白球がすうっと吸い込まれる。ミットに収まった瞬間、なんとも言えない快音が響く。それが当たり前の毎日。幸せな日常。阿部がいれば三橋の幸福は終わらない。思う存分野球を───楽しめる。野球は楽しい、そう教えてくれたのは阿部だった───
忘れないで
Garako Inagaki Presents.
「ナイボー」
励ます声が聞こえるような気がした。キャッチャーミットめがけて放った球はコースも回転も問題なくて、三橋は安堵の吐息をふっとついた。阿部が構えているのを想定して、自宅の練習枠で投げている。これがバレたら怒られるだろうな、と考えたが、それでもやめることが出来なかった。ただ投げていたかった。
学校に行かなくなってからどのくらい経ったのか、三橋は意識していない。チームメイトのメールにも返信していない。どころか携帯自体を見ないようにしている。何度か心配した花井や田島、泉が家までやってきたが、母親に頼んで帰って貰った。
それでも投げている。投げずにはいられない。投球中毒だ、と自分でも思う。投げていないと自分が自分でなくなるように感じるからだ。
ぱん、とまた狙い通りの球筋で的に当たる。
このコントロールは武器になる。
そう言ったのも阿部だった。
阿部のおかげで、ようやく自信らしきものが三橋の心に芽生え始めていたから───
余計なことは考えない。ただ、投げる。右上。左下。真ん中。
阿部の声が聞こえる。
「おまえは、いい投手だよ」
「なあ泉」
「ん」
「三橋……どうしてっかなぁ。今日もガッコー来なかったし」
放課後練習前、着替えにロッカールームに行く途中、階段を降りかけたところ小声で田島が聞いてきた。いつも大声で話す彼にしては気配りの欠片が見える。それだけデリケートな話題ということだ。泉は乱暴にユニフォームを羽織った。
「そんなこと言ったって、田島(おまえ)でさえ会えないって言われちまうんだから他の誰が行ったって同じだろ」
「つめてェなあ」
「リアリストって言え。過去に戻れるわけじゃないんだから」
「野球部、どうなっちまうのかなぁ」
「───」
泉だってただ突き放してこんな物言いをしているわけじゃない。三橋の心中を思うと胸が潰れそうになる。泉でさえそうなのだから、他のチームメイトはどれだけ苦しんでいるだろう。そして三橋。
花井は笑わなくなった。無理して笑うな、と言ったら、大粒の涙を零して「すまん」とだけ謝った。謝られることじゃない。花井の責任感は推し量るには大きすぎる。
残暑の午後は太陽が焦げるような陽射しで照りつけて蒸し暑い。アンダーを絞ったら汗が流れ出るほどだ。西浦野球部もそれに負けず練習に勤しむ。夏の大会が終わったから、といって秋季大会まで時間は足りない。しかし、チームメイトの志気が大きく下がっているのは否めなかった。真剣さが足りないわけではない。ただ、モチベーションが最低の状態というのはどうしようもない。ただ浜田だけは毎日練習に顔を出して、精一杯───そう、精一杯“応援”してくれている。
でも足りない。
エースのいないチームなんて脆いものだ。いつも見慣れていた阿部と三橋の投球練習が、そこにない。それは大きな欠落感だった。一年生十人しかいないチームでは、八人になってしまえば、そこで大会出場は難しくなる。難しい、というより事実無理だ。そんな状態で意気揚々としていられる筈がない。監督は来年の新入生が来るまでの辛抱、と言うけれど、今のメンバーでもっと、もっと試合がしたかった。ひとつでも多く勝ちたかった。それは全員の想いだった。
「三橋、学校行かねェの」
ぼんやりしていると、阿部の声が聞こえてきた。
「あべく……ん?」
「なんで行かねェんだよ。みんな待ってるだろ」
「だ……だって、だって」
「エースがいないとチームのコンディションに関わるんだよ。行け」
「う……だって」
「だってばっかり言ってんじゃねェ。家で的相手に投げててもしょうがねェだろ」
「うん……」
しかし、三橋の身体は動くことが出来なかった。
───オレ、なんで学校行きたくないんだろう
三度の飯はきちんと食べている。投球練習も的相手にやっている。でも、野球部には行きたくない。どうしても、行きたくない。
───いやだ
学校に行くのだけは厭だ。だったら、ちゃんと練習するから、家で頑張るから、だから、───
「阿部君。なんでリード、してくれないの」
「───」
阿部は答えない。
いらえがないのに悲しくなる。涙が出そうだ───しかし出そうになった涙はやはり、流れなかった。
