歩み寄ろうと思ったんだ。
 オレなりに。




笑顔のひと
Garako Inagaki Presents.





「今日お前ンち泊まりに行ってもいいか。明日土曜で休みだし」
「え?」
 言われた三橋は頭にハテナマークを出している。阿部としては言葉通りに受け取ってくれればよかったのだけど、もう少し説明が必要なようだ。いつも少し雑すぎるかも、と継ぎ足す。
「えーと、話したいことがある」
「と、泊まり?」
「そう」
「うん……いい、よ」
 顔に“怒られる”と書いてある。そうじゃないんだけどなあ、と見えない溜息をついた。見せるとまた余計な想像をして落ちこむだろうから。
「怒ったりするんじゃねェよ」
「そ、そっか」
 露骨に安心した顔をする。こいつオレのこと何だと思ってるんだ。
「親御さんの都合が悪ければ明日とか別の日でもいいけど早いほうがいい」
「だいじょぶ、だと思う」
「一応確認よろしく」
 朝のうちに言っておくのは礼儀だと阿部は考えている。三橋と一晩じっくり語ろう、そんなことを考えたのは今日が初めてじゃない。花井に指摘されるまでもなく、眉間の皺が増えたなと自分で感じたからだ。勿論皺のひとつひとつの原因は三橋だ。このままこの皺が固定されてしまう前に、もうちょっと距離をつめておきたい。しかし練習中じゃ限度があるし、それ以外の時はまとまった時間を取るのが難しい。いろいろ考えた末に「泊まる」という案を採用したのだ。問題は三橋がちゃんと話して───そう、文字通り、田島に話すようにというのは無理でも、会話のキャッチボールくらい出来るようにならないと。
 食い物の話を聞いただけで“ごめんなさい”なんていうまったく成立しない間柄は非常に疲れる。
「おかあさん、いいって」
「そうか、おかまいなくって伝えて」
「う、うん」



 おかまいなくどころか、夕食には寿司が出てきた。阿部は大いに恐縮したが、食欲には勝てない。ありがたく戴いて、客用布団を抱えて三橋の部屋まであがっていった。食事の間中三橋は楽しいのか緊張しているのかよくわからない顔をしていた。やっぱりグラウンドの外になると三橋(コイツ)の考えていることは全然読めない。
 三橋の母も、遅れて帰宅した父も突然の訪問に厭な顔ひとつせず阿部を歓待してくれた。いい家族だな、と思う。駆け落ちだと聞いたけど、それだけの強い結びつきから三橋が生まれたのだとふと実感する。三橋は人を嫌わない。両親の育て方が良かったのだろう。


「狭くなるかも、だけど」
「ああいいよ、ちょっとそっち手伝って」
「うん」
 よいしょとシーツを二人がかりでかける。寝支度はととのった。眠くなったらいつでも寝ればいい。三橋はもう眠そうな顔をしているけど、ここで寝たら何しに来たのかわからない。
「……」
 どう切り出していいのかいきなり困ってしまった。
 三橋は自分のベッドの上でもう正座している。せめてその正座はやめて欲しい。
「ちょっと、正座はよせよ。怒るんじゃないって言ったろ」
「う、うん」
 ごそごそ遠慮がちに膝を崩す。自分の家なんだからもう少し寛いでもいいのに。
「気楽になんない? もうちょっと」
 思いついて手をのばし、握ってみた。
 ───冷たい。
 またか、と顔に出てしまった。三橋がそれを察して、いつもの科白を言う。
「ごめ、ん……」
「冷えてる。オレといるとそんなに緊張するの?」
「き、緊張っていうか」
「なあ、三橋」
「?」
「オレらもうちょっと普通に喋れない? いや、オレいつも怒鳴ってばっかりだし、言葉足りないし雑かもしれないけど、もうちょっとまともに話してくれないとわかんねェんだよな」
「ごめ」
 まで言いかけたところを阿部は制した。
「今日はごめん禁止」
「う……」
 手はまだ冷たいままだ。
「なんで、阿部君はオレと話そうとする……の」
 ようやく質問らしいものが出た、と思ったらこんな言葉だ。阿部は眉間に寄りそうになる皺を懸命に堪えた。
「そりゃ、バッテリーだから。オレはお前の女房役なんだぜ? 忘れたのかよ」
「忘れて……ない。でも、オレって、つまんない奴、だ……から」
「つまんない奴かどうかはオレが決めることだ」
「う……」
 また言葉に詰まってしまった。変な沈黙を避けたくて、阿部はまた言葉を紡ぐ。
「お前は面白い───いや、愉快って意味じゃなく、すげェ興味深い。オレにとって投手ってのは扱いにくい生き物だけど、魅力のある生き物だと思う。捕手は一人じゃやれないし。だから三橋ともちゃんと喋りたい。それじゃだめなのか」
「え?」
 予想外のことを言われた、と三橋は鳩豆な表情をする。目を大きく瞠いて、まるで子供のような顔になる。
「阿部君、オレ、面白い?」
「ああ。たとえば───」
 訊いてみたいことはたくさんある。中学以前の三橋がどういう野球をやっていたのか、とか。どうしてそんなに投手がいいのか、とか、投球指導を受けなかったのはなぜか、とか、変化球は独学なのか、とか。
 野球の話題なら話すだろう。
「たとえば、オレのことどう思ってるのか、とか」
 口から出たのは違った質問だった。



