阿部君に投げてるのはオレだ。
 マウンドの上でなら、阿部君をまっすぐに見られる。おかしいな、と三橋は自分でも思う。こんなに安心して野球が出来ること、そのことにいつまで経っても慣れない。
 安心───
 それはとても依存に似ている。依存は恋に似ている。




Past,and presently.
Garako Inagaki Presents.





 阿部はいつも自信に溢れていて眩しい。キャッチャーフライを追いかけている背中とか、外野に指示を飛ばしている檄とか、迷いがない。だからミットに向かえば、三橋だって何も考えず、コース取りの通りに腕を振ればいい。
 阿部がいなかったら西浦は全然違うチームになっていただろう。たとえば田島がいなかったら、という想定とは、三橋にとってはそれは意味が違う。投手にとっての捕手は理想の相方であることが望ましいし、出来るだけコミュニケーションを取っておくことが前提だから、信頼関係を築いていないと三振はおろかまともなアウトも取れない。

 ───榛名サン。

 三橋は阿部の過去を気にしないようにしている。気にしないようにしているつもりが性分故に態度に出てしまい、阿部を怒らせる。だいたいが榛名の名前を出すだけで阿部はみるみる不機嫌になるし、そこは触れてはいけないところなのだとわかってる。

 ───でも気になる。

「なんか気にしてることとかあんの?」
「あっ」
 バレた。一瞬でバレる。投球練習になると、油断するまでもなく心を見透かされてしまう。
「気のない球ほぉんなよ。……ってお前にそれ言っても原因がわかんねェんじゃしょうがないし。なんか言ってみ?」
「う……」
「なんだよ。もう、ほんとにわかんねー」
「お、おこらないで」
「怒ってねェ……って怒ってるみたいに聞こえるのか。参ったな」
「……」
「……ち」
 小さな舌打ちが聞こえて三橋は涙ぐみそうになった。聞きたいけど聞けないことで、阿部に嫌われるのだけは避けたい。でも、怒られるのは怖い。
 だんだん阿部の表情が仏頂面に変化していく。本気で怒らせる前に、何か言わないといけない。
「お、オレ、今日、変なんだ」
「ん?」
「なんか、変な夢み、て」
「夢ェ?」
 夢なのに泣けて泣けてしょうがなかった。覚醒した後も動悸が鳴りやまなかった。殆どセミオートで朝飯を食べて、自転車に乗って、着替えて、練習場に出て、ウォーミングアップして───阿部にバレた。
「う、ん」
「夢くらいで何を動揺することがあるんだ」
「……んの」
「声ちぃせえ。聞こえないんだけど」
「阿部、君の」
「オレ?」
 もう阿部の顔をまっすぐ見られない。俯いていると、上から声が降ってきた。
「オレがケガする夢でも見たのかよ」
「そ、それはいやだ」
「違うのか。じゃあ何よ。そんなこと言われたらオレだって気になるぞ。ほら喋れ」
 ボールをグラブの中でぐるぐる回して逡巡する。阿部の視線を感じる。逃げ出してしまいたい。なんで正直に言っちゃったんだろう───
「……フゥ」
 今度は溜息だ。思わず顔をあげると、阿部は横を向いていつもの“しょうがねえなぁ”という顔をしている。

 ───このままじゃ嫌われる。

「あの、あの」
「うん、だから何」
「阿部君と」
「オレと何」
「……榛名サンの……」
 きり、と音がしそうな。
 そんな風に、空気が変わった。
 やっぱり言うんじゃなかった。こうなるって解ってたのに、どうして口にしちゃったんだろう。でも、言えって言ったのは阿部君だ───と三橋はぐるぐる意味のない考えを巡らせて、自分の情けなさにまた涙が出そうになった。
 たかが夢じゃないか。
 そう笑い飛ばして貰えたらどんなに楽だろう。
 でも三橋は投手で、阿部は捕手で、榛名も投手だ。
 投手という生き物はめんどくさいと阿部に率直に言われたこともある。三橋の、そうは見えない闘争心の根っこに、榛名はどうしても居座っている。はがすことができない瘡蓋みたいなものだ。
「あいつの話はすんな、って言いたいけど。今日みたいな投球されてもみんなが迷惑するだけだし。ちゃんと聞いてやる。全部言え」
 予想外の返事が予想外の優しい声で返ってきた。



