いつから───
 いったいいつから、手を握らなくなったんだっけ。



 あの頃は手でコンディションをはかるのが当たり前だった。リアクションじゃ読めないから、手を握った。そうすればたいがいわかった。最近はもう、三橋がオレに対して挙動不審になることも少ないから、その必要がなくなっただけ。
 ただそれだけのこと。




まっすぐ
Garako Inagaki Presents.





 キスするときには目を閉じろと教えたのは何回目だったっけ。阿部は溜息をついた。こいつときたら、ぐりぐりの目をさらに瞠いてキスする癖が全然抜けない。かといってこっちも目をあけてたらマヌケすぎて笑ってしまう。
「なあ、目は閉じろって言ったよな。いや今閉じても遅いんだけど」
「あ、ご、ごめん」
「いやまあ……いいんだけど」
 本当はよくないけど。どうも最近は甘やかしてしまう。まあ、そのほうが三橋にとってもオレにとってもいいことなんだろう、なんて言い訳をくっつけながら。
「あべくん」
「ん、なんだ」
「キスって、いい、ね」
「うん」
「そうだよね! オレ、知らなかった、から」
「キスよりもっと気持ちいいこと知ってるだろ」
 ちょっと意地悪をしてみたくなる。泣かせない程度のコツはもう把握したから。
「え?」
 だめだ、全然解ってない。
「試合勝った時はもっと気持ちいいだろ?」
「あ、あ、うん、でも」
 珍しく逆らった。阿部は何を言うのかとまじまじと三橋を見る。
「キスは、また別、だと……思う」
 ぼっ。
 そんな音がしそうな勢いで、二人は同時に真っ赤になった。それからくすくす笑いあって、またそっとキスをした、今度こそちゃんと睫毛を伏せて。



 キスした後、三橋はいつも不思議な顔をする。どうしてこんなことをするのかな、とでも言いたげな顔だ。阿部にも正直どうして“コンナコト”をしているのかわからない。だけど、そうなっちゃったものはしょうがない。
 三橋はいつもぎりぎりに張りつめた琴線みたいな奴だ。試合になると人が変わる。絶対誰にもマウンドを譲らない。そのかわりスイッチが切れると恐ろしく無防備になる。世話を焼くのが最初のうちは億劫で面倒で頭も痛かったが、それは三橋の気持ちがさっぱりわからなかったからで、今は思ったことを言ってもただ「阿部くんが怒っている」と斜めに受け取り「ごめんなさい」と意味不明に謝って怒らせることも減った。



 だから手を握る必要もなくなったのだ。
 そのかわり、キスするようになった。三橋が落ち込んだ時、阿部が怒りそうになった時、二人は自然にキスする。三橋は時々目をあけたままにして怒られるけれど、それも笑って済ませられる。ただ少し照れくさいだけだ。キスしてる最中の顔なんて間抜け以外の何でもない。
 好きだからキスするのか。
 キスするから好きなのか。
 好きだなんてことは最初から解ってる。自分でも言ったし、三橋のほうでも言ってきた。言うのはいいけど言われるのは微妙、とか強がったけれど、今は三橋が言葉にしてくることの希少さを理解しているから、それがどれだけ重要なことなのかちゃんと知っている。高校野球の正バッテリーは夫婦みたいなものだから、目を見ただけで相手の気持ちが読めるようになったら一人前だ。


 ───あの頃はそんなこと、出来るなんて思いもしなかった。
 ───榛名とバッテリー組んでた頃は。


 今の三橋を榛名と較べる残酷さを阿部は無意識に自覚している。三橋が榛名を尊敬していて、また劣等感を抱いているとも思っている。しかし阿部は、三橋の案外強い独占欲を知らない。三橋の中で阿部の存在は相当な大きさででんと居座っていることを知らない。
 ともすればそれは、三橋が阿部を“投手であるために利用している”ことと表裏一体だから、知らないほうが幸せなこともある。
 時折顔を出す三橋の独占欲(それ)は、阿部を途惑わせる。そんなこと思わなくてもいいのに、と苛つくこともある。つまり阿部と三橋は本当の意味ではまだ、“理解(わか)ってない”のだった。



「あ、べくん」
「ん?」
「さ……さ……あ、なんでもな……」
「なんでもないじゃないだろう、言いかけたことは言う。そうしないとわからない」
「最、近」
「最近、なに」
「キ、スばっか、してる……よね」
「……バカ」
 三橋の声音に淋しさが滲んだのに阿部は気づいた。こいつ、まだ何か言いたいことがある。
「まだ言うことあるだろ。言えよ」
「あ、う」
「言え」
「あの……その、手……」
「て?」
「手が……最初に……その……」
 あの時のことだ。モモカンに嗾されて、思わず手を握って「オレはお前が好きだよ」なんて言ってしまった時のことを言ってるんだ。ますます疑問が深まる。それがどうしたって?
「あの時のこと?」
 こくこく、と三橋が肯く。
 やっぱり阿部も三橋も全然、解ってない。



 いくら好きだって言ってもお互いの温度差に気づいていない。その耳障りのいい言葉を素直に信じてしまっている。ただキスを繰り返すことで、逆に見えなくなってしまっているもの、そんなものがあるだなんて想像だにしていない。
 まっすぐな想い。
 あまりにもまっすぐ過ぎて、恋にも友情にもならない不安定な感情。



 ただ、もう一度手をつなげば、わかることがあるかもしれない、なんて。
 目を見れば全部わかるなんて錯覚。
 恋になるには臆病すぎる、なんとなくぎこちなく、いつまでも無器用に唇を重ねているだけの二人。









end.





14thJune.2007