「阿部君は凄いよ」
 即答が戻ってきた。
「いや……凄いって言われても……」
 自分の発した言葉に阿部は少なからず動揺した。なんで今こんなことをオレは言ったんだ?
「凄い。だって、オレの投げる球で三振いっぱい取れる」
 ───手が温まってきている。
「西浦で、阿部君がキャッチャーで、オレ、ほんとに……よかった。ほんとだよ」
 まだ四月になる前、マウンドの土を盛りながらどんな投手がここに立つのだろうといろいろ想像して楽しみにしていた。そのことをふと思い出す。まさかここまで癖のある性格の投手が来るとは思わなかったな、と阿部は思わず苦笑する。
「西浦か。いいチームだよな」
 三橋がぶんぶん首を振る。
「野球、やめなくて───よかった」
 思いがけず重たい声音で三橋が呟いた。



「ほんとにやめようとしてたの」
「うん」
「なんで」
「だってオレ、ダメピー……だから」
「やめなかった」
「うん」
「やめらんなかった」
「……うん」
「それからもうダメピーじゃないだろ」
「そ、そうか……な」
「オレが言ったろ、お前をホントのエースにしてやるって」
「う、ん……」
「自信持てよ」
「オレ、は、阿部君の、指示通りに投げるだけ……だ」
「それでも」
 力をこめる。
「投げてるのはお前だし、打たれるのもお前だ」
「マウンドで……」
「ん?」
「マウンドでは、かくれるところなんかないって」
「ああ」
「阿部君が、教えて……くれた」
 そんなことも言った。投手はいつもあの山の上で孤独だ。西浦のように替わりがきかない場合は特に。
「オレはお前に───壊れて欲しくない」
「え?」
「無理したり、無茶したり。そういうのされると、オレが困る。オレがだ。エースは壊れたらいけない。その時点でエース失格になる」
「それはいや、だ」
 この負けん気だけは評価出来る。
「だからお前は左打者なんだから右肘注意しろっていつも言ってんの。デッドボールを食らうのも無理な塁走もやめてくれ。寿命が縮む。オレはお前で勝っていきたいんだから」
「オレも、勝ち、たいよ……」
「あと自己管理。体重と睡眠」
「う、ん」
 また説教臭くなってる、と阿部は気づいて声の調子を落とした。
「つまり心配だってこと。わかってくれた?」
「わかった……と、思う」
「思うじゃねェ……わかれ」
「うん」
 三橋はしっかり肯いた。どこまで理解しているかは怪しいけれど。