 ───オレは榛名の玩具だったんだよ。



 以前阿部が自嘲した言葉がひっかかっていたのだと思う。榛名は凄い投手だ。三橋とは正反対だ。だから阿部君も凄い捕手だと三橋はそのまま方程式に当てはめて考える。あんな凄い榛名さんと組んでたのだから、阿部君も凄い捕手。桐青戦を終えて、“三橋のための捕手”である阿部の言葉や態度がひとつひとつ重たい。桐青戦での阿部は本当に凄い捕手だった。あんな打線相手に投げ勝ってしまった。だから三橋はどんどん阿部に心を預けていく。だけど阿部にはそれが全然伝わっていない、と感じる。
 キャッチボールだけすれば全部筒抜けになってしまうくらい、感情の動きは敏感に察知されてしまうけど。さすがの阿部も三橋の考えまでは見抜けない。
「で、榛名がどうしたの。夢でイジメにでも遭った?」
「ち、ちが」
「違うのか。じゃあ……オレが榛名とまたバッテリー組んでるとか?」
 ぎくん。背筋に棒を突っ込まれたみたいになった。
「なんで、わかったの!」
 あちゃあ、と阿部は口に出して呆れた。
「おまえ、なぁ……」
 阿部はついに座り込んで頭を抱えてしまった。
「もうわけわかんねェ……」



 ───オレは榛名の玩具だったんだ。
 ───オレは榛名の卒業までバッテリー組んでた。



 それはどうして? 榛名サンのことが好きだったから? いつか“ちゃんとしたバッテリー”になれるって思ってたからじゃないの? 今でも本当はそうなんじゃないの?



 そんな考えが夢になって現れた───のだと思う。



 言葉にしたことで、そして考えを読まれたことで三橋の投球は元に戻った。要求されたコースにきちんと意識して投げて、それはちゃんと阿部のミットにおさまった。阿部は結局何も言わなかった。しばらく頭を抱えてからゆっくり立ち上がり、ただ、苦笑しただけだった。
 口許に淋しさを滲ませて。
 それからゆっくり手を握ってきた。
 三橋は自分の手が冷えていることに、今更気づいた。そして、阿部の手もまた冷えていた。冷たい指先が触れあうことで、ゆっくり、ゆっくり温まっていく。
 また涙が滲んできた。今度は抑えようがなかった。阿部も叱るようなことは言わなかった。ひとしきり三橋が泣いて、涙が止まった頃、思いがけないほど優しく“ちゃんと投げろ”と言っただけだった。
 優しくされるのには慣れてない。でも、謝るときっとまた阿部を怒らせる。
 だから投げる。きちんと投げる。
 インもアウトも、高めも低めも、きちんとサイン通りに。カーブの握りが甘くならないように。シュートの回転を十分かけるように。そしてまっすぐに。精一杯、腕を振る。
 ───マスクの向こうの阿部の心は、結局見えないままだったけれど。



「オレはお前を選んだんだから、バカなことを気にするんじゃない。お前はオレに選ばれたことで胸を張ってればいいんだ」



 臆病になりすぎて踏み出せない。なのに阿部にどんどん心を持っていかれてしまう。それが嬉しいのか哀しいのか解らない。たとえば投球配分を自分で考えなくていい、ということはとても楽なことだ。でも、これは考えないといけないこと。どうしてこんなに阿部に嫌われるのが怖いのか。阿部に好かれたいとする気持ちを制御できないのか。今までこんな感情を持った相手は一人もいない───だから、どうしていいかわからない。頭の中が阿部のことでどんどん膨らんで、そのうちきっと洩れだして、涙になってしまう。そんな予感がする。その時きっとまた阿部は怒るだろう。三橋はうまく説明できなくて、阿部に嫌われてしまうかもしれない。
 ───どうしたらいいのか、全然わからない。