表情を喪って三橋は立ち尽くした。そして思い直した。そうだ、投げなくちゃ。
また的のむこうにあるミットに、投げ続ける。何も考えないで済むように、くたくたになって眠ることが出来るように。
夢を見た。
両手が真っ赤に染まる。血の色だ。鮮やかな色彩がみるみる三橋の掌を染め上げ、滴り落ちる。悲鳴が洩れそうになる咽喉からは、結局何も出てこない。ただ棒を飲んだように立ち尽くして、その───生温い、厭な感触の液体をぬるぬると感じる。
───なんだこれ
溢れる。どんどん溢れる。塗りつぶされていく。朱い、紅い、赫い、どんどん、どんどん、三橋の視界はその一色になる。
───なんだこれ
吐きそうだ。身体を二つに折って必死で悪心に耐える。これは、何。これは夢だ。わかってる。でも、なんでこんなに気持ち悪いんだ。これはよくない、とてもよくない、悪夢だ。早く醒めろ、帰らなくちゃ、現実の世界に。
流れ落ちる。腕に、脚に、そして足許に。血だまりを作り、ゆっくりと広がる。三橋は茫然とそれをただ眺めていた。
「阿部君、助けて」
やはり声にならなかった。阿部がいてくれれば、こんな夢は全然怖くない。───だが、三橋はただ独りだった。そこに、三橋以外の誰も居はしなかった。絶望に胸を塞がれながら、ついに三橋は涙を零した。涙は鮮血と混ざり合い、融けていった。
「三橋、大丈夫か」
「あべ……く……」
見上げると阿部の顔があった。安堵のあまり、三橋はがっくりと項垂れる。
「汗、すげェぞ。ちゃんと拭け」
「あ、う」
ろくな返事が出来ない。あまりにも酷い夢だった。夢だと割り切るには惨すぎる。
「三橋───」
「う……うっ……」
気が弛み、三橋は嗚咽を堪えきれなくなった。阿部が優しい眸をする。
「大丈夫、大丈夫だから、泣くな」
「あべ、あべく」
「もう大丈夫だから」
「あ……」
思わず抱きついていた。その頭を阿部がそっと撫でる。子供をあやすように。三橋の涙はとどまることを知らない。
「夢だよ。夢だから。泣くな───」
「う、うっ、うぇっ」
「おまえがそんなんだから……ほっとけねェんだよ」
「あべくん、いないと、オレ、だめ……だ、から」
「だめじゃねェよ」
「───」
「おまえはだめじゃない」
「───」
「だからもう泣くな。頼むよ」
肯いてみても、涙は止まらない。涸れない。
はっ、と三橋は身を起こした。夢だ。夢の中の夢。窓の外はうっすら白んでいて、美しい藍色をしていた。もう黎明が近い。眠っていたのは僅かな時間だった。
───投げなくちゃ
ふらふらと起きだし、着替える。庭に出て、ボールを握る。阿部が、そこにいるはずだから。
しかし足は止まった。振ろうとした腕も、力を喪ってだらりと垂れ下がる。
そのまま長い間、動けず立ち尽くしていた。
「三橋。今日こそ会ってもらうからな!」
家の前で田島の大きな声がしたかと思うと、有無を言わせぬ強引さで階段を駆け上がってきた。制止する花井の言葉が後から追いかけてくる。
「田島! 不法侵入だぞ! いくら鍵かかってないからって、だいたい学校! 昼休み中に戻れんのかよ!」
「どーでもいいよ、学校なんか! 三橋! 聞いてんだろ!」
うつらうつらしていた三橋はそのやりとりが耳に入ってきてふと現実に引き戻された。ああ、学校───行ってない。行きたくなかったから。田島や花井の顔も、思い出せないような気さえしてくる。そこまで鈍った頭で考えた瞬間、派手な音を立てて三橋の部屋の引き戸が開けられた。
「───」
田島が絶句する。
「ひ、でェ顔……なんだよ、おまえ……」
花井も後ろから顔を出して、同じように表情を強張らせた。三橋は視線を合わせないように、壁を向く。田島がその背中に向かって三歩で近づいて怒鳴った。
「三橋っ!」
「───たじま、くん」
「オレのことはわかるんだな。花井は」
「わ、かる」
「こっち向けよ!」
「───」
「向けったら! 三橋! おまえのせいじゃないだろう!」
「田島! もうやめろ!」
三橋の両腕を掴んで強く揺すぶった田島を、花井が後ろから抱き留めた。花井は泣いていた。
「頼む……田島、頼むから」
「花井───」
三橋は無言で、二人が肩を支え合うようにして部屋から去って行くのを見送った。胸の奥で、小さな針のようなものが蠢いたのを感じ、しかしそれは一瞬で消え去った。
阿部がまた現れた。まるで詰るようだ。三橋は首を振った。
「学校、行きたく、ない」
「田島と花井がせっかく来てくれたんだから考えろよ」
「でも、いやだ」
