だからなんでこんなところにいるんだよ。
 仰天しすぎて無表情になった二人は、どうしようもなくただそのまま見詰めあってしまった。




大ピンチ
Garako Inagaki Presents.





 先にこのとんでもない事態を打開しようとしたのは花井のほうだった。
「お……おま」
「あっ、今いいとこだったのに」
 見てはいけないものを見てしまった花井は動揺を押し隠すこともできず、ただ踵を返すことが精一杯。
「じゃじゃじゃじゃじゃじゃ邪魔したな! それじゃ!」
「あっ待て花井! おまえ、ちょっと待てったら!」
 待ちたくない。死んでも待ちたくない。
「やっぱさー、ネタがないと難しいんだよな! おまえ、手伝え」



 ゴールデンウィークの合宿も三日目になって、練習とトレーニング、朝昼晩の炊事や家事も自分達で十分こなせるようになっている。初日、バスの中で田島が叫んだ「ちんこハレツする」という科白を正直花井は全く気にもとめていなかった。練習すればするほど、傍で見ていれば見ているほど、田島の野球センスに嫉妬しそうな自分を制御するので精一杯だったからだ。

 ───才能の差ってやつかよ

 それでも夜は眠って、朝はすっきり起きる。それを破ってしまったこの夜が致命的だった。



 ふと深夜に覚醒して喉の渇きを覚えた花井は水を飲みに土間へ降りた。ついでに尿意も感じたから、ただそれだけのことでトイレのドアを半分眠りながら何気なく開けた。
 そしたらそこに田島がいた。しかも自慰行為の真っ最中だった。
 こういうときの気まずさはちょっと言葉に出来ない。洋式便器にちょこんと腰掛けた田島が、まさに───しているところを真正面から見てしまった花井は頭が真っ白になった。田島は驚きはしたものの、照れることさえもせずに言うわけだ。
「だってよーもう三日だぜ? 無理無理絶対無理。ほんとマジちんこハレツする」
「ハレツとか……言うな……」
 ようやくそれだけ言うことが出来た。フツーこういうとこ見られたら恥ずかしがるとか怒るとか、そういう風になるものじゃないのか? もし自分だったら羞恥で死にたくなると思う。田島はいったいどういう奴なんだ。
「かわりに花井のもしてやろーか」
 もう、することで話が進んでいる。花井は正気を取り戻すべく今までにない努力を試みた。
「ちょっと待った、手伝うってどういうこと」
「だから、手伝ってくれればいんだよ」
「だから、どうやって」
 うーん、と下半身丸出しのまま田島が腕を組んだ。なんとも情けない格好なのに、本人はまるで気にしていない。花井は宇宙人を見るような気持ちになった。
「……しごいて?」
「いやです」
「そんなこと言わずに〜。だって花井のせいじゃん! 花井がドア開けたりしなきゃーオレだってすっきりしてちゃんと布団に戻ったぜ」
「おまえが鍵かけずにトイレにこもったりするからだろ!」
「あー焦って忘れてた」
 こいつ、本当に何者なんだろう。名門シニアの四番で、バッティングの天才で、生まれながらの野球少年で───そして花井にこんな無理難題を突きつけてくる。
 長男気質の花井は基本的に頼まれごとを断れない。しかし、これを了承してしまったら、本当に、なんていうのか、踏み越えたらいけない一線をあっさり飛びこえてしまうと思う。さすがに他人の持ち物をしごいて以下略なんて───
「はーなーいー。オレのちんこがバクハツしたらおまえのせいだぞ」
「だから! オレのせいにすんな!」
「だってもう我慢できねんだもん。ネタも持参できなかったしさー、ちょうど今結構苦労してたんだよ。想像っていうか妄想だけだと限界があるな」
 納得しそうになった花井はまだ自分の頭が半分眠っているのだと必死で思うことにした。
「……あ、これは夢なんですね、そうなんですね」
「花井何言ってんの」
「夢なら醒めればいいですね。それじゃオレは現実に帰る」
「待てったら花井!!!!!」