 ただ投げるだけしか出来ない───。



 阿部が榛名について話したのは二回だけだ。武蔵野戦を見に行ったとき。それから、どうしても榛名をいい人だと言い張った三橋に対して、吐き捨てるように呟いた時。

 ───オレはあいつの玩具だった。

 どういう意味かわからない。文字通りに受け取ればいいのか、それとも違う意味が篭められているのか。三橋の頭ではそのあたりの機微は伺えない。ただ、思っていたよりずっとずっと阿部の心の根深いところに、榛名がいることだけははっきり解った。
 だから少し傷ついた。
 自信も喪った。
 聞きたいのに、聞けなくなった。



 朝練で気を張りすぎたせいで授業は全く身が入らなかった。それでも食事だけはきちんと摂る。そうしないと、身体が保たない。練習は午後から夜までみっちりある。───と思っていたら、今日は週に一度のミーティングの日だった。
 全員でベンチ前に集合して、いつものミーティングだ。そう思ったら、監督の言うことも、花井の言うことも全部頭に入らなくなった。
「三橋くん! 聞いてるの?」
「あ、あひゃいっ」
「ぼんやりしないでよね、もう」
 でもまた心はグラウンドから離れて、あの夢に戻っていく。



 榛名が投げていた。速球だ。阿部はそれをしっかり受け止めている。真剣勝負、という言葉がぴったりの緊張感。腕がぐんとしなり、その肩口から打ち出される弾丸のようだ。あんな球を阿部は受けていたのかと三橋は思う。
「ちゃんと取れよ、パスボールなんかすんな」
「しませんよっ」
「ほれ、次行くぞ」
 ぐっ、と阿部のミットに力が入る。次の瞬間、そこに乾いた音をさせてストレートが決まる。
 ───なんて楽しそうなんだろう。
 阿部は笑っている。得意気な笑顔。どうだ、と誇らし気に。
「ノーコンのアンタもマシになったんですね」
「もう昔のオレじゃないぜ」
 どき。
 夢で三橋は思わず身を乗り出す。
「またアンタの球が受けられて嬉しいッス」
「そうだろ」
 違う。
 阿部の今の投手は三橋(オレ)だ。
 オレのはず───
「野球っていいもんだなあ。ちゃんとしたキャッチがいればいくらでもなげれんぞ」

 ───厭だ。そんな風に阿部君に言わないで。

「アンタの球はほんとにすげェ」

 ───そんな風に言わないで。



「終わったぞ。お前何してんの?」
「あっ、え」
「今日ほんとに魂抜けてたなあ」
 田島にはわかってたらしい。時々野生の勘みたいなもので何気なく三橋の調子を把握するから、そこも田島の凄いところだ。
「うん……」
「まー、小難しい話はどうせ俺らにはわかんないけどさっ」
 行こうぜ、と促されて着替えにいく。黄昏が訪れてすっかり夜の空気になっている。照明に誘われた羽虫が小さな音で飛び回る。今日も終わる───また、変な夢を見るのは厭だなとちくりと胸が痛む。
「三橋、話あんだけど、ちょっといい?」
 やにわに背後から阿部の声がした。
「ご、ごめんなさいっ」
「は? 都合悪い?」
「いや、そ、そうじゃない……けど」
「じゃあ着替え終わったらベンチまで来て」
「はい……」
 動揺が収まらない。いったい何の話だろう。ミーティング中に上の空だったから怒られるのかも。だとしたら、ちゃんと反省しよう。それは事実だし。
 重たい足を引きずりながらベンチへ行くと、阿部が神妙な顔で座っていた。横を示されて、三橋も腰掛ける。
「あの……話、って」
「ああ。たいしたことじゃないんだけど」
 阿部は何故か言い澱んだ。
「ん……」
「?」
「三橋、お前さ」
「う?」
 阿部は一呼吸おくと、真面目な声で言った。
「オレのこと、好きなの?」



