もう今は何とも思わない。
 あの腕が、髪が、口唇が、自分のものだけだったなんて。
 胸なんか痛まない。
 痛くない。───痛くない。




放物線
Garako Inagaki Presents.





 一日毎に日が長くなる。夏が近づいている。三年生になってから、あっという間だ。後ろを振り返る暇なんかなかった。全ての季節は夏だったかのようだ。一年生の時のことなんて振り返ることもなくなっていた。高校生活イコール野球だった日々、それを懐かしく感じる時が来るなんて一瞬も思わなかった。光が眩しければそれだけ落ちる影が濃いように、まして結実したものを失くすなんて夢にも───若さとか青春とか、そんな言葉さえ誰もが恥ずかしげもなく口にしたかもしれない。背が伸びた分だけ分別がつくならそんな大人にはなりたくないと我が儘を言ったり、子供扱いされればもう大人だと憎まれ口をきいたり、中途半端なのに何者にも属さないでいた季節も一緒に終わるのだと誰もが気づいている。───夏が来る。



 阿部と三橋が“そんな関係”になっていたのは一年生の短い夏の間だけだった。関係、と言ってもただキスをする、ちょっと触れる、それだけの淡いもので、無器用極まりない接近は、そのままそっと放物線を描くように緩やかに離れていってしまった。それはどちらの意志でもなく、ただそんなふうになって、それがなくなっただけのことだった。始まりは簡単で、終わりはわからなかった。なぜ、そういうふうにしなくなったのかも二人にはわからなかった。
 どうして、そうしたかったのかはわかっていたのに。
 好きという気持ちは恋なのかと問われて、心の別々のところが欠けた二人はお互いに解らなくなってしまって、迷路に閉じこめられて、言葉が足らなくて、そして、傷つくのが怖くなって。
 暗黙の了解だった。
 何も事件は起きなかった。
 最初から何も、起きなかったかのように。

 だけど、それはたしかにそこにあったのだ。
 消えたと思った燻火は、確かに密やかにその温度を保っていたのだった。二年という月日が経っていても。



「阿部ー、彼女どうしたの」
「ん、別れた」
「またシーズンオフだけかよ。お前も懲りない奴だな。しかも何人目?」
「そういう花井だって結構いろいろ言われてるだろ」
「オレはキャプ業が忙しすぎるんだよっ。女どころじゃねェ」
「はいはい何でも手伝いますよ」
 遅くなったミーティング帰り、いつもなら待っている影を見かけないと目敏く気づいた花井は阿部を小さく咎めたが、全く意に介さないのに溜息をついた。花井は知っている。三橋とのこと以来、阿部が自分から何かアクションを起こさないかわり、近づいてくるものは全て受け容れてきたことを。そして阿部の気持ちが向かないことに相手が傷ついて去っていくのを、いつも絶対に追いかけない。去るものは追わず、なんて言葉は自分の身を守るための言い訳だ。そう指摘したこともあったが、当の阿部が全然聞く耳を持たないので諦めた。たまにこうやって冗談に紛らせて嫌味を言うのが精々だ。
「新一年の練習メニューなんだけど、やっぱまだ基礎足りてないのが多いからラン中心で足腰から鍛えようぜ。俺らの時みたいな濃度のは無理だから」
「そうだなあ。人数少なかったから出来たことって多かったし。今の人数じゃ管理だけで日が暮れる」
「やめてくれ、冗談になんねェよ」
 花井は悲鳴をあげた。今年こそ、甲子園でちゃんと勝ちたい。夢だったことが、欲になり───現実になる。春のセンバツは残念ながら洩れてしまった。夏は実力で勝負出来る。三橋は押しも押されぬエースになっているし、そのかわり攻略されてきているから使い方が重要だ。秋の二の舞はしたくない。
「三橋、どう使う」
「うーん……」
 阿部は迷った顔をした。一年の時から注目を浴びる投手は、その分徹底して攻略される。自分達がしてきたことだ。あの桐青にも、そうやって勝ったんだったっけ───