「なんで」
「───なんでって」
「わからないの」
「いやなものはいやだ」
阿部は苦笑した。
「野球、やりたくねェの?」
「───」
「投げたくねェの?」
「───」
「素直になれよ」
「───い、やだ……」
「……しょうがねェな」
夢を見た。
阿部がいた。三橋を見る時の仏頂面ではなくて、うっすら微笑んですらいる。ああ、阿部君だ、と三橋は阿部に駆け寄ろうとする。なんだ、そんなところにいたの。オレ、阿部君いないと駄目だから───
その阿部の輪郭が、ゆっくりと滲んだ。そして、染まる───深紅に。三橋は悲鳴を飲みこんだ。正しく言うと、悲鳴にならなかった。以前の夢と同じように。
「あべ……く……!」
阿部に近づけない。何故だか距離が縮まらない。足に何かが絡みついているように、歩が進まない。
「阿部……君! いやだ!」
阿部は不思議そうに自分の掌を瞶めている。何故? という顔だ。そしてやおら三橋を視た。みるみる、表情が崩れた。阿部らしくない。
───阿部君が泣いちゃう
三橋は叫ぼうとした。待って、阿部君、行かないで、泣かないで、オレ、ちゃんと投げるから、だから球、捕って、言う通りにするから、首、振らないから、逆らわないから───
阿部はそんな三橋の心を読んだようだった。悲しげに、ただ哀しげに、背を向けた。
「いやだ! 阿部君、いやだ───!」
阿部は振り向かなかった。三橋はついに動きを止めてしまった足を必死に拳で叩き、そして阿部の姿が消えてしまうのを茫然と見送った。滂沱の涙が溢れた。
「投げなく、ちゃ」
覚束無い足取りで三橋はベッドから起きだした。最悪の夢だ。でも、あれは夢だから、と自分に言い聞かせる。投げればいい。投げれば、忘れる。ただの夢。
止めなさいという母親の制止を振り切り、またボールを手にする。庭に出る。いざ、投げようとして、また阿部のミットを探す。ああ、あそこだ───的の向こう。阿部がちゃんといる。あそこに投げればいい。まっすぐだ。
「投げ……なくちゃ、ちゃんと」
セットポジションから右肩を引いて、腕を───
───三橋のせいじゃないから
田島の言葉が不意に蘇った。勢いの止まらなかったボールはあさっての方向に飛んで行ってしまう。
「ダメピー、に、なっちゃ……」
もう野球部には行かないのに。野球部に行かないということは、野球をしないということだ。三橋はその矛盾に気づいていない。
もう一球。
ストライクゾーンに入らない。
もう一球。
同じことだった。もう、的に当てることさえも出来なかった。三橋はそれでも投げ続けた。的の向こうの阿部は、表情を変えずにそこに居た。三橋がどんな投球をしても、阿部はそこに“居た”。
───投げないと
投げないと、阿部がいなくなってしまう。
「無理すんな」
「だっ、て」
「フォームめちゃくちゃ崩れてる。それじゃストライクゾーン入るわけがねェ。ヤケになって投げんな」
「だ、だって、あべ、く」
「落ち着け、落ち着けったら」
「う……」
「おまえ、本当に───投げたい、の」
「投げ、たい」
「じゃあ、どうしてこんな無茶すんの」
「それは」
「なんで」
「それ、は……」
「ちゃんと考えて」
「───阿部君、が、」
「オレが」
「───」
思考はそこで止まった。阿部も何も言わなかった。まなかいに静寂が落ちた。
夢をみた。
投げても、投げてもストライクが入らない。甘く入ったボールは簡単に外野まで打ち返される。目の焦点が定まらない。ミットは───阿部のミットはどこ? 暑い。夏のぎらつく太陽が容赦なくマウンドの真上で照りつけてくる。アンダーシャツはもう汗でべっとりしていて、気持ち悪いな、と三橋は思う。集中出来ていない。
───オレ、ダメピーになった
マウンドでは逃げるところ、ない。投げなくちゃ。投げないと。誰かがサードランナー、と叫んだが、三橋の耳には届かなかった。頭の中は真っ白で、監督の出すサインもろくに見ていなかった。ただ腕を振るだけ、それだけが限界だった。ついに告げられた交代のコールに、三橋は従った。花井にボールを渡す時、その眥に光るものを見たように思った。そしてそのまま、レフトに移動する。水谷はセンターにシフト。すれ違いざま、水谷は三橋の手を握ってきた。───冷たかった。
試合中、マウンドを後にするのは初めてのことだった。
「厭な夢……」
なんて最悪な夢だ。マウンド譲りたくないのが長所って褒めて貰ったのに、素直に渡してしまうなんて。
