その夢が最初に現れたのはいつのことだったか。
戀という名の病
Garako Inagaki Presents.
厭な夢を毎晩のように見る。だがうなされるほどではない。そこはかとなく憂鬱な気分が残るだけで、大して日常に影響は及ばない程度のものだ。
しかし、少しづつ沈殿する。
毒入りの甘い酒を毎日飲み続け、いつか訪れる死を緩やかに待つような夢だ。
日中、忘れ果てていても眠りに落ちる直前に浮かび上がる。そこでしか逢えない。
朝になれば忘れる。
「霧雨にうたれていても、濡れている感覚さえ失せて手足が冷えて初めて痛みを覚えるような。暗闇は嫌いではないけれど、そこで進むことは怖いこともある」
夢の中で阿部は何度も三橋を打った。爪をたて、噛みつき、そして優しく抱きしめた。現実の彼にはけしてできないことがらの全てをぶつけた。何もかもを受け入れて、まるで影のように微笑む彼に肉の匂いはない。はっきりと夢だと悟っているからこそできることもある。
だからまるで、逢瀬を繰り返すかのように何度も、何度も、睦言と言うにはあまりにも酷いことを際限なく続ける。
醒めれば無論、こちらがわの世界に速やかに戻り、少々のブルーな気分が漂っているだけだ。
学校に行けば、三橋の顔を見る。部活以外では接触がないことのほうが最近はずっと多い。
個人的な接触は言うに及ばずだ。『あの事』は全て夢だったかのように、遠く翳んで、それでも尚こころの一部にひっそりと陣取っている。きっと三橋もそうに違いないと阿部は踏んでいた。
恋心と言うにはあまりにも原始的な感情……否、もはや感傷だった。思いだそうと思えば鮮明に思い出せる部分と、完全に封印した部分の隙間に、いったいどんな暗闇、あるいは光があったのかはわからない。それが記憶と言うものなのだろう。
決定的に道を違えたとも思ってはいなかった。
「全ての道が『幸福』へ続いていればいいのに。その過程さえも、思い返すときには痛みを伴わないのはわかっているのに、その只中では振り向いてばかりだ」
夢での三橋が純粋で無機質であればあるほど、現実の彼に触れて感じる、あくまで人間としての多面性、多様性に違和感が次第に湧きあがる。肉の匂いを嗅ぎつけているのだ。だが自覚するまでには至らない。
ただ、ほんの少し……少しだけ、二重うつしになった姿を見るように思えるだけのことだ。
彼の本質が、もしくは表層が、乖離して夢に現れるわけでもあるまいが。
夢での三橋はいっそ面白みがないほどに従順で、なお汚されない。のめりこめばのめりこむほど、奥深く果ての知れない深淵が口をあけているような印象だ。飽くることなき欲望をそのまま飲みこみ、そして何倍にも増幅し戻してよこす。その性質は単一で、深み以外に謎の部分はない。
だが、現実の三橋は当たり前のことだが肉体を持ち、魂を持つ「人間」だから阿部の思うような行動ばかりをとるはずもないのだ。ひりつくような痛みが胸の底に溜まる。自覚の瞬間は近い。
「迷うばかりで、見えたと思った道は幻影のようにふわふわと頼りない。それでも道は道…足を運んでいる限りは、何処かへ辿り着くのだろうか」
目線があった時に意思をこめる。通じたかどうかはわからない、だが三橋は不審な顔さえしなかった。瞬間正気に戻り、どうやってこのくだらない空気を払拭しようかとややうろたえる。救ってくれたのは『現実の』三橋の方だった。
阿部のほうへ造作なく歩みより、すれ違いざま幽かに微笑む。
それだけで、何事もなかったかのように振舞えた。
つまり三橋のほうでも幾許かの精神的軋轢を抱えているということだ、それが何であるか窺い知れないとしても。
上目遣いの怯えるような睛。口許はうすく笑みの形にひきしぼられている。どこかで見覚えがあるように思った。
……どこだった?
痛みが自覚を持った瞬間、それはもう耐えがたいほどの苦痛になる。この苦しみから逃れられるならば悪魔に魂を売り渡してもいいのだ。だがそんな悪魔が現れるはずもなく、募るそれを内側で抱え、毎日を過ごすことに専念するしかない。部活に没頭できるのはこんな時に損で、得だ。
夢は加速度をつけて鮮明になる。
色を取り戻し、眸と脳裏に鮮明に焼きつき、一瞬の隙を突いて蘇る。甘美な誘惑だ。
だんだんとあわい目が曖昧になる。この世界が色彩を少しづつ喪い、モノクロームの現実が阿部をやんわりと取り囲む。夢は激しさを増す。うたかただとわかっていても、沢山の血を撒き散らし、横たわる三橋の姿を何度も見るのは恐ろしくもあり、またそれを心底望む自分もいて戦慄する。
「自分自身にまでウソをついて、偽善だらけの言葉を並べていたことがわかって、なんて姑息な欺瞞なんだろうと思った。自分を完全に騙せたらよかった」
あっと言う間だった、それがもう夢なのか現なのか判断のないまま阿部は三橋に仕掛けていた。何かのスイッチが入ってしまったかのように、憶えのあるままにめちゃくちゃに、ただ思いのままに三橋に対して、夢の三橋を現の三橋に求めた。
言うなれば暴力による蹂躙だ。だが───
三橋は抗わなかった。そう、まるで夢の中にあらわれる三橋のようにだ。不審に思う間もなく、阿部のはそれに溺れてゆく。違和感がないことが違和感なのに気づかなかったのだ。
同じ手順で、同じように弄ぶ。
三橋の双眸、光を湛えて無言で語る睛。
苦痛の声があがるたびに体温の沸騰を感じる。反比例して脳細胞はつめたく凍りつき、活動を拒否しだす。
どこかで声がする。二人しかいないはずの、埃臭い部室で、無音の底から声がする。
ガクリと首を折り、びくりとも動かず───しかし笑みさえ浮かべた三橋の真白い相貌。不快な塊が歓喜の聲で膨れ上がる。
「オレノモノニ……ナッタ」
それが自分の声だと気づいた瞬間、阿部は絶叫した。
end.
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