 もう胸なんか痛まない。
 あんなふうに痛むくらいなら、恋なんかしないほうがましだ。
 あんなふうに眠れない夜を過ごすのも、苦しいのも。



 三橋は背が伸びた。特に腕が長くなったことで球速が上がり、本格派とまではいかずとも、抜きんでたコントロールで打者を打ち取ることは容易になった。そして阿部を静かな眼差しで見つめていた。阿部が誰とどんな仲になっても、マウンドの上での三橋は変化があったようには見えなかった。───否、マウンドを降りても、時間が彼の双眸の曇りを洗い流すように澄んでいた。あの夏が終わってから三橋は学年内はおろか上級生、他の学校に及ぶまで知名度があがり騒がれ、そしてその喧噪の中茫然とする彼に阿部は野球以外何もしてやれなかった。三橋は独りで成長したのだ。
 急に身長が伸びた二年の夏、それまでとの体格の違いにコントロールが乱れてしまった時も同じことだった。最初から三橋にとっては“投げること”が全てで、そこに構えている捕手がいれば、サインを出す捕手がいればいいのだと割り切った。───つもりだった。
 だから阿部は今更、と思っている。阿部は冷たい人間だという噂がいくら流れても構わない。それは半分正解だと自分でも理解っているからだ。本当は冷たいのじゃない、臆病なのだ。それのほうが直視するのに辛い事実だった。臆病でなければ失わなかったものがある、なんて。冷酷になりきれない、それがこれほど辛いとその時には思わなかった。今は───今は違う。ただ流れに身を任せているだけだ。だから何も感じない。心が波立つこともない。


 ───だっていつか、離れてしまう


 それを言ったのがどちらだったのかもう憶えていない。それは二人のどちらも抱えていた気持ちだった筈だから。解ってしまっていたから。こんな関係を続けていても、未来は何もないと、そう感じてしまったから。あまりにも苦しくて、人を好きになるとこんなにも相手に依存し、何もかも溺れてしまうのだと知ってしまった。それが恐ろしかった。臆病で無器用で───幼かった。ただ今はそれを遠い過去のように想うしかない。終わってしまったことなのだから。



「お、三橋」
「阿部君。今日こっちだったんだ?」
 帰りに寄ったコンビニで三橋の姿を見かけた。気楽に声をかけるとにっこり笑い返す。当たり前のように。
「花井といろいろ話し合ってたから」
「大変だね」
「なんか食ってくか?」
「そろそろアイスがおいしい季節だなぁ」
「おごらねーぞ」
「あ、残念」
 軽い口を叩くのも、慣れている。三橋が阿部の周囲を軽く見回して訊いてきた。
「あの子は?」
「もうオレに興味ねーみたいだから」
「阿部君、相変わらずだなあ」
「おまえも花井と同じ説教すんのかよ」
「しないよ」
 そして三橋は阿部をまじまじと見つめた。
 どうしてだろうね。
 そんな疑問が聞こえてくるような気がする。阿部は目を逸らした。三橋のまっすぐな目には、いつまで経っても慣れない。

 ───もう胸なんか痛まない

「一緒に帰るの久々だねー、いつも彼女いたもんね」
「そうだっけ……」
 そうだよーと三橋がアイスをくわえて笑う。こいつこんなに笑うようになったっけ。一年の時はいつも泣いてばかりだった。いつのまに笑顔を憶えたんだろう。こんなに自然に笑えるようになったんだろう。卑屈な態度をしなくなったんだろう。
 すぐ傍にずっといたのに気づかなかった。
 否、気づかないふりをしていただけだ。三橋が“変わっていく”のを、ただ何も出来ずに眺め、目を逸らしていただけだ。阿部は解っていた。臆病な自分。何も出来ない自分。一歩をついに、踏み出せない自分。
 隣の笑顔は、もう自分だけのものじゃない。
「三橋は彼女つくんねェの」
「んー、そういうの、ちょっと」
「結構モテんの、知ってるぜ」
「阿部君ほどじゃないよ」
「嫌味か」
「違うよー」
 三橋の背が伸びただけ、阿部の背も伸びた。二人の背丈の差は結局あまり変わらない。変わらないのはその目線だけなのだと、思い知らされたような気がした。
「三橋、変わったなぁ」
 自然にそんな声になった。
「阿部君だって随分変わったよ」
「そうか?」
「あんまり怒鳴らなくなったでしょう。後輩には鬼副主将って言われてるけど」
「怒鳴る理由がないのに怒鳴るバカはいねェだろ」
「オレは大事にされてるからね」
 どきん。
 不意に胸が騒いだ。随分忘れていた───そんな動揺。阿部はそれを押し隠した。
「エースを大事にするのは、当たり前」
「イチバン……」
 ふ、と三橋が遠い目になった。その距離感に阿部はまたどきりとする。

 ───忘れるなんて、出来る筈ない

 なかったことになんて、出来やしない。
 あの日だって、今日と同じような青い夜に、同じような白い半月が出ていた。ただ違っていたのは、夏が去ろうとしていたことだけだ。三橋の背中をぼんやり見つめていたあの時、もう想い出になるのだと握りしめた拳も、噛みしめていた奥歯の痛みも、忘れることなんか出来ないから記憶の奥底にしまいこんでいた。
 思い出しても、もう痛くない。
 だけど掘り起こすにはまだ早い。
「イチバン貰った時、嬉しかったな」
「田島が練習着にまで書いたろ」
「あれはね、本当に嬉しかった」
「普通イジメだと思うぜ」
「でもね、オレは西浦でまた投手出来て、色々あったけど、最高に幸せだったよ」
「終わったみたいなこと言うなよ。今年の夏こそ甲子園行くんだから」
「そうだね、春悔しかった」
「無理ですーって言わないの」
「あれは痛かったなー、モモカンのケツバット」
「なんだちゃんと覚えてるのか」
 三橋はくすくす笑った。阿部の知らない三橋。二年の間に変わった三橋。
「甲子園、行きたいね」