阿部に怒られる。もうちゃんと投げられない。努力してるのに、投げられない。思い通りに投げられない。投げられない。
思考がぐるぐる循環して三橋は思わず「やめて」と叫びそうになった。
───オレ、おかしい
ふと突風のような不安に煽られて三橋はぐらりと揺らいだ。どこかがおかしい。何かが、おかしい。学校に行かない───行けないのも、ちゃんとしたピッチングが出来ないのも、おかしな夢を見るのも、全部どこか、不協和音のようにざわざわする。ホンキイトンクの楽隊が頭の中で行進して、それは三橋をまるで嘲笑うかのようだった。
「阿部君」
静寂。
「あべ……くん」
窓の外で樹々がざわめく。
「あ……」
ローテーブルの上に置いてあった硬球が、ころりと転がって、鈍い音で床に落ちた。
「花井。オレ、やっぱりどうしても三橋とちゃんと話しないと気がすまねーわ」
「田島、気持ちはわかるけど」
「三橋だってあんなんじゃいけねェよ。ただ落ちこんでるだけだと思ってただろ、オレだっておまえだって」
昼休み、また学校を抜け出して自転車置き場にまっしぐらに走っていく田島を見咎めた花井は全力でそれを引き留めにかかっていた。行き先は解っている、三橋の家だ。何度も訪ねては引き返し、先日なんかついに勝手に上がりこんでしまった。三橋の状態がデリケートな時に、あまり負荷をかけたくない。そして、田島が傷つくのも見ていられない。だから花井はどうしても田島を行かせるわけにはいかなかった。
「ただの落ちこみであんなんなるかよ。ゲンミツにおかしいだろ。放っておいたらもっと最悪なことになるかも」
「最悪って……何だよ」
「わかんねェよそんなん。でもそうなっちゃってからじゃ遅いじゃん」
「田島」
「だいたい花井、今の野球部どうなんだよ。辞めたいって考えてる奴がいるの気づいてんだろ。もうおしまいなのかよ? オレたち。違うだろ。野球やんなきゃ、だめだろ。なあ花井、違うかよ」
「───」
花井には言い返す言葉がない。田島が乱暴に目のあたりを手の甲で拭った。
「オレは三橋があんなままでいるのは絶対厭だ。だから話す」
「───三橋に届かなかったらどうする」
田島はまじまじと花井を見上げた。意味がわからない、という表情だ。
「三橋はオレたちをもう見てないかもしれない、っていう可能性もある」
「あの三橋がか? あり得ないぜ。三橋からピッチャー取ったら食欲しか残らねー」
「でも」
花井は言い澱んだ。あの様子は、その“最悪”の事態だって想定出来る。田島はそこまで考えているのか、いないのか、確かめるべきかどうかを逡巡して花井は俯いた。
「花井の言いたいことはわかってるつもり」
「え」
「それでもオレは三橋を信じたいんだ。あいつはオレとおんなじで、野球しかない。そういう奴なんだ。だから行かせろ」
花井と田島はじっと瞶めあった。その睛は澄んでいる。田島は花井のように考えて行動しない。だから見ていてはらはらすることもある。だけど、今は───
「……わかった」
「花井、サンキュー」
走りだそうとした田島の首根っこを花井は掴み取った。
「今はだめだ。放課後、ちゃんと家の人に許可取ってから。練習はとりあえず今日おまえは休むこと伝えておく」
「えー」
「えー、じゃない! 野球部の人間が失礼したら三橋の家にも悪いだろ!」
「……ゲンミツに了解」
「わかってんのかよ」
「花井も一緒に行くかよ」
どうしようか、と花井は迷った。田島とサシで話したほうが三橋にはいいかもしれない。
「オレは遠慮する。一人で行け」
「わかった」
「あと泉には言ってから行けよ。心配するから」
「勿論」
その時ちょうどチャイムが鳴って、二人は教室のほうへ急いで駆けて行った。
白球が───
吸い込まれていく。西浦ナインはその軌跡をあおのいて見守るしかなかった。大きく外野で跳ね上がり、塁審が頭の上でぐるぐると手を回した瞬間、スタンドから轟くような大歓声が湧きおこった。
満塁策が徒になった。
最初から三橋は、投げられる状態じゃなかった。
チームメイトは全員、拭っても拭っても溢れる涙をついに堪えられなくなったし、マウンド上の花井はがっくりと膝をついた。
走者がゆっくりとホームベースに足をかける。キャッチャーマスクを手にした田島が定まらない視線でそれを見遣る。
コールドゲームが成立した。
頭が割れるように痛い。両側から万力で締め上げられているようだ。三橋は布団に蹲り、必死にそれを耐えた。閉じた目蓋の裏側で不思議な情景がフラッシュのようにちらちらする。阿部の姿だったり、ボールだったり、チームメイトの涙だったり、グラウンドの土だったり、様々なものが鮮明に瞬間に映りこむ。そのたびに頭痛は酷くなる。
