「泉。なんでそんなにオレのこと構うんだよ」
「構ってなんかいねェ」
「だったら、───なんでそんな、泣きそうな顔すんの」

 浜田に野球をやって欲しかったんだ。




信頼
Garako Inagaki Presents.





 四月、見覚えのある顔があって本当に驚いた。当の本人は「でへへ、同学年だなよろしく」なんて気楽に言うものだから腹が立って仕方なかった。留年の理由なんか自然に耳に入ってくる。だからって、同じ学年で一年過ごすのか。泉は複雑な気持ちになって溜息をついた。
 救いなのは同じ野球部の田島と三橋が同級なことで、これが浜田とだけだったら居心地の悪さに耐えられなかったかもしれない。
 浜田が一年以上野球に触れていないことは知っていた。しかし、浜田の野球を愛する心は知っている。かつて浜田は投手で、中学まではそれでも野球をやっていた。肘を壊してまで野球を続けるなんて普通は出来ない。
 でも浜田には、高校に入って野球を続けられない理由がある。
 それはわかってる。
 でも、苛々する。なんであんなに野球を好きな男がグラウンドの外にいるのか、と。



 高校入学の新学期、クラス分けが決まって少々緊張しながら教室に入ると一年ぶりの浜田の顔がこちらを向いた。
「泉! 泉じゃねーか! 久しぶりだな! 相変わらずちっちぇーな」
「うっせえ! そっちが伸びすぎなんですよ!」
 へへ、と照れたように笑う。変わらない笑顔だ。まさか同じクラスになるなんて。
「クラスメイトなんだから敬語はやめろよ、もう先輩後輩じゃないぜ」
「じゃ、遠慮なく。……野球、やってないんだって?」
「ま、ね」
「なんでだよ。中学まではやってただろ。病院行けば今だって」
「硬球、怖いんだよね〜」
「───」
「怖い顔するなよ」
「なんで野球やんねんだよ」
「ま、いろいろ事情あるんだよね。オレ、野球部入るとメーワクかけちゃうからさ。みんなに」
 そんなの、と言いかけて泉は口を噤んだ。確かに浜田の抱えている負の要素は大きい。野球部どころでなくなっても、しょうがない。  わかってはいても、悔しかった。
 あんた、あんなに楽しそうに野球してたじゃん。
 言い出せなかった。



「応援団とか本気かよ」
「あー、うん、オレに出来るのそんくらいしかねェし」
 放課後、人もまばらな教室で作りかけの横断幕に針を通している浜田は真剣そのものだ。泉はじっとそれを眺めていた。練習に行かなければいけないのはわかっていたが、浜田の指先から目が離せなかった。田島と三橋にはトイレ寄って行くからと嘘をついて先に行って貰った。
「美人監督にあんなふうに頼まれちゃーやる気も出るってもんよ」
「───」
「こう見えてオレ器用なんだぜ。出来上がり楽しみにしてろよ」
「───」
 そこで浜田はようやく泉の不機嫌な顔に気づいた。
「な。何。オレなんか変なこと言った? 援団とかメーワク……」
「ちげェっ」
「なんだ、違うの? じゃなんでそんなツラしてんのよ」
「浜田が───おまえが」
「オレが?」
 泉はどうしても素直に言うことが出来ない。言いたいことは再会した時から山になって積み上がっている。増えるばかりのそれは浜田が応援団を申し出た時に、ぎりぎり崩れそうになっていた。素直になれないのは性分だ。時々田島や三橋が羨ましくなる。彼等は思ったことは口にし、また顔に出し、周囲の人間を不安にさせない。“わかりやすい”のは美点だと思う泉は、自分がひねていると感じることもある。だからと言って今更変えられるものではないけれど。
 浜田と野球がしたかったんだ。
 中学の時みたいに。
 それはしこりになって泉の心の奥底で塊になっている。どれだけ壊そうとしても無理なもの。浜田が野球部に入れない理由を知っていても、どうしても消えないもの。
 野球、しようぜ。
 そのひとことが言えたら。中学までの浜田があまりにもキラキラしていて、辛い練習にも愚痴ひとつ言わずに笑っていたから。その笑顔がもう見られないことが、哀しかった。
 今の浜田は、もう昔の浜田じゃない。野球をしない浜田だ。グラウンドの外にいるのだ。───いくら応援団と言っても、部外者には変わりない。
 一緒に───