 自転車を押してゆっくり夜道を行く。もう覚えこんだ道。阿部の斜め前をふわふわの髪が揺れている。もう思い出すことなんか無かったのに、感傷的になっているのかもしれない。夏の大会がまた始まる。最後の夏だ。何もかもが耀いていた最初の夏、三橋と過ごした夏、あの髪に触れて、すぐ涙を零す三橋を宥めるように抱擁を繰り返していた。いとしいと思う気持ちを持て余して振り回されて離れてしまった。だけど後悔なんかしていない。三橋も同じはずだ。
 三橋がマウンドに立って阿部がミットを構えれば、一対の絵のようにぴたりと“嵌る”。三橋には阿部が、阿部には三橋が、投手と捕手として必要だった。理想的な相手だった。一年の時にすぐに解った。運命と言う言葉があるならば、それは悪戯がすぎるほどだ。惹かれあった二人は、その想いの強さゆえに、“投手と捕手”に徹するしか無かったから───
「いっこでも多く勝ちたい。ずっと投げていたい。阿部君とバッテリーでいたい」
 三橋は一息でそこまで言った。決意の表れをなるべく穏やかに告げたようにも見えた。
「夏が終わったら引退だから」
「───ああ」
「なるべく長い夏に、したい」
「当たり前だ」
 最後なんだな、と阿部は直感的に思った。多分、三橋とこんな風に自転車を並べて、二人で帰るなんてことは、もう無い。二度と無い。あったとしても、それはもう野球とは無縁になっている。そんな気がした。
 野球が結びつけた関係だから、野球がなくなってしまえば、そこで終わる。
 あの頃、あれほど畏れていた現実が、すぐそこまで迫っていることに阿部は今更気づいた。
 三橋は───
 三橋は、きっとそれを、随分前から知っていたに違いない。阿部が希薄な人間関係の中を漂っている間、三橋は“その日”へのカウントダウンを静かに続けていたに違いない。備えていたに違いない。“その日”が来ても、ただ通過点に出来るように。
 阿部も三橋も、正反対のベクトルでただ、逃げていた。
 だけど、時間は無情で非情だから、必ず告げてくる。終わりが来たのだと冷酷に。思春期という眠りを醒ます鐘のように。
「あの、さ」
 半歩先を行っていた三橋が立ち止まったから阿部もつられて足を止めた。
「後悔……してないよね」
「何を」
 三橋は振り返らない。
「オレは後悔して……ない」
「だから、何を」
「───」
「……三橋……?」



 月明かり。街灯の下。気の早い夏の虫がもう鳴いている。



 阿部のほうをまっすぐ見据えた三橋が、ゆっくりと右手を持ち上げて、阿部の左手を握った。阿部の手は冷たくて、三橋の手は───温かかった。
 反射的に振り払いそうになり、阿部は動揺した。体温の差に、───三橋との接触に。
「ずっと、忘れないで、いよう」
「……何」
「野球したこと」
「何だよ、突然」
「突然じゃないよ、オレ、ずっと伝えたかった……から」
 言うな。
 それを言ったら、だめだ。三橋、だめだ───
「阿部君」
 やめろ、という言葉はついに声にならなかった。三橋は透明な声音でさらりと告げた。
「オレ、阿部君が好き───だったよ。ずっと、忘れない」



 ざわざわと昏い木立が騒ぐ。風が出てきた。ひゅうと絡みついて悪戯に消える。繋いだままの手がゆっくりと離れる。ああ本当にこれが最後だ、と阿部は痛感した。この二年感じたことのない心の動き。それはふんわりと甘く阿部を締めつけた。もう痛いわけじゃない、そう気づいて寂寥感が胸を浸した。



 初めてくちづけた時にもう終わりの予感を感じ取っていた。その囁きに耳を貸さなければ良かったのかもしれない。幸せすぎるから、今この瞬間が信じられなかった。これ以上の幸福なんてない、そう思ってしまったら、あとはもう淋しいだけ。いくら抱き合ってもただ惻々と哀しみが足許からのぼってくる。これほどまでに近い距離でなぜか遠離る心。お互いの目蓋を塞ぎあい、何も見ないように出来ればよかった。囲ってしまって、そこで幸せを甘受すればよかった。───でも、出来なかった。阿部と三橋には、ただそれだけのことが出来なかった。
 ほんの少しでもここから不幸になることが許せなくて。