───なんだこれ
「三橋」
「あ、べ……く」
「だから言ったのに。無茶すんじゃねェって」
「う、うぅっ」
「もう、わかっただろう」
「───」
「おまえは“投手”だろ」
「オレ、は、あべく……ない……と……ダ、メ……ピ……で」
息も絶え絶えになりながら、ようやくそれだけを言えた。
「おまえはもうダメピーなんかじゃない」
「で、も」
───でも、打たれた
一際強い痛みが全身に走るように思って、三橋は思わず苦痛の呻きをあげた。痛い、痛い、痛い───助けて。
夏は終わりかけていたが、まだ残暑がしぶとく居座り続けている。夕闇迫る薄暗い空調の効いた部屋で、三橋の全身はじっとりと汗ばんでいた。額に滴が滑る。厭な汗だ。汗は嫌いだ。汗も、それから───血も。
「うぁ……ぐ、あっ」
今度こそ三橋は悲鳴をあげた。あれは夢じゃないか、なのに何でこんなに怖い。畏怖に取り憑かれたようになって、三橋は半狂乱でシーツを掻きむしった。握りしめた拳に爪が食い込み、うすく血が流れ、布にちいさな染みを作った。その色に、くらりと眩暈がする。
たすけて、と脣は動いたのに、聲がもう出ない。三橋は意識が遠のくのを感じ、そしてそのことに安堵した。
「オレのこと、忘れんなよな」
「何言ってる……の」
「ま、忘れてもいんだけどさ。野球だけはやめんなよ」
「やめな、いよ」
「でも投げてない」
「う」
「野球部も行ってない」
「う……」
「ちげェだろ。おまえはそんなんじゃないだろ」
「オレ……は、阿部君のこと、忘れたことなんか、ないし、野球……やめない」
「矛盾してる」
「……してる……」
ふ、と阿部が幽かに微笑んだ。
「認めたな。それでいいんだ」
「わからな……」
「焦んなよ。それでいいんだから」
「いいの」
「ああ」
「よう。随分よく眠ってたな」
「たじま……くん」
田島はよっこらせ、と声を出しながら身を起こした。三橋の部屋に当然のように座って寛いでいたらしい。
「そんなに待ってないぜ。授業終わって軽く練習してから来たからよ。汗くさかったらごめんな」
「───」
「話したく、ないか?」
「……ごめ、ん」
「でも、オレは今日はきっちし話つけに来たんだぜ」
「───」
「こないだは悪かった。いきなり怒鳴ったりして。あれじゃ三橋もビビって当たり前だって花井に怒られた」
「ううん……」
「今日は調子、いいみたいだな」
そうかな、と三橋は思う。そしてさっきの頭痛を思い出した。嘘のように消えている。ちりちりと頭の底のほうに鈍くその残滓があるだけだ。
「話も通じそうだし」
様子を見てとって、田島がぐっと身を乗り出して、三橋の瞳を覗きこんだ。
「目の焦点も合ってきてる。なんかあったのか」
思いつくようなことは何もない。ただ、阿部が───
「言いたくないならいいんだ」
言いたくないのではなくて、うまく言えないのだと多分田島は察している。
「野球部な」
なんでもないように田島は言葉を繋いだ。
「辞めたい?」
三橋は目を瞠って、それに対する返事を探した。辞めたいのか。そんなことは考えたことがなかった。“行けない”だけで、“辞めたい”わけじゃない───でも結果としてそれは同じことになるのだと、やっと理解した。田島は三橋の返事をじっと待っている。
三橋は大きく息を吐いた。
「野球……したい、けど」
「けど?」
「でき、ない」
「なんで」
「オレ……もう、投げられな……」
「なんでそんなふうに思うんだよ」
「……やってみた、から」
「本当に」
「ほんと」
田島は考えこむようにする。眼差しは真剣そのものだ。
「───見せてくれるか。正直信じらんねんだ」
「でも」
「無理か」
三橋はゆっくり首を横に振った。田島はその手を握ってみた。氷のように冷たかった。
二人はもう月が昇り始めた庭に出た。いつもの九分割の的がある。見慣れたそれに向かって、三橋は躊躇うような仕種をみせた。田島はそれを急かしたりはしない。三橋が納得するまで待っている。
「なげ、るよ」
「うん」
いっそ悲壮とも言える表情で三橋が振りかぶった。
ぱん、と音をたてて球はストライクゾーンからかなり遠いところに当たる。球威もない。
「もう一回、出来る?」
「なげ、る……よ」
同じことだった。
「三橋、もういいよ、わかったから」
「たじまく……」
「ゲンミツにオレ、驚いてる。正直に言う。なんて言っていいのかわかんねェ」