 思わぬ大声で田島が叫んだ。



 最後まで言わせないように花井は田島の口をガッと押さえた。田島はまだ何かもごもご言っている。周囲を窺うとしんとして、誰も起きてきたような気配はない。安堵すると同時に情けなくなった。
「てめっ、いい加減にしろよ。誰か起きてきたらどーすんだよ」
「だって花井がー」
「声は小さくしろ! 頼むから」
「じゃあ、してくれよーほら、こんなに縮んじゃって可哀想」
「指さすな!」
「花井はオナニーしなくってへーきなのかよ」
「ああ、平気だね」
 本当はそうでもないけれど、こんなとこで処理するほど非常識じゃない。仮にするんだったらちゃんと鍵もかける。
「うそつけ」
「うそじゃない」
「うそだッ」
「うそじゃねえって!」
 また声が大きくなってしまい、花井はもう絶望に近い気分になってきた。どうやったらこの場から逃げることが出来るのか。
「とにかくおまえは一人でどうにかしろ、オレは見なかったことにするから」
「えーだから、一人だとうまくいかないから頼んでるんじゃん。オレばっかりじゃ悪いから花井のもするって言ってんじゃん。取引だよ取引。ティッシュだってそこにトレペあるし」
 がくー、と花井は首を折った。それを了承の合図と勘違いしたのか、田島が全開の笑顔で花井の手を取って引っ張る。振り払う気力も残っていなかった。
「ヒトにやってもらうのってきもちいーらしいじゃん?」



 それにしても田島の思考回路はわけがわからない。普通の人間ならこんなところを目撃されたら、そっと何も言わずに去ってもらうか、逆に一言だけフォローしてくれたほうがいいに決まってる。それがどうして「おまえのせいだから手伝え」になるのか。飽くなき性的好奇心のせいだろうか。田島がそういう奴なのだと花井は薄々理解しはじめた。まだチーム組んで一ヶ月、クラスが違う奴も多いし部員の性格(キャラクター)なんて全然把握しきれていない。野球でなら最高に信頼できる筈の田島が実はこんな奴だったなんて、と花井は泣きそうになった。なんて不運なオレ。なんでこんな時にトイレになんか行きたくなったんだろう。あっちで寝ている連中とオレの差って、どこにあるんだろう。田島は花井以外の人間に見つかったとしても、同じようなことを言うのだろうか。また思考が堂々巡りになってきた。その間に、田島が花井の手を導いて、そっと握らせてしまった。
「うはっ、あったけー。花井、手ェでけーな」
 はっと一瞬正気に戻った花井は既に自分の右手が田島のものを手にしていることに驚愕した。狭い個室で二人の距離もやたらと近い。田島の無邪気な顔がほとんど目の前にある。
 諦めるしかない。きっとこれは悪い夢だ。
 この難局さえ乗り切ればきっと目が醒める。つまり一発抜いてしまえば田島の気も済むだろう。
 手のなかで硬度を増していく田島のもの。
「触られるって新鮮だなー。早くシゴいてよ」
「……」
「花井」
 花井は完全降伏した。こいつには逆らえない。
「ちょっと体勢変えさせろ、これじゃやりにくい」
「えっやってくれんの! ラッキー!」
 ラッキーじゃねえ。自分でそう仕向けたくせに。田島は無邪気に喜んでいる。本当にまったく理解の範疇をこえている。
「鍵、かけっからな」
「あーそうだな」
「そんでお前、立って後ろ向け。そのほうがやりやすい」
「オッケー」
 後ろからにすれば、直接見ないで済むし自分の時とたいして変わらない。うん、変わらないんだ。花井は必死に自分に言い聞かせた。
 背後から抱くようにすると田島の小柄な身体がすっぽりと収まって密着する。その細さにどきんとして花井は妙な気分になった。相手は男だぞ。
 腕をまわして下半身にのばしそっと握った。軽く上下に動かす。すぐに大きくなって、田島の「バクハツする」がそれほど誇張でもないことを察した。相当たまってたなこいつ。
 裏筋に親指の爪をかるく当ててひっかくようにすると、田島が小さく呻いた。
「やっべ花井……」
 声が湿っている。なんだよ、と花井は狼狽した。
「気持ちいいのか」
「すっげ……いい……」
 顔が見たいな、と花井は思った。田島がいったい今どんな表情をしているのか。気持ちいいというのが嘘じゃないのはわかる。ゆっくりとさらに上下に指を動かすと、田島の息が荒くなった。人差し指全体でカリ部分を刺激して、残りの指で擦る。田島が身をふたつに折った。それを左手で抱きとめる。

