授業中
Garako Inagaki Presents.





 今頃三橋は何してんだろうなぁ、と阿部はぼんやり考える。昼飯後の英語の授業は本当に眠い。周囲でもうつらうつらしている連中が散見できる。後で花井に聞けばいいか、くらいの気持ちで阿部は自分の世界に浸ることにした。

 多分寝てるだろうな。たしかシガポの授業だったから、後で相当怒られてるだろうな。数学はあいつの特に苦手な教科だし。不等号の意味がわからなかったって聞いた時は気が遠くなった。まあ泉がうまくフォローするだろ。しかし留年でもされると一緒に進級できなくなるから困るな───



「おい阿部」
「なんだよ」
 席替えで真後ろになった花井が小声で話しかけてきた。二人とも窓際の後列というナイスポジションをゲットして上機嫌だ。花井は最近とみにキャプテンらしくなってきている。頼もしいよなあ、オレはそんなに責任のある立場は面倒で御免だ、副将くらいがちょうどいい。何事もほどほどが一番。野球以外は。
「次の練習試合の相手だけどよ〜、ちょっと気になる奴がいるんだよ。あとでモモカンとデータ検証しねえ?」
「あー、いいよ」
「それと、あいつらの勉強」
「あー……」
 田島と三橋の成績にはいつも頭が痛い。二人は結局専属家庭教師みたいになっている。西広にもかなり助けて貰っているけど、専門教科になったらそれぞれのほうが教えやすい。
「中間試験はどうにか乗り切ったけど期末も待ってるし。練習きつめになってきてるし、多分あいつら寝てるだろ今も」
「まず間違いないな」
「あったまいてえよ。エースと四番が揃って部長に成績睨まれてんだから」
「あーマジあったまいてェな……それ」
「だろう」
「どうやってあいつらを教科書に向かわせるか、ちょっと考えてくれ」
「うーす」
 花井もオレも苦労性だなと思う。



 それにしても、教科書に向かわせるっていうのは難しいな。教えられているから勉強しているだけで、自発的って文字からは程遠い状態だ。何かエサ───ご褒美でもあればやる気になるんだろうか。いや三橋は野球バカだから、野球のことでヘタにつつくと逆効果になりかねない。あいつから野球を奪ったら廃人同様になるのは見えてる。モモカンが最初に喝を入れた時には多少真剣になったようだけど、今は花井やオレにすっかり頼り切っているし。そんなんじゃこの先三年までずっとお守り───
 考えて阿部は身震いした。捕手として頭に入れておきたい他校データは山程ある。野球のことに専念したいし、学業も親に恥ずかしくない程度にはおさえておくつもりだったけれど、これは入学前には計算外だった。
 どうしたらいいものか。
 まあご褒美作戦というのは発想としては悪くない。野球のことでうまくエサを投げれば食いついてくるかもしれない。あいつがやりたいこと───まあ、速球を投げたいっていうのはあるだろうけど、それはまだ成長期の真っ最中の三橋は無茶な筋トレするわけにもいかないし、先の話だ。焦らせたらいけない。
 となると変化球をひとつ教えるとか、かな───
 フォークか、シンカーか、パームそれともナックルか。ナックルなんかマスターしたら面白そうだ。魔球とか言って田島あたりが大喜びしそうだし。今更ストレートなんか投げてもパカスカ打たれるのがオチだしなあ、と阿部はまだ考えている。花井も多分後ろで同じように悩んでいるだろう。田島は生粋の野球小僧だから、机に縛るなんて神様でも出来そうにない。モモカン頼みになるか、やっぱり花井が三年間主将として面倒みるかのどっちかだろう。阿部は心の中で花井に憐れみの目を向けた。どうせ花井が苦労すれば副将の阿部も一蓮托生である。