 ───いきなり、核心を突かれた。



 反射的にぼろ、と涙が溢れた。泣くつもりなんかなかったのに。予想していたのか、阿部は表情を変えない。
「ご、ごめ……」
「───」
 阿部はただ、三橋の言葉を待っている。阿部に似合わない辛抱強さだ。
「嫌われた、く、ない」
「好きってことじゃないの?」
「わ、わからな」
 本当にわからない。嫌われたくないイコール好きなのか。好きだから嫌われたくないのか。
「オレはおまえが好きだって言った」
「う、うん」
「おまえもオレが好きだって言ったよな」
「言……った」
 あの時は嬉しくて。ただ自分を認めてくれる“捕手”が現れたことに感動して、思わず言ってしまった。でも、今は違う。阿部の一挙一動に動揺してしまう自分の“好き”はあの時とは変質している、と感じる。

 夕暮れはとっくに駆け抜けて、藍色の地に光る星がうっすら浮かびあがってきた。茫漠とした明かりの下で、二人はただ黙りこんでいた。短気な阿部はいつもなら怒鳴りつけてでも三橋に真意を語らせようとするのに、今はそんなことをしない。

 ───きっと榛名サンのことを言ったからだ。

 阿部の後ろに榛名の影が見えるような気がする。その投球(たま)で阿部を未だに縛っているように思える。投手として比較されるのはしょうがない、だけど、心まで持っていかれてしまうのは厭だ。だって阿部は今は三橋の捕手なのだから。

 ───心まで?

 三橋はようやく気づいた。阿部の心が欲しいのだ、と。それは独占欲だ。阿部が怒鳴ったり怒ったりするのが怖いのは、阿部がそんなふうにすることで三橋を嫌いになってしまったのではと感じるからだ。
 また涙が滲んできて、三橋はそれを必死で拭った。溢れて溢れて止まらない。阿部はどんな顔をしているのだろう。面を上げることが出来ない。また呆れられていたり、睨まれていたりしたら、今度こそ何も言えなくなってしまう───
「なあ」
「……っ」
「オレのこと、好きなんだ?」
「す、き、だ」
 これだけ言うのに数秒かかった。同じ言葉なのに、どうしてこんなに違うんだろう。
「オレもおまえが好きだよ。本当だから」
「うそだ……」
 その“好き”は三橋の“好き”とは違う。三橋が欲しい“好き”はそれじゃない。だから三橋はまた悲しくなる。
「あれか、言ってた、夢のことか。まだ気にしてるの」
「う……」
「榛名のこと気にしすぎなんだよ。なんでそこまで気にするの?」
 阿部には解ってない、と三橋は途方に暮れる。それは半分事実だけど、半分は全然違う。そうじゃない。
 どんどん天は昏くなる。星明かりと頼りなげな街灯だけが、二人を照らす。月は見えない。
「怒らな、い……?」
「怒らないから言ってみろ」
「本当に?」
「本当」
「ぜった、い?」
「絶対」
 三橋は一度深呼吸して、動悸が収まるのを待った。阿部のまっすぐな視線を感じる。三橋は重たい口を漸く開いた。
「榛名サン……」
「───あいつのことか。それは夢だろ」
「ちがう、夢のことだけ、じゃない」
「じゃあ何」
「───玩具、て」
 阿部の顔色が変わった、と思った。
 それは阿部には触れられたくない過去の傷だとわかっている。でも三橋は訊かずにいられなかった。阿部に何があったのか。それがどうして阿部を縛るのか。阿部がまだ榛名の影を背負っているのはそのせいだ、と直観的に識っているからだ。だから、訊いた。
「それ、聞いてどうすんの」
 低い声で阿部が呟く。戦きそうな自分を必死に抑えて、三橋はまだ言い募った。
「それ、わからないと、オレ……投げられな……」
「───そんなに気にしてるの」
 怒鳴られなかったことに安堵して三橋は小さく肯いた。
 阿部は随分長い間黙っていた。それから、静かな声で話し始めた。



