいじめられ、泣きながら帰って来た少年を守る為、いっしょに登校す
   ることになったのだが、昨日の夜遅くまで宿題をしていた為、今朝寝坊してしまった。
   娘のことに関心を持たない母親は、いつまでも寝ている娘を気遣って起こすこともしない。
   どうせ夜遊びして寝坊していると思っているのだろう。
   おまけに、誘いにくるかさっさと学校へ行けばいいものを、馬鹿みたいに家の前で
   1時間も待っている幼なじみに苛立ちを覚える。
   本当に馬鹿なんだから。
   少年に八つ当たりしていることに彼女は気づいていたが、隣りに走り疲れて伸びて
   いる少年を見ていると、もっとしっかりしなさいと、つい怒鳴りたくなる。

   「しかたがない」
   少女はそう言い出すと、人通りの少ないところまで行って学校の塀を登りだした。
   「あ、葵さん、そ、そんなことすると先生に怒られるよ」
    「馬鹿、どっちみち怒られるのはいっしょよ」
    さあ、手伝って、と少女に言われて少年は少女の背中を押す。
    なかなか、少年の力では少女の体を押し上げることが出来ない。
    「もっと強く押してよ」
   少年は力いっぱい押そうとする。
   「きゃ、どこ触っているのよ、このスケベ」
   勢いよく少女のお尻を触ってしまった少年は驚き、思わず手を放してしまった。
    「きゃ」
    少女は勢いあまって、路上に尻餅をついてしまった。
    「勝手に、手を放さないでよ、イタタ・・・」
    「だ、だって」
    少年は顔を真っ赤にしておろおろ所在無さげに立っている。
    「もういい! 自分の力でするから」
    そう言うと少女は助走をつけて一気に塀に飛びつく。
    今度はうまく行ったようだ。
    なんとか自力で塀の上までよじ登る。
    「さ、手を貸して」
    そう言って塀の上から少年に手を差し伸べる。
    かなり苦労したがなんとか少年を塀の上に上げることが出来た。
    と、その時、
    「あなたたち、そんなところで何しているの?」
    塀の上のふたりに声をかける者がいた。
   「あ、りみ子先生!」
    彼女たちに声をかけたのは英語担当の高倉りみ子教師だった。
   年の頃は20代後半だろうか。髪はおかっぱ頭にして、顔には銀縁の丸い小さな眼鏡を
   かけている。その髪型と眼鏡で年よりはかなり幼く見えるがかなりの美形の持ち主だ。

   男子生徒の間ではそのおっとりした性格とそのキュートな顔立ちで人気が高い。

   「危ないじゃないの、そんなところに上って怪我でもしたらどうするの」
   「ヘヘヘちょっとわけありで」
    少女は笑って誤魔化そうとする。
   「わかっているわよ、遅刻したんでしょ」
   「あたり」
   「まったく困ったものね」
   教師は困った顔をして、塀の上に登っている少女らに手を差し伸べる。
   「へ?」
   「さあ、手を貸してちょうだい」
    教師は何気ない顔をして言う。
    「私も遅刻しちゃったの」
   そう言って舌を出して照れ笑いする。
   その顔は教師と言うより女子中学生と対して変わらないあどけない表情だった。