指先をそっと這わせる。そのまま身体を重ねる。初めての感覚だ。皮膚感覚。皮膚と皮膚が触れあう感覚。汗ばんだ肌はゆっくりと溶けてひとつになる。溶けきってしまえば、そのままなくなる。




アンビバレンツ
Garako Inagaki Presents.





 とろりとした睡眠から目覚めると、今し方の夢が掌にくっきり残っていて阿部は大きく息を吐いた。ふさがりかけた傷痕のようなそれは何度でも血を流して夢という形で現れる。
 何の暗喩でこんな夢を見るのだろう。
 繰り返し、繰り返し。
 三橋を抱く夢だ。実際にはそんな経験はおろか、手を繋ぐのが精一杯だというのに。
「性少年だなァ」
 自嘲的に呟いてみる。そんなことをしても、夢の残滓が消えるわけがない。むしろ逆に鮮明さを増すように思えた。
「はあ……」
 また憂鬱で刺戟的な一日が始まる。
「とりあえず着替えねェとな」
 時々理性的な自分が嫌いになる。



 スイッチをきちんと入れ替えれば“いつもの”自分になれる。朝練をこなし、授業をうけて、また練習。繰り返しながらゆっくりと進む時間。夢中になって白球を追えば、そこに太陽がある。昼の自分だ。夜の自分は違う。すっかり夜の道を自転車で走るのにも慣れた。家に帰るのさえも億劫に思う日もある。いっそ夢なんか見なければいい。
「ただいま」
「おかえり、ご飯そこにあるから」
「ああ」
 遅い夕飯を食べてシャワーで汗を流すと眠気が襲ってきた。“切り替える”時が来てしまった。諦観にも似た気持ちでそれを受け容れる。今日は、あんな夢を見ないかもしれない。───見るかもしれない。それはわからない。眠りはいつも気紛れで、夢はもっと放恣だ。毎日、その繰り返し。循環する日常。
 それでも阿部はゆっくり無意識の淵に沈んでいった。
「───三橋」



「阿部よー、最近変じゃねえ?」
 朝の円陣瞑想を終えて立ち上がった瞬間、背中越し田島に不意をつかれた。
「何。別に」
「いや、あんまり怒鳴らなくなったじゃん。三橋んこと」
「怒鳴ってもいいことねェからな」
「それはそうだけどー、おかしいような気がするんだよね」
「どのへんが」
 声に苛立ち───いや、動揺が滲まないように努力する。
「いや、うまく言えないんだけどさ。なんか目が暗いような気がする」
「それは元からだろ」
 水谷がうまく茶々を入れてきた。
「───ひでェなあ」
「でもぜってー阿部おかしいって。ゲンミツに断言する。なあ三橋」
「えっ?」
 急に話を振られて三橋がぐるっと振り向いた。
「おまえ投げてて思わね? 阿部変じゃね?」
「う」
 どっちとも取れるような返事をされて、内心阿部は冷や冷やする。三橋にだけは気づかれたくない。万一気づいていても知らないふりをしていて欲しい。少なくとも学校にいる間は“いつもの”自分だけを見ていてくれればいい。こんな会話は無意味だ。
「俺は別に変じゃない。三橋、行くぞ」
「う、うん」
 ごまかすなよー、と不満気な田島の声を置き去りに、阿部はさっさと歩き出した。



「オレも、阿部君、変だと……思う」
「何」
 投球練習をいざ始めようとしたら、遠慮という言葉も遠くなるような声で三橋が、それでもはっきりと言ってきた。
「いわなきゃ、わからないって……前、阿部君言った、から」
 三橋は目を合わせない。胸の芯がぎりっと痛む。
「お、オレも阿部君最近、変だと思う」
「変な指示してねェだろ。それともミットの構え方でもおかしくなってる?」
「そうじゃなく、て……」
 三橋は言葉を探すように拳を作ったり開いたりして、続けた。
「なんか、オレ……」
「───」
「───はっきり言うんじゃなかったのか」
「最近、怒鳴られないし」
「怒鳴らないようにしてるから」
「そう、じゃないんだ」
「意味わかんねェ」
 こんな話はさっさと終わらせてしまいたい。でないと───
「怒鳴らない……けど、話してくれなく、なった」