 ナックルはいいアイデアかもしれない、と阿部はそのあたりについて真面目に考え始めた。三橋の球にはもともと回転があまりない。問題は捕手(オレ)がちゃんと捕球できるかどうかだけど、まあ練習するしかないだろう。ヘタな速球より捕りにくいからな、ナックルは───でも、ナックルを覚えた三橋はより魅力的な投手になる。それは間違いない。
 しかしそれは時期尚早かなとも思う。チェンジアップをどうにか使っている状態の今、教えていいものか。だいたいナックルなんて投げてみてもらわないと覚えられるもんじゃない。握りひとつ取ったって十人十色だ。まあ多分モモカンが出来るだろう、あの人は謎が多いし───本当に女かと思うことがある。監督としてはおそろしく有能だし、相談してみよう。



 やべ、ますます眠くなってきた。阿部は懸命に眠気と戦おうとした。
 三橋の魅力か───
 あのコントロールは惚れ惚れする。速球だけが投手じゃない。いい捕手のいいリードがあればいくらでも三振は取れる。事実だ。阿部は自分の力を過信していないが、控えめに見ても体格以外で他校(ヨソ)の捕手に劣るとも考えていない。捕手というポジションが好きだからだ。好きということはそのポジションをつとめる上で一番大事なことだ。
 しっかし、いまひとつ三橋はオレに対して心を開いてこねェんだよな、と阿部は苦々しい気分になる。試合中なら絶対にマウンドを降りない頑固さで、阿部に百パーセントの信頼で、まっすぐ投げてくる。気持ちの乗ったいい球だ。どんなに疲れていても目が死なない。
 なのにマウンドを降りると“ごめんなさい野郎”になるんだよなぁ───
 はあー、と思わずついた溜息をついに英語教師に見咎められて、阿部は黒板まで向かうハメになった。全然聞いていなかった問題は花井がこっそり教えてくれて助かった。借りひとつだ、いずれ返さないといけない。



 三橋がもっと阿部(オレ)を見てくれればいいのに。黒板の前から戻ってきて阿部はまた考える。怒鳴るのを少し控えようかとも思うが、あの態度を見ているとどうしても高圧的になってしまう。そういえば一回キスしたっけなぁ。


 ───やべ、顔赤くなってきてる。


 両手で頬を挟んでとりあえず落ち着くまで待った。なんで思い出してしまったんだろう。ほんの気まぐれみたいなキスだったのに。あんまりあいつが泣くから腹が立って、ついやっちまった。後悔はしてない、が、そのことに触れるのは意識的に避けてきた。心が定まってなかったからだ。心が騒ぐからだ。三橋とキスだなんて。なんでこんなときに思い出してしまったのだろう。
 あいつの泣き顔はもう見飽きた。もう泣くよりも、ただもっと、ちゃんと話をしたり、意見を交換したり、そういう風になれないものかと。

 ───まあ無理だろうな。

 それでも最近はマシなほうだ。そういえば、あのキス以来だ。三橋はそれほど阿部に対してキョドらなくなったし、野球のことでは少しずつ投手のポジション以外でも自己主張らしきものをするようになってきている。気づいて阿部ははっとした。

 ───あのキス以来?

 三橋は阿部のことをどう思っているんだろう。「オレも阿部君が好きだ」なんて言葉を鵜呑みにするほど純粋(ピュア)じゃない。いったい、三橋はどう考えているんだろう。

 ───でもどうやって聞いたらいいんだ。

 頭が痛くなってきた。花井の奴、余計なことを言うから余計なことまで考えちまったじゃねェか。見当違いの八つ当たりをしても虚しいだけで、何も答えは出ない。そんなことは解ってる。  最初に戻ろう。要するにきちんと勉強をしてくれればそれでいい、成績優秀じゃなくてもいいから自力で赤点だけ回避してくれればいい、授業はなるべくちゃんと聞いてくれれば。そうなんだよ、キスとか関係ないだろ、しっかりしろ阿部隆也。

 自分が今全然授業を聞いていないことを阿部は棚上げしている。頭の中がまた混乱しかけたところで、ようやく授業終了のチャイムがのんびりと鳴った。結論は全然出なかった。
 花井と話し合うしかないな、と阿部は大きく伸びをしながら後ろを振り向く。花井も小難しい顔をして考えこんでいた。
「ホント、オレらって苦労性……」
「言うなよ……」



 ───結局、三橋は阿部の言うことを半分は聞くことになるのだけど、それはまた別のお話。









end.





16thJune.2007