鉄錆色の月が僕を睨みつけている。 逸らすことも出来ない。あの月の、滴るような視線から僕は逃げられない。 僕の心にある月。 Garako Inagaki Presents. ───いつも、月が視ていた。 僕と君のはじめての交歓、互いにおずおずと触れてはまた離れ、そのうちに恥じらいもためらいも遂に全部捨て去って抱きしめあったあの夜。僕の芯が君を貫き、また君がそれを抗うことなく受け入れた、本能の支配したあの夜。 狂った月が僕を攫った。 君の吐息、長い長い、さっきまで何度もなんども重ねた口唇から洩れた、甘い息。それが小さな風となって僕の頬をかすめて。優しい声が僕だけのものになって。身体中の全ての神経が、君の全てをほんの幽かな身動ぎさえも逃すまいとして。 くら、と。 全てが容易く現実味を失った。 幻惑にバランスを崩し、頽れた。 それは。 愛しているとか恋しているとか、そういう甘い感情の発露ではなくて。 ただ、何かが歪み、何かが変質し、僕の衝動が君を奪った。 ───月が ナナミが眠るその横で、なんて危険な背徳感に僕は酔ったのだろう。欲望を迸らせたのだろう。明るい陽の光の許ではあっと言うまに影となり、沈む想いは、月光の淡さにその姿を取り戻し、鮮やかに僕を蹂躪する。 甘やかで、抗いがたい激しい痛み。それを何と呼ぶのだろう。 昼には“守りたい”夜には“抱きたい”そして─── 狂暴な獣を、僕は心に飼っている。飼い慣らすこと、その牙が僕の喉笛を噛み裂くこと、どちらも明らかな誘惑。 ───堕ちる この手を、この身を全て血で染めれば、その獣が僕のものになると思った。この大地の平和、そんなものは単なる余録にすぎない。月が───この心の月が、君の血を求めて身悶えするほど飢えている。交合の合間に月影が儚く照らす君の唇を強く噛み、薄い皮膚が破れてそこから滲んだその味は僕の心を歓喜させること甚だしく、それに気づいて僕は震えた。 愉悦に。歓喜に。 君の双眸が僕を貫いても。 君を守りたい。君を全てから守りたい。君を何ものかが壊すことないように、もしもそんなことがおきてしまうなら……そんなことを想うだけで苦悩が僕をやんわりと引き裂く。だから壊したい。僕の手で壊したその美しい破片を集め、二律背反(アンビバレンツ)な悲しみに浸りきり、この想いの全てを君というベクトルに向けてしまいたい。 ───違う、違う、違う 君を壊すなんてそんなこと出来やしない。僕にはそんなことは出来ない。でも君はそれを受け入れてしまう。僕を僕ごと全部、やわらかな言葉とまなざしで。 あの月の引力に半ば魅了されている僕、それに君は気づいている。気づいているのに、僕に壊されても構わない、そう思ってしまっているのが僕にはわかる。 いつか僕に壊されることを希んでさえいる。 ならば。 僕は───。 僕自身を壊すのならば。この月が僕の全てを蹂躪するならば、君を壊しても何も思わず、傷つかず、躊躇わないだろう。君への想いは全て月が、耀く美しい邪な月が、肩代わりし全うしてくれるのだろう。 ミューズの街、君と僕が訣別したあの場所の最後の夜、兇刃を懐に忍ばせ市長を殺めるつもりだった僕は、君を抱いた。その切っ先で君を護るためではなく、傷つけるために。天空高く掲げられた月が、屋外でまぐわう僕らの肢体を冷たく象眼し、君の体温(ぬくもり)が僕を慰めて、こんな夜が永遠に続けばいいと思った。溺れて、息を止めるような快感に。 今なら壊せる。 その抗いがたい誘惑に。 僕は─── 律動を刻み、君の体躯の奥深くふかくへと快楽をただ求めて、だけどそれはもう何の救いにもならないとはっきり知ってしまった。どす黒い血の塊が僕の心を激しく揺さぶった、あの蒼い月光の夜。 それでも君は汚されない。どんなに切ない声をあげても、情動に我を忘れても、僕の想いを全て叶えようとしてくれるほどに。 壊したい。 壊せない。 壊…… ───赦して だけど、見つけた。見つけてしまった。出逢ってしまった。まるで運命のように。赫月の導く、そのしるべに。 僕を完膚なきまでに。粉々に。跡形もなく。 完全に壊してくれる存在。 その狂気が僕の狂気と共鳴し、育てあげる。 血の匂いのする月光。その有り様。 惹かれる。引きずられる。途方もない、途轍もない快楽の渦に窒息する。凶暴なその力に翻弄される。甘い悲鳴をあげ続ける。 僕は、君を壊さなくていい。君を護らなくていい。 僕自身が悦びと共に壊れるために、そのために。 月はいつでも僕と共に在る。傷口をまさぐれば感じる、それでいい。それが、いい。 ───狂った月、 血塗られた僕の指を、掌を絡めとり、目蓋の裏に禍禍しく映す血色の月(ブラッドムーン)。君の姿ももう見えない。 その昏い眼窩は僕自身。
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11thDecember.2000