 ヤバい、と直観で思った。



 三橋の言う通りだ。最近、無意識に三橋とコミュニケーション取るのを避けていたように思う。たとえば円陣瞑想でも絶対隣にならないようにしていた。配球のこと以外で口を出さないようにしていた。帰る時間も決して一緒にならないようにしていた。
 理性的であるために。
 無自覚のまま、現実の三橋と距離を取ろうとしていたのだ。
 夢と現実(リアル)を混同するなんて、そんなことは出来ない。阿部にそれは無理な話だ。ただ、夢はある意味本音(リアル)だから、阿部の現実の行動に見えない鎖で縛りつけ侵食して、いつか破綻することも知っていたような気もする。
 それが今なのかはわからない。ただ、ほころびはもう隠せない、と半ば観念した。───ただし、半分だけ。
「ごめん」
「阿部君……?」
「三橋、ごめん」
「な、なな、何」
「投手と捕手の間で会話がないってのは確かにおかしいよな」
 三橋が斜めに首をふった。どちらなのかよくわからない。
「怒鳴らないようにしてたら、言葉まで減っちまった。今後気をつける」
「そ、そうじゃ……」
 また三橋は途中で黙ってしまった。青い青い空に乾いた音が響いている。チームメイトは真面目に練習しているのに、二人だけ何をしてるのかと監督に見咎められてしまいそうだ。
「オレは、オレ……」
 三橋が何かを言いたいのはよくわかる。以前だったらすぐ怒鳴りつけていただろう、ちゃんと喋れと。今はそれが言えない。阿部に後ろめたい気持ちがあるからだ。三橋を目の前にしていると、何か、阿部の知らなかった感情が心の奥底で蠢いて、ぱっくりと窩をあけて待ちかまえているような気分になってくる。

 ───まずい

「ほら、練習しようぜ。まず軽く肩あっためないと」
「……うん」
 少しだけ不本意そうに、それでも三橋は肯いた。阿部はこっそりほっとした。ほっとした自分に、少し嫌気がさした。



 練習後、激しい疲労を感じた。今までになく、身体が重い。軽く眩暈がする。やべェな、と気づかれていないかどうか周囲を目だけで確認する。
 よりによって田島と目が合ってしまった。
「阿部〜、やっぱり目が死んでるって!」
「うっせェ」
 低い音になってしまったのは、怒りのせいではない。声を出すのも億劫だったからだ。
「おい阿部、本当に大丈夫か?」
 花井が肩に手を置いて、顔を覗きこんでくる。
「うわ、おまえ超顔色悪いって! 監督、阿部おかしいッス!」
「えっ阿部君が!?」
 監督が小走りでやってくる。見上げた阿部はその背中の空の眩しさに思わず目蓋を閉じた。三橋がいたからだ。
 三年間、ケガも病気もしねェって言ったろ。
 嘘はつかねェよ。
 言葉にならなかった。意識は黒い闇に塗りつぶされた。



 ふ、と目醒めると見慣れない景色が視界に広がっていた。保健室のリノリウムの天井だと気づくのに数秒かかった。授業はもう始まっているらしく、しんとして校舎内は音もない。幽かに漂ってくるのは教師の声らしきノイズだけだ。
「あ、起きたか」
「う……?」
 ベッドの横に田島が座っている。田島独りだ。何故田島が?
「大事な話があるからって無理言って残らせてもらった。おまえさぁ」
 田島ははあー、と大きく溜息をつく。阿部は身体を起こしてそれを遮った。
「朝飯食い忘れただけだ、大げさなんだよおまえら」
「聞けよ阿部」
「───」
「なんでオレだけここにいると思う?」
「───」
「オレ、わかっちゃったからだ」
「───」
「でもみんなにはゲンミツに言わない」
「……何をだよ」
「三橋、泣いてたぞ」
 ぎくり。
 心臓が倍速で動き始める。田島はそんな阿部をじっとみつめた。
「おまえ何にも言わないから。そんで勝手に悩んでるんだろ。三橋のことで」
 阿部は言い訳を探そうとして結局やめた。田島には敵わない。
「ああ───そうだよ」
「何でもいいけどさ。三橋泣かすなよ」
「何でもいいって」
 拍子抜けして阿部は田島をまじまじ見た。
「オレにはどうでもいいことだ。そこまでわっかんねえし。でも阿部が三橋のことでなんだか頭ごっちゃごちゃになってるのだけはわかる。そんで、それはあんまりチームにとってもいいことじゃない」
「───その通りだ」
「だから今日みたいになっちまうと困るんだよ、だいたい阿部いねーとオレキャッチやらないといけないじゃん」
「そういう事情もあるのか」
 まーね、と屈託なく田島は笑った。
「オレが言いたいのはまず三橋を泣かすのはやめろってこと。それから、くだらねー悩みはオナニー三回して忘れろってことかな」
「おまえなあ……」
「だってオナニーはすげェぞ。終わった後全てがどうでもよくなるし妙に冷静になるし」
「ば、バッカ、声でかいって、先生に聞こえるだろっ」
 カーテンの向こうからくすくす笑う保健医の声が聞こえた。田島め、と阿部は心中毒づいた。オレまで下ネタキャラにするつもりか。ようやく阿部も気をとりなおす。
「ところで田島、聞きたいんだけど」
「ん」
「……なんで三橋は泣いたんだと思う」
「そりゃ阿部がぶっ倒れたからだろ」
「なんでオレが倒れると三橋が泣くんだ」
「んー」
 田島は腕を組んで首を傾げている。
「あいつ、阿部いねーと自分が保てないみたいだからな」
 どういう意味だ?
「バッテリーってそういうもんじゃねェの? 特に三橋は」
 どういう意味だ?
「阿部、三橋といろいろ約束してんだろ。破るなよ」
「破るつもりなんかない」
 それは本当だ。
「ならいっけどさ。オレは阿部の悩みとか解決できるわけじゃないし、そっからは自分でなんとかしてくれ。オナニーとか」
「オナニーって言うのは本気でやめろ」
「オナニーの素晴らしさを語らせたら長いぜ?」
 やめろって、と田島の口を塞ごうとしたら、1時限目終了のチャイムがちょうど鳴り、それだけ元気なら大丈夫ねと保健医に追い出された。九組の前で田島はじゃあなと背を向ける。ついでに一言。
「授業サボれてラッキー」
「おまえまさかそれが目的だったんじゃ」
「どうだかね?」
 ひらひらと目の前で掌を振られて、阿部が呆気に取られているうちに奴はさっさと教室に入って行ってしまった。