「うわっ! 泉、なんでだ! 突然泣くな!!!!」
 ぼろと涙がこぼれた。言葉にならなかった想いがまるで勝手に涙腺から零れたようだった。慌てた浜田が裁縫道具を放り出し泉の手を引っ張って、人気のない非常階段まで引きずっていく。放課後の喧噪もここまでは届いてこない。泉の嗚咽だけが低く響く。
 なんで泣いたりしたんだよ畜生。
 無様なところを見せてしまった自分に腹が立つ。腹が立てばたつほど、涙はどんどん溢れた。浜田は遠慮がちにその肩に手を置いた。
「い、泉。わかんないけど、とにかく泣くなって」
「う、うっせェ……おまえにオレの何がわか、るんだよっ」
 全然わからない、と途方に暮れた浜田の顔を見るとますます苛立つ。
「なんでもねェから。オレ、練習行くな」
「待てよ、ほっとけねーよ! 待てったら!」
 逃げようとした泉の腕を強い力で引っ張り、浜田は勢い余って尻餅をついた。そこにバランスを崩した泉が倒れこんでくる。階段を背にしたまま、泉の軽い身体がもたれかかってきた。その軽さに浜田はどきりとする。
 二人は自然に至近距離で見つめ合う恰好になった。
「───」
「───」
 目が逸らせない。涙は時折目の縁から流れる。浜田は困ったような、それでも真面目な顔をした。
「言いたいこと、あんだろ。わかってたよオレだって。四月からおまえがオレを見る時、変な顔してたから。でも言わないから、それでいいんだと思ってた。でも、こうなっちゃったら、聞くから。言ってくれよ。頼むから。泣いたりするくらいなら、吐いちまってくれ」
 白球を追ってグラウンドを駆けていく浜田の背中の記憶。それは空に溶けて消えてしまった。もう二度と戻らない。それが実感として迫ってきた。もう、戻らない───
「野球部」
「ん……」
「未練、ないのかよ」
「───」
「西浦に入った理由はおまえがいたからだって、そんなんじゃないけど」
「───」
「なんで病院行かないんだよ。あんなに野球好きなくせに。部員になれなくても野球は出来るだろ」
「だって面倒く───」
「違うだろ!」
 茶化そうとした浜田を遮って泉は叫んだ。
「背負ってるものが大きすぎて出来ないって、それはわかってる。オレだって……無理にやって欲しいなんて言えない。でも、オレは」
「───」
「オレは、またおまえと野球が出来るって、思ってたんだ───どんな形でも」
「泉」
 今度こそ泉は俯いて、拳で目を拭った。小さな肩が震えている。これだけのことを言うのに、泉の性格ではどれだけの覚悟が言ったのだろう。浜田は何度もその肩に手を置こうとし、そして結局、ぎゅうとその背中を抱きしめた。
「───ごめんな」
「謝んなバカ」
「オレ、留年なんてバカなことしちまったけど、泉と同じクラスになれて、野球部員が三人もいて、応援団もやらせてもらえて、ほんとに……ほんとに、幸せなんだよ」
「うそつくな」
「本当」
 浜田はいつも軽いように見えて、本当に他人に心を開くことはほとんどない。それは浜田のこの一年に起きた、重たい過去のせいだ。でも今は泉に真摯に向き合っている。
「おまえ、信じられねーよ。なんでそんなにへらへら笑ってられんだよ」
「野球が、好きだからだよ」
 腕の中の泉が一瞬、身を竦めた。
「プレイヤーとして野球をするのはダメだってわかった時、もうどうしていいかわからなかったんだぜ。でも、おまえたちが来た。オレにも出来ること、あるじゃんって」
「そんなことより肘なおせよ!」
「……できない。もうオレは野球はやらないんだ」
 はっきりした決意の口調。泉はまた、浜田の闇の深さを知って淋しい気持ちでいっぱいになった。
「だから泉がそんな風に考えてたなんて、オレ、思いもしなくって……傷つけたかな、ごめんな」
「謝るなバカ!」
 よしよし、と浜田は泉の背中をぽんぽんと叩き続けた。泉は不本意に思いながらもその心地よさに身を任せていた。



 この優しくて切ない時間を、忘れないようにしよう、と思った。
 浜田は、きちんと野球のことを自分の中で決着をつけている。
 ならば、泉は精一杯、その応援(こと)に応えるだけだ。

 打っても、守っても、そこに浜田はいる。必ずいる。言わなくても、言葉にしなくても、ちゃんと見ていてくれる。全力で信頼している。だから。



 ───もう言葉はいらない。









end.





15thJuly.2007