 ───どんな顔してんだろ、こいつ

 煽られそうな自分を花井は必死で振り払った。ただ田島を手伝ってるだけだ、ただの成り行きだ。こんなふうになってるのは、ただオレが不運だっただけだ。

 ───見たい

 花井の指の動きに合わせて田島が声を小さな声を洩らす。堪えるつもりはないようだ。自分の欲望に忠実な奴だといっそ感心する。
「花井、どした……の」
「───え」
「コーフン、してる?」
「……っ」
 言われて自分の息も荒くなっていることに気づいた。どころか、花井の下半身もそれに呼応している。
「うっせ、さっさと出しちまえ」
「う、ぉっ」
 指の動きを激しくする。掌の中心も使って、全体で追い詰める。田島の呼吸の間隔が速くなった。
 そして不意に腕をあげて、花井の後頭部を引き寄せ、自分の顔を斜めに持ち上げて口づけた。


「ん───んっ」
 それと同時に田島は精を放って、全身の力を抜いた。便器に白濁した液体が落ちていく。
 突然キスされた花井は茫然として動けない。
「あー、ほんときもちーかったー! 花井、あんがとなー! ほんとすっげたまってたなー」
 トイレットペーパーをカラカラ言わせて後処理していた田島が暢気に言う。
 花井は重大なことに気づいた。今、オレ田島とキスした。キス……っていうことは───
「お……」
「お?」
「オレのっ!!!!!」
「ん?」
「ファーストキス、返せ!!!!!!!」
「あっオレもファーストキスだ、おあいこだな」
「そうじゃねェだろ!!!!!」
「まーまー、ほら、そういう雰囲気だったじゃん」
 そういう雰囲気だったか? ほんとにそうだったか? 花井は眉間に皺がよるのを抑えられなかった。
「花井もめっちゃ興奮してたじゃん。ほら」
 不意に寝巻きがわりのジャージの上から握られて花井は動揺した。たしかに自分のものも硬く、大きくなりかけている。
「背中にめっちゃ当たってた。あー花井もたまってんだなーって思ったぜ」
 違う、と言い切れない自分が悲しい。
「じゃ、今度オレが花井にしてやるよ」
「いいです、全力で本気でいいです」
「遠慮すんなよ」
「いらねーほんとにいらねー!!!!」
「こんなんなっててもかよ」
「だっから! さわんな! 自分でなんとかする!」


 田島の唇の感触がまだ残っている。柔らかい唇だった。それまで人と人がなぜ唇を合わせるのかなんて考えたこともなかった。こんなにも───劣情を煽られるものだなんて。
「知らない世界を知っちゃったな」
 呟いた花井を田島が聞き咎めた。
「なんだよ花井大人になったのか」
「ま……ある意味な。でもオレは遠慮する。もういいだろ、寝ろ」
「花井は」
「ションベンして寝る」
 ほんとにいいのかよ、とまた手を伸ばしてきた田島を全力で阻止する。田島は案外あっさり諦めた。おそらく一発抜いたことで気分が楽になったんだろう、と花井は考えた。
「じゃあ借りいっこってことにしとくよ、おやすみー」


 鍵をあけて、そっと出ていく。その背中を花井は見送った。右手の甲で唇を確かめる。
「……くそ」
 今夜は多分、眠れそうにない。



 意識した、のだと。
 天衣無縫なところに、傍若無人なところに、そしてあの“行為”の最中の、誰も知らない田島の姿に、惹かれはじめてしまったのだと。


 花井はまだ、気づいていない。









end.





31stOct.2007