 気が進まないまま放課後の練習に、それでも行こうと支度をしていると花井が声をかけてきた。
「無理すんなよ?」
「しねェよ。もう平気だって」
 半分強がりだと解っている。全然大丈夫なんかじゃない。
「無理したがってるようにも見えるぜ」
 なかなか鋭い。だけど、それを肯定するわけにはいかない。
「だって俺も副主将だし」
「だったらいいけど今日は見学にしとけ。休めたあ言わない。どうせ言っても聞かないだろ」
「……わーったよ」
 渋々という声を作ったが、内心安堵していた。三橋の球をきちんと受けられるかどうか、今は正直自信がない。まっすぐ三橋を見ることが出来るかどうか、わからない。捕手失格じゃないか、いったい何やってんだ───



「気のない顔してるなら帰ってもいいんだよ」
 朝はあんなに晴れていた空が薄曇りになっている。もしかしたら夜にはひと雨来るのかもしれない。グラウンドを走り回るチームメイトをぼんやりベンチから眺めていた阿部に、厳しい声が飛んだ。
「監督」
「阿部君らしくないよ。頭冷やしてきたほうがいいんじゃない」
「───」
 花井ならともかく、監督にまでそう言われてしまっては、反論のしようがない。彼女流の労いだというのも解っている。休め、そういうことだ。
「わかりました。今日はこれで上がります」
「うん、そうしなさい。出来るなら家でストレッチくらいはやっといて。なんならデータだけは持ってってもいいよ」
「はい」
 気晴らしになるものが少しでもあればいい。



 空はみるみる暗くなってきた。もう灰色から黒に近づいている。薄く音のない雷鳴が光った。あいつら帰る頃は雨だろうな、と阿部は自転車を傾けながら思った。三橋は傘持って来てるだろうか。
「阿部、君」
 駆け足、思いがけない声───
「おま、三橋?」
 練習は、と言いかけて、三橋がもうユニフォームを着ていないのに気づいた。こいつ、着替えてきてる。つまり、帰るつもりだ。追いかけてきたのか。
「いい、一緒にかえろ、う」
「まず息を整えろ」
 全速力で急いだらしく、シャツのボタンは掛け違えているし、髪の毛はぼさぼさだし、汗みずくの荒い息が全然戻らない。
「は、はなし、しよう」
「いいからまず落ち着け」
「う、うん」
 心臓、鎮まれ。阿部は目を閉じて祈った。思いがけない三橋の出現に、狼狽しているのを隠さなければならない。そう、冷静に。
「チャリ乗れるか。一雨来そうだから急ごう」
「あ、う、うん……」
 車輪を並べてゆっくりと走りだす。三橋の家と阿部の家への道は途中のT字で左右に分かれる。そこまでお互い何も喋らず、ただひと気のない車道を流す。
 もうすぐ分岐だ、と思ったとき、三橋が急に自転車を漕ぐ足を止めた。つられて阿部もブレーキを握る。
「あべ、阿部君っ」
「帰らねェの?」
「か、かえるけど、その、まだ、話……してない」
「───」
 ごまかせないようだ。三橋の余程の決意の表れを無下にすることが出来るほど阿部も酷になりきれない。
「何の話」
「は、話」
「だから何の」
「え、と、───」
 三橋は自転車のペダルを足でくるくる回して逡巡している。阿部は辛抱強く待った。
 ───いつもだったら、怒鳴ってるだろう
「阿部君、オレのこと、嫌い……になった?」
 ずきん。
 三橋の言葉に他意がないのは百も承知だ。しかし、こうして言葉にされると、そんな泣きそうな顔で言われると、衝動的になる自分を抑制するので精一杯になる。そんなことはない、悪いのはオレだ。おまえの変な夢ばっかり見て、オレちょっとおかしいんだ。
 そんなことは言えない。
 溜息に誤魔化して声を作る。
「嫌いなわけねェだろ」
「で、でも、」
 顔をあげた三橋が思いがけない行動に出た。