「失望……した……よ、ね」
「ちげ。そうじゃねェんだ」
下を向いてしまった三橋の腕を田島は思いきり掴んだ。
「なんでおまえがそんな風になっちまったのか、オレ、わかるような気がするけど、わかんねートコも多すぎる。だから、独りで抱えこむのはやめてくれねェかな……無理かな、オレじゃ」
田島は息を吐いた。
「阿部のかわりになんか、なれやしねェけど。そんなの誰だって無理だろ───なあ、三橋……三橋っ!?」
夢をみた。
監督が目を腫らしている。志賀が眼鏡を外して目許を拭っている。嘘だ、と誰かが叫んだ。脳裏に浮かぶのはあまりにも残酷な情景(シーン)。嗚咽がそこここで洩れている。蹲って泣いている者もいる。三橋はただその真ん中で茫然としていた。
約束は? 約束したじゃないか。
足許が覚束ない。まるで雲を踏むようだ。身体のどこに力を入れればいいのかわからない。誰かが───栄口がそれを抱き留めた。
「これから試合だけど、投げられ……」
「───投げ、る」
監督が気丈に声を張る。
「棄権っていう手もあるんだよ。この状態じゃ───」
そこで彼女は口を噤んだが、言いたいことは全員が解っていた。
負ける。
しかも確実に。
ただでさえ選手層の厚いARCが相手だ。しかも甲子園出場がかかっている───埼玉地方大会決勝戦。沈黙がその場を支配した。
「……やるだけ、やりましょう。悔いが残る」
苦渋の選択をしたのは、主将の花井だった。
「それがどんな結果になっても───オレたちがここまで来れたのは、間違いなくこのメンバーの頑張りだったから。だから、やりましょう」
チームメイトに反駁の声は上がらなかった。彼らはただ、これが悪い夢であればと願い、しかしそれが無情な現実であることを解ろうとしていた。いっそ痛みに近い哀しみに胸が塞がれそうになりながら、必死に立ち上がっていた。
ただ、三橋を除いて。
試合中三橋はひたすら阿部のミットを探していた。マスクを被った田島は、直視するのが辛い。かろうじて投げているという状態で、ストライクゾーンに入れるのが精一杯のコントロールだ。攻守交代のたびに「阿部君はどこ?」と聞いてくる。遅刻なんか、しちゃいけないよね? とか、決勝戦、だもんね、とか、言動に不安定さが顕著に見られた。見かねた監督が左の沖に投手交代させ、かわりに花井をファーストに、三橋をレフトにコンバートすると、打たれた球の行方も満足に追えない。外野を実質二人で守ることになった水谷と西広は、あまりの痛ましさに涙を堪えることが出来なかった。ベンチでは全員黙りこくり、声を発する者は誰もいなかった。ただ三橋の独り言めいた呟きが虚しく響く。点差はどんどん開く。予想していたとはいえ、こんなに野球が辛いと思ったのは、全員初めてだった。
甲子園まで、手が届きかけていたのに。
そんなことは、もうどうでもいいことになっていた。阿部がいないからだ。阿部のかわりなどいない。
───早く終われ、早く
願うようにしてただ一方的な試合展開を茫然と、他人事のように、西浦ナインは眺めていた。現実のこととは思えなかった。青い青い青い空も、立ち上る熱気も、スタンドの歓声も。あまりにも、突然の喪失が大きすぎて。
「三橋、みはしっ!」
「……あ」
地面にへたりこんでいた三橋はようやく目を開けた。その肩を抱いた田島が大粒の涙を零している。ぽたぽたと、それが三橋の頬に間断なく落ちた。
「ごめん……三橋、ごめん」
「なんか、へんな……ゆめ、み、た」
「ごめんな、三橋」
「たじまく……なんで、泣いてる、の」
「ごめん、今これしか言えねェ……ごめん」
「オレが、ちゃんと、投げられなかった……から?」
「違うっ」
思わず大声をあげてしまった田島は、自分の声で我に返った。
「三橋、部屋に帰ろ。冷えるから」
「う、うん」
「オレ……今日はこれで帰るな。また来るけど。いいよな?」
「う、ん」
立てかけてあった自転車に跨り、田島は振り返り振り返り、去って行った。月は中空に頼りなく懸かっていた。
阿部がまた現れた。
「部屋、戻れって言われただろ」
「あ、うん」
「なんで帰らねェの」
月の光を浴びて阿部の顔色は青白い。
「投げ、ようかなって」
「無理だろ」
あっさり言われて三橋は黙りこむ。
「む、り……かな……」
「今のままじゃ、無理」
「───」
「もう理解ってるだろ」
「いやだ!」
阿部はゆっくり首を振った。
「オレがいなくっても、おまえは投げるんだ」
聞きたくない言葉だった。阿部自身から、言われるまで絶対に認めたくなかった───