「おまえの聞きたいことはだいたいわかる。榛名とオレがなんで最後までバッテリー組んでたか、だろ? あの試合───そう、あの試合まで、オレは榛名の投げる球に心酔してたって、言ってもいい。榛名の球さえ捕れればレギュラーは間違いなかったっていう、そういう野心もあった」
 阿部の言葉に抑揚はない。それがかえって三橋を不安にさせた。いったい、何を言うつもりなんだろう。促したのは自分なのに、胸の奥がちくちくする。
「榛名に逆らっても、榛名は本気でオレを見てくれていたんだと思う───いや、思っていた。だって榛名の球捕れんのはオレだけだったんだから。だから───あいつのいうことなら何でも聞いてた」
 なんでも───?
 ずきん。胸が、また痛む。
 顔色を変えた三橋に、阿部が苦笑を作る。
「そう。なんでもだ。───意味わかる?」
 思わず三橋は首を横に振った。わかりたくない。阿部は苦笑をやめ、真顔になった。
「たとえばさ、こんなこと」



 阿部の顔が不意に近づいた。
 気づいたら、キスしていた。



 そっと触れるだけの淡いキス。でも、それで十分だった。
 三橋の眸から、また涙が零れた。止め処ない涙だった。



「逆らおうなんて思わなかった」
 間近で阿部がぼつりと呟いた。
「むしろ───そうだな、嬉しかった」
 阿部の声は暗くなる。空の色、闇の色をしている。
 それは過去の色彩だ。
 わかっていても、胸が、胸が、痛い。ひき千切られそうに痛い。
「こういうことって、気持ちで割り切れないもんだってわかるよな。オレは逆らえなかった。“あの試合”の後でもだ。正捕手っていう立場も捨てられなかった」
「───」
「だから榛名が中学卒業したときは、正直ほっとした。もうオレを振り回す奴がいなくなるって。絶対同じ高校なんか行くもんかって。そしてその通りにした」
 涙が止まらない。知らないうちに、三橋は自分のシャツの胸のあたりを、釦が千切れそうなほど握りしめていた。
 その手に阿部の手が重なる。
「泣くな」
「う……うぇっ……」
「泣くと思ったから言いたくなかったんだ」
「ごめ……ごめ、ん」
 知りたかったことなのに。阿部がせっかく応えてくれたのに。余計に心が乱れて、破片になって砕けてしまいそうに痛い。
「もう済んだことなんだ。そんなに泣くな。傷つけたなら謝るから」
 阿部君のせいじゃない。そう言いたかったのに、言葉は嗚咽になるだけだった。
「もしかして今の───気にしてるのか。その……」
「……っ」
「キス、しちまったこと」
「ちが」
「じゃあ泣くのやめろ」
「ごめ……」
「ああもう、おまえ全然わかってない。榛名のことはもう言うな」
「いわ、ない」
「おまえが泣くのはもう厭なんだ」
 どういう意味だろう。三橋は目蓋をぎゅっと瞑って涙を堪えながらぼんやり思った。ぶっきらぼうに阿部は呟いた。
「おまえが好きだって言ったろ。もう榛名のことを好きなわけじゃない」


 ───もう


 阿部は三橋を傷つけないように、彼なりに精一杯言葉を選んでいる。それがわかる。無器用な阿部は、怒らないように、爆発しないように、感情をコントロールしている。だけど、言葉の端々に“まだ”残香のように榛名の名前がちらりと覗く。
「あべ、くんが、すき、だ」
 三橋にはもう、それしか言うことが出来なかった。三橋は、今の自分の感情(こころ)を正確に表現する術を持たなかったから。
 それでも阿部は微笑して、三橋をぐっと抱き寄せた。
「オレも好きだよ。───それでいいじゃねェか。だあっ、もううっせェ、泣くな!」
 きつく抱きしめられた温かい阿部の胸で、三橋は泣き続けていた。ただ、好きだと繰り返しながら。





 好きなのに。───

 きっと、榛名と対峙する時。真実自覚出来るのは、きっとその時。
 好きという言葉の意味は色違いで、それに気づかない、不安定で危なげで、───恋人にはけしてなれない。









end.





26thJune.2007