 ぐっ。
 三橋の右手が阿部の左手を、しっかりと握りしめた。そうされて初めて、阿部は自分の手が冷えていて、つまりは緊張していると知って、三橋の手もまた冷えていて、まるで寒空の下精一杯手を暖め合う子供のようだと思った。
「阿部君、手……つめたいよ」
「……」
 何も言い返す言葉がない。不覚をとった。まさか、三橋のほうからこんなふうに接触してくると思わなかった。

 ───夢が蘇る。あざやかに。

「お、オレ、阿部君が話してくれなく……なって、なんていうのか、な、えっと」
「───」
「よくわからな……いんだけど」
「───」
 投手の握力は強い。阿部は振り払うべきか、そうでないかを迷った。たったひとつの箇所でもつながっている感覚。それは阿部を惑わせる。掌は冷たいのに汗ばんでいて、脳裏に蘇るのはあの夢の皮膚感。今、振り払わないときっと抑えきれない。だけど、振り払ってしまったら、もう三橋との信頼関係は永遠に築きなおせないかもしれない。
「阿部君が、一番なんだ、ほんとなんだ、お、オレは、阿部君がいないと、だめ……なんだ」
 もう、堪えきれなくなった。一粒、曇天から落ちてきた最初の雨雫が引き金を引いた。



 二人分の自転車ががしゃんと派手な音をたてて倒れた。阿部は三橋の腕をそのままぐいと引き寄せ、抱きしめた。三橋の汗まじりの体臭がふっと漂う。劣情を引き起こすには十分なそれ。
「あ、あ、あべ、くん」
「黙れ」
「───」
 三橋の身体は細い。腕が楽々と背中に回る。力をこめた。
「いた……」
 雨は間断なく降り続けている。次第に雨脚が強くなる。空は墨汁を流したような雲が流れて千切れ、飛び去る。二人の身体はその雨に打たれ、雫を含んで濡れていく。
「……わりぃ」
 ずっと、こうしたかった。でもしてしまったら、きっと戻れない。解っていた。だから、ずっと抑えつけていた。枷になっていても、それがよかった。それを自分の手で壊してしまう───
 それでも阿部は最後まで、自分の決意に従おう、と決めた。
 なるべく普段の声で。怒鳴らないように、怒らないように、いつもの自分の声。それを思い出せ。
「オレ、三橋が好きだよ」
「お、お、オレも阿部君が好きだ」
「だから、余計な心配だっつの。だいたい、おまえもこうやって話しかけてくればオレだってちゃんと返事くらいする」
 うまく言えた。───筈だった。
「阿部君───嫌いになって、ない? オレのこと? 本当、に?」
「ああ」
 雨が表情を隠してくれることを祈る。情けない顔をしているに違いない。額にかかった滴を阿部は手の甲で乱暴に拭った。
「自転車、倒しちまったな。すまん」
「い、いい、だいじょぶ」
 そして三橋が泣いていることに気づいた。頬に流れる雫は、雨のせいだけではなかったのだ。