 背が伸びて、そのぶんだけ大人になるなんてことはなくて。
 プライオリティを野球にだけ置いておけば、悲しいことなんて何もなくて。
 二度と戻らない時間だと気づきもしなかった。腕の中をすりぬけていく砂のような流れに、逆らおうなんて思いもしなかった。巡る季節の中で。



「いろいろ───あったからな」
「うん」
「もう、夏なんだな」
「うん」
 ゆっくりと、ゆっくりとまた自転車を押して歩き出す。一歩一歩を惜しむように。
 淡い街燈の光が三橋の横顔を照らし、ゆっくりとその陰影が動く。川面にうつる揺らめきのようだ、と思った。
「三橋」
「なに」
 車輪を流す音だけが静かに響く。自分の声の低さ、その返答の優しさ、そんなものが胸を締めつけるように。
「ごめんな」
「突然何?」
 びっくりしたように三橋は目を瞠った。その視線の先にいる自分を自覚して阿部は、今また想い出になる瞬間なのだと強く悟った。
「いや、なんとなく」
「変な阿部君」
「───」
「え、何か言った?」
 もう時間は戻らない。この時間も、過ぎてしまえば二度とは返らない。ずっと、同じままでいられることなんてない。
 三橋の何を見ていたのだろう。三橋の何を知っていたのだろう。
 いい友人として接してきたつもりで、本当にそうなっていたんだろうか。投手と捕手として出逢い、その“契約”はもうすぐ終わりを告げる。

 ───本当に、終わる

「野球───やろうな」
「え? やってるじゃない、毎日」
「ま、そうなんだけど」
 阿部は迷って言葉を捜した。
「……でも、ずっと、ずっと野球やろうぜ。卒業しても、腹の出たおっさんになっても、爺さんになっても、絶対続けろよ、野球」
「え───どうしたの阿部君」
「らしくねェかな」
「ううん、嬉しいや」
 少し照れる阿部に三橋はにっこり笑った。わかっている。そんなことは、ただの夢だ。果たせない約束だ。きっとまた放物線を描くように、三橋と阿部の未来は遠離っていく。
 あの時、何もかも恋に溺れるのが怖かった。いつかは離れる予感の囁きに耳を貸してしまった。不安ばかり抱えてしまった。何もできない三橋に何でもしてやれると思っていた。自分だけが与えてやれると思いこんでいた。
 恋に殉じることが出来なかった。

 共有していたのは夢だけなのだと気づいてしまいそうだった、そしてその“夢”それさえもなくなる日はもう近い───



「オレ、阿部君がほんとに好きだったって言ったよね」
「……ああ」
「ずっと言えなかったんだよ。言えてよかった。勿論今でも好きだけど、もうあの時みたいな好き、じゃない。嫌いになったんじゃなくって……特別になった」
「特別───」
 うん、と三橋は頷いた。
「多分この先もずっと変わらないよ。阿部君がいてくれたから、いてくれただけで、オレはよかったんだ。だから……謝らないで」
 三橋は小さく息を吸いこんだ。
「ありがとう、阿部君」
 三橋の笑顔。
 こんなにも、まっすぐな想いに何を返せば、釣り合うのだろう。阿部には解らなかった。何も言えなかった。情けないほど想い出が溢れて、胸の奥底に沈んでいた記憶が奔流のように渦巻いて、阿部は途惑った。
 三橋と過ごした日々があまりにも鮮明だったことに。
「阿部君……?」
 立ち止まり、ゆっくりと俯いた阿部をそっと三橋が覗きこむ。堪え切れなかった。
 三橋が自転車のスタンドを立てて、そっと阿部の肩を抱いた。
「最後の夏だから、大事に───大事にしようね。勝とう、ね」
「───」
「ね」
「───ああ」

 心の奥底の一番底で何かが溶けていく。氷のような、澱のような、阿部をずっと縛っていた頑ななもの。ゆるゆると、柔らかに。それはけして不快なものではなかった。

 ───ありがとう
 小さく呟いた阿部に、三橋は微笑みで返した。
 雲のない夜天に淋しそうな月が、それでも優しく二人を照らし続けていた。




 きっと何度も夏はめぐる。
 そのひとつひとつの夏の色彩は全て違う。
 だけどこの夏は特別な夏だ。
 三橋のいる、最後の季節だ。





 夢中になって、泣いて、笑って、その日々その全てが遠く霞んでしまっても。
 思い出して微笑むことが出来るように。───









end.





25thOct.2007