だから、葬式にも行かなかった。
墓参りも行かなかった。
学校にも行きたくなかった。
野球部にも───
阿部が怒鳴る。
「てめえ、いつまでもうじうじしてんじゃねェよ。いいかげん目ェさませ」
「ごめ……」
「謝るこっちゃないだろ! ……ったく、夢だよ。これは夢なんだから。わかる?」
「……わかりたく、ない」
「強情なのもほどほどにしろ。もう、逃げるとこねェんだよ───マウンドと同じだ」
「絶対、いやだ」
「もうわかってるくせに」
「───」
「おまえ一人が辛いと思ってんのかよ」
「───」
ふ、と阿部が眉を顰めた。泣き出す直前のような表情だ。
「頼むから───」
「だって、……だって」
阿部が死んだなんて。もうどこにもいないなんて。
「あべく、いない、と、オレ、投げられ……な」
不意に、視界が暗くなった。
腕を引き寄せられ、抱きしめられていた。
これが夢だなんて。そんな残酷な夢だなんて。
信じられない。信じたくない。
「あべ、く……あべく───ん」
「ごめんな」
「う……」
「三橋、オレが悪かった。約束……破っちまったから。おまえがそんなんなってるの、もう見たくねェんだ」
「やだ……やだよ……」
「もう、オレを忘れろ」
「いやだ! いやだっ! 絶対───」
───刹那、口づけが───
触れるだけのキスだった。冷たいキスだった。青い青い月の下、あの日の青空とはあまりにも対照的な、その淡い冷たい光の許、二人はみじろぎも出来ずにいた。
そして、気づいた時に阿部の姿は消えていた。
まるで最初から、そこには誰もいなかったかのように。
立ち尽くす三橋の双眸から、とめどなく、涙が溢れた。流れるに任せて三橋はただ、そこから動けないでいた。
行ってしまったのだと。
今度こそ、逝ってしまったのだと。本当に阿部は、───いなくなってしまったのだと。
景色が鮮明に、色鮮やかに三橋に迫ってくる。それは、“現実”への帰還の兆しだと、はっきり三橋は知っていた。それがたまらなく哀しかった。哀しくて哀しくて、もう一歩も動けない。そう思ったのに、足は勝手に動き始めて、自転車に乗って三橋はゆっくりと走り始めた。
心配した花井から電話を受けて、田島は三橋の様子を説明していた。思ったより酷い。前よりはマシだけど、現実は───花井が深刻そうにしているのがわかる。どうしたらいいのか。まだ高校一年生の彼等には、大きすぎる課題だった。その時、花井の母親が大きな声で呼んだ。
「梓! ちょっと!」
「なんだよ今電話中なんだけど!」
叫び返すと、母は受話器を持って早足で二階まで上がってきた。真面目な顔をしている。
「三橋さんから電話なんだけど、廉くん、いなくなっちゃったんだって。あんた、探しに行くの手伝ってくれる」
「こんな時間に!?」
とっくに日付の変わっている非常識な時間だ。たしかにただごとではない。しかも今の三橋から目を離すのはあまりにも想像するだに怖い。
わかった、とだけ答えて電話の向こうの田島にも同じ旨を伝える。野球部への連絡は任せておけと言い渡し、田島に先に出るように言う。田島が挨拶もなしに電話を切ったあと、花井は携帯のメモリーの上から順番に片っ端から電話をかけ始めた。
───阿部、三橋連れていくなよ。頼むから
しねェよバーカ、という声が、聞こえたような気がした。
耳を両手で塞いでも塞いでも、その指の隙間から現実は入りこんでいたのだ。気づかないふりをしていたかった。ずっと“楽しく”野球する記憶に縋りたかった。闇は洗い流されてしまう。忘れていく。記憶は削られいつか風化する。そんなことには耐えられない。阿部の全てを記憶しておきたいのに、それを許さない時間(とき)の流れ。逆らっていたかった。この世の終わるまで、阿部がいないなんていう現実は知りたくなかった。無器用に触れてきた指先も、重ねた口脣も、もう二度とは感じられない。怒ってもいいから、嫌ってもいいから、いなくならないで───虚しい祈りだった。決勝戦のあの日、三橋の目の前で、阿部は右折無視のトラックに撥ねられたのだ。その瞬間、三橋の精神(こころ)も死んだのだった。
気づいたらグラウンドに来ていた。鍵を閉め忘れたのか、金網製の扉があいている。ふらふらと三橋は中に入りこんだ。そして、マウンドの上に立った。
───オレの作ったマウンドはどうよ
───どんな投手が来るのかなって
───オレがおまえをホントのエースにしてやる