 つないだままの手はいつのまにかほっこりしていた。ゆっくりと指をほどく。三橋が大きく息をついた。
「阿部君に……」
「んあ」
「怒鳴られないのって、なんか」
「うっ」
「なんか、いいなぁ」
 そんなに怒鳴ってたかなと阿部は少し不満に思う。
「必要があれば怒鳴る」
「ひぇ」
「だから青くなるな」
「だ、だって」
「必要があれば、だ。なければ怒鳴らない。特に試合中はオレを怒らせるな」
「ど、努力……します……」
「オレも出来るだけ怒鳴らないように努力するから」
「ほ、ほんと?」
「バッテリーの片方だけが努力するのは、バランスわりぃだろ」
「阿部君……いい人だぁ……」
 どうしてそうなるかな、と阿部は思わず脱力した。今度こそ眉間の皺はくっきりしてしまった。



 いい人でいたいわけじゃないんだ。信頼と責任をきちんと努力という名前にしてはっきりさせたいだけなんだ。三橋にはそれが通じない。怒鳴れば怯えるし、そうでなければ油断する。グラウンドではそうでもないのに、こういう場面になるとそれが顕著だ。マウンドに立たせておけばもう少しまともなコミュニケーションが取れるだろうけれど、二十四時間立たせておくわけにもいかないから、こうやって阿部のほうから歩み寄っている。三橋が“本当の”笑顔で接してくる日は来るのだろうか。来ない、という想像はあまりにも惨い。


 ───それに淋しい。


 せっかく何かの縁でこんなにいいバッテリーを組んでいるのだから、笑っていて欲しい。阿部自身も仏頂面だったり怒鳴ったり髪の毛を逆立ててたりしてばかりなのは疲れる。


 ───オレが笑顔で話さないから、三橋(コイツ)も笑顔になれないのかも


 それは案外当たっているように思った。よし、と阿部は決意する。
「三橋、オレの目ェ見て」
「う?」
「見て」
「う、うん」
 膝を乗り出してみた。三橋が思わず身体を引く。
「逃げるな、今から笑うから」
「え?」
「オレが今から笑う。だからお前も笑え」
「い、意味がよく」
「いーから」
 もう一歩。ベッドの上の三橋を見上げる形になった。同時に三橋も縁まで近づいて、思ったよりずっと近い位置に顔と顔が接近した。
 不意に照れくさくなったが、もう後には引けない。まんまるの瞳がこちらを“懸命に”見ている。
 笑おうとした。
 が、うまくいかなかった。どうしても駄目だった。
 三橋は不思議そうに首を傾げる。阿部は焦って、みるみる顔に血がのぼるのを感じた。
「阿部君……?」
 くそ、うまくいかない。三橋の猫のような双眸がじっとみつめている。ふわふわの髪の毛がすぐそばで揺れている。大きめのTシャツの袖口からのびた細い腕が、ベッドの縁を掴んでいる。そんなものに惑わされたような気がした。
「───」
「───」
 結局阿部は笑えず、そのまま二人の間に静寂(しじま)が落ちた。



 先に目を逸らしたのは阿部のほうだった。横顔を三橋は生真面目にみつめ続けている。視線に耐えられなくなった阿部は俯き、ついに折れた。
「ごめん。笑えねェみたいだ」
「あれ?」
「なんでだろう……」
「無理、しなくっても」
「オレは」
 悔しいのと解らないのとでないまぜになって、自棄気味に阿部は呟いた。
「お前の笑顔が見たかったんだ」
「え、と」
「だってお前いつも泣いたりキョドってばっかりだから。笑って欲しかったんだ」
「阿部君?」
「ごめん。困らせただけだな」
「えっと……」
 感情内に情けない成分がどんどん増殖して阿部は逃げ出したくなった。そのとき、指にふわりと温かいものが触れた。
 三橋が、阿部の手をそっと握っていた。
 そして、無器用に幽かに、でも間違いなく微笑んだ───ような気がした。



 三橋は先に眠ってしまった。阿部はおやすみを言った後も、三橋のあの、笑顔とも呼べないような表情が焼きついて、眠ることが出来なかった。薄明かりの中、浮かぶ三橋の輪郭。規則正しい寝息が聞こえてくる。輾転反側しながら阿部は思う。
 今度こそ、笑いあえる筈。
 三橋がオレのために精一杯笑ってくれた。
 ならオレも、三橋に精一杯の笑顔を返そう───出来るかどうかわからないけど、やってみよう。



 明日、おはようって言う時に。









end.





18thJune.2007