 ───三橋泣いてたぞ。

 田島の声が耳の奥に残っている。
「なんで泣くんだよ。おまえ泣かせるようなことオレ言ったか?」
「あ、べくん、が」
「オレが……?」
「ちゃんとオレを、見てくれない、から」
「───え」
「オレは、マウンドで、いつも、いっつも、阿部君を見てる」
 どうして三橋は阿部の心をかき乱すようなことばかり言うのだろう。“わかってない”からだとしても、阿部には残酷すぎる。
「でも、最近のあ、べく、んは」
「───」
「オレじゃない、とこを見てる───」
 違う。
 三橋を見ると“切り替えた”自分がうまく制御できなくなりそうだからだ。三橋のことばかりで、あの夢のことばかりで、自分を喪いそうになるからだ。───そう言えればどれだけいいか。
 言うわけにはいかない。だけど、三橋は傷ついている。しかも、かなり正確に阿部の状態を理解している。原因が自分だということも感じ取っている。
 こんな場面で、普通どうすればいいんだ。
「オレが、阿部君を、独り占めしたいっていう、わがまま、なんだ」
 限界だった。思考は停まった。───夢に、喰われた。



 キス、したい。抱きしめたい。もっと触れたい。腕の中で眠って欲しい。あの夢のように、ひとつになって溶けて消えてしまいたい。


 それだけはだめだ、と阿部の微かに残った理性が囁いた。その声はあまりにもかそけく、頼りなかった。感情の奔流の前に押し流されそうになりながらも、懸命にその声は阿部を引き留めた。
「……三橋」
「う、ん」
「おまえ、オレを独り占めしたいの?」
「……うん」
 こくり、と三橋は肯く。
「じゃあ、オレもおまえを独り占めしても、いい?」
「───えっ」
「おまえ、意味わかってる?」
「た、多分」
「じゃあ、こんなこと───してもいいんだ?」



 ゆっくりと。  篠突く雨の中、ふたつの影が朧になって重なる。
 三橋は逆らわなかった。阿部の唇が近づくのを、目を瞠いてただ、受け容れた。
 三橋の唇。雨に濡れそぼって、それでも温かい。
 深く。もっと深く。舌を絡めて、何度も口接ける。
「は、あ……」
 髪に指を差し入れ、もっともっと深くつながるように、角度をかえて。三橋の息が艶を含んで荒くなる。
「あべく、ん」
 はっ、と我に返る。自分のとってしまった行動を、阿部は激しく後悔した。これで、全部終わりだ。
「これでもうオレのこと嫌いになったろ」
 首を振った三橋が阿部の背に腕を遠慮がちに回してきた。そしてゆっくり身体を離し、まっすぐ阿部の目をみつめて呟いた。
「独り占め、できた、の、は、オレだ」



 予想外の言葉だった。



「三橋。何───言ってんの」
「だ、だって、そういうこと、でしょう」
 三橋の言葉の意味がわからない。すっかりずぶ濡れになってしまって、それでも二人は動けないでいた。
 大きな雷鳴が轟く。
 アスファルトを打ちつける雨が、跳ね上がって飛沫になっている。ただ、言葉を失って立ちつくしていた。
 どれだけ時間が経っただろう。阿部は自分の“役割”をどうにか思い出した。忘れていたことがおかしいくらいだ。自分の感情に振り回されて失念していたことを歯噛みする。正捕手が聞いて呆れる。
「おまえ、肩! 冷やしたらだめだ!」
「ひゃいっ」
「やっべェ……風邪でもひいたらコトだぜ。急いで家帰るぞ」
「阿部君、あの」
「うるせ。送っていけないけど、ちゃんと帰ったら即風呂入れ、シャワーで済ませるな。きちんと湯船で温まらないと殺すぞ」
「お、う、ん」
 三橋がぶんぶんと縦に首を振るのを横目に見ながら、阿部は二台の自転車を立て直した。
「……ほら、乗れ」
「阿部君も、気をつけて、ね」
「ああ、じゃあな」



 自転車は路面の水を掻き分けるようにして走る。
 阿部は今し方の出来事が信じられなかった。
 三橋を抱きしめて、キスして、それから。
 三橋が、───

 ───阿部君を独り占めしたい

 きっと深い意味はないに違いない。まだ腕の中に三橋を抱きしめた時のぬくもりが残っている。唇に刻みつけた、三橋の甘い匂い。とても現実のこととは思えなかった。不意に訪れた季節はずれの嵐に巻きこまれたような気分だった。

 きっとこの雨が上がったら。
 洗い流された空と同じように、もやもやした気持ちはすっきりしているといい。
 だけど今はただこの降り注ぐ雨に打たれていたい。意識せず眦から滲んだ涙が、誰にも見つからないように。




 恋を知るのは甘くて、切なくて、痛い。
 阿部は自分が三橋に恋してしまったことにまだ気づきたくない。
 気づいてしまうのが怖い。


 手をのばせばそこにあるものに届くのに、臆病になってしまってその指先はふらふらと空を彷徨うばかり。









end.





21stJune.2007