夜はすっかり暗い。しんとして音もない。深い闇の中、三橋はどうしてこんなところに来てしまったのか、あの試合から一度も来ていなかった場所(グラウンド)になぜ、足を運んでしまったのか、ぼんやりと考えた。わからなかった。───しかし壊れて粉々になった心の破片が、少しずつ集まり始めている。
投げたい、と思った。
もう阿部の構えたミットは見えない。それでも、ただ投げたかった。
その時、安堵と驚愕の両方の混ざり合った声がした。
「三橋! おまえ、なんで───」
「あ……」
田島だった。息を切らしている。
「おま、いなくなったってゆーから、家慌てて出たらグラウンドに誰かいるから、おまえ……」
「たじまく、ん」
「ちょっと待て、花井に電話する」
うん、うん、そう、三橋いた、グラウンドだ、え、今から来る? まあ任せる、とにかく三橋のかーちゃんとかに連絡頼むわ。
ピッと電話を切って、田島は三橋に向き直り、大きく息を吐いた。
「はー、ホントに心配かけんなよな……ゲンミツにだぞ」
「え」
「おまえ、いなくなったって大騒ぎになってんの。もう親から野球部総出で大捜索」
「え……」
そんなつもりはなかった。それから母親に伝言を残さなかったこと、そんな余裕がなかったことに思い当たる。
「ごめ……」
「んにゃ、いいんだ、ここにいたってわかったからよ。花井もすぐ来ると思う」
「ごめん……」
「もう謝るなって。なあ、ここに来たってことは」
「うん」
田島はまっすぐに三橋を見つめた。
「阿部に会いに来たのか」
そうかもしれない。でもそうでないかもしれない。
田島は意を決したようにはっきり言った。
「阿部は、もういねェぞ」
「う、ん……」
田島が目を瞠いた。信じられない、という顔になる。
「三橋。本当に、わかってるのか」
「───」
「わかってるんだな」
「───」
「ほんとに、わかって───」
田島はまるでそれ以外の言葉を喪ったかのように繰り返した。そして、ついに押し黙った。
「あべくん───」
「ん」
「行っちゃった、んだ」
「……うん」
「もう、いない……んだ」
「うん」
「でもオレ……投げるしか、できない、から」
「うん」
「だから───」
「わかった。二分だけ待ってろ」
走り出した田島を三橋は茫と見送った。すぐにグラブとミットを手に戻って来る。ぽいとグラブを三橋に放って寄越す。
「投げろ」
「え」
「投げてみろよ」
「う、でも」
「どんなノーコンでもいいから、投げろ」
田島はもうミットを左手にはめている。ホームベースの向こう側に座り、ぴたりと構えた。
デジャヴ。
あそこに、阿部がいた。
「投げ……る」
ほとんど無意識にワインドアップ、そして───投げたボールは、綺麗にミットに吸いこまれた。
「もう一球」
田島の声が響く。言われるままに三橋は投げ続けた。
グラウンドに到着した花井は、その光景に目を疑った。三橋が───投げている。捕っているのは、田島だ。思わず声もなく立ち竦んでいると、気づいた田島が声を張り上げた。
「花井、来たか。バッターボックス立ってくれ」
「お、おまえ」
「いいから!」
言われるままにバットを用意し、打席に立つ。三橋が、また投げる。まっすぐだ。三橋のまっすぐ。最初にその価値を見いだした阿部が、一番重要なところで使っていた球種。
───泣くところじゃねェ
花井はバットを振ることが出来なかった。ただ、視界がぼやけそうになるのを、上を向いて耐えた。田島はそんな花井を見上げ、それでも何も言わなかった。
チームメイトが三々五々集まってきた。三橋が投げて、田島が捕っているのを各々驚愕し、そして自然に自分のポジションについた。もう東雲の空になりかかっている。三橋の背中。投げている三橋の背中を見るのは、どれぐらいぶりなのだろう。あの日───今となってはすぐ昨日にも、遠い昔にも思えるあの、彼等の運命を残酷に変えた日以来の───
星がひとつ、またひとつ消えていく。明け方の空は闇を追い払い、ぐんぐんと輝度を増す。
忘れたくない、と三橋は思う。約束を破ってごめん、忘れていいと阿部は言った。そんなこと、出来やしない。出来るはずがない。この夏は忘れられるようなものじゃない。たとえ少しでも阿部のことを忘れてしまうようなことはしたくない。だから投げる。阿部がいた日常は突然断ち切られ終わってしまった。しかし、無数の星の光が地上に届かなくてもそこに必ずあるように、記憶は沈んでも褪せない。───忘れない。
太陽が静かにその姿を現した。それはもう夏の色をしていない。
光り輝く季節───夏は、逝った。
end.
|
|