「見るなよ! 趣味わりぃな!」
「せやけど、叶」
「ほっとけよ!」
 叶。放っておけるわけ、ないやろ。




nice batting!
Garako Inagaki Presents.





 打球は気持ちよく弧を描いて飛んでいく。白い雲に一瞬重なってその姿を隠し、また現れて落下する。フリーバッティングとはいえ、一年生の飛ばす球にしては鋭いし、速い。上級生も織田には一目置いている。だいたい、群馬の学校に西からやってくるなんてこと自体がもの珍しい。当の織田はそんなことはお構いなしのマイペースでやっている。そのくらい太い神経でなければ、箱根の山を越えた越境入学なんて出来る訳がない。
「織田、調子良さそうだなあ」
「おかげさんで」
 先輩達の受けも悪くない。図体が大きい織田はどうしても上からの目線になりがちで、そういう人間は尊大だと思われてしまう危険もあるけれど生来の気楽な性格が幸いしてあっという間に馴れ合わない程度に三星に馴染んでいる。
 エスカレーター組の微妙な雰囲気、そして高等部野球部の顔合わせ兼初練習の時の先輩達の“何ともいえない”空気を感じ取った時には厭な気分がしたものだけど。
 それは疎外感とは違う。
 彼等の顔に一様に、安堵とも蔑みともつかぬものを浮かぶのを見たからだ。
 ───その中で、叶だけが違っていた。



 その日、一年生投手の一人───叶は織田の目から見ても様子が少しおかしかった。普段からこういう奴なのか、とも思えない。目が少し腫れぼったい。まるで泣いていた後のようだ。しかし理由がわからない。そこまで踏みこむこともないか、と軽く考えて、他の外部生達と共に挨拶をひとこと、ふたこと。叶の様子をちらりと窺うと、まるで上の空だ。ちょっとからかってみたくなった。
 ブルペンに向かおうとする彼の後ろから声をかける。
「うーす。自分、一年やろ? オレの名前、覚えてくれた?」
 振り向いた叶はあからさまにぎく、という警戒の目を向けてくる。
「なんや、聞いてへんかったんか。織田。織田信長の織田。覚えといてや」
「あ……ごめん。オレは叶。エスカレーター組で、中学では補欠の投手やってた」
「へえ、補欠」
 正直がっかりした。コイツは何か持ってそうだ、という自分の勘が外れたからだ。しかし、そこに捕手の畠が首を突っ込んできた。
「叶はフォークだって投げられる。補欠だったのは理由があるんだよっ」
「畠、やめろよ」
 なんだ? さっき感じた“違和感”はこれか。織田は二人のやりとりを黙って見守る。
「やっと三橋がいなくなってくれたじゃないか」
「おまえまだそんなこと言ってんのかよ!」
 三橋? 誰だ?
 その時、ベンチから怒声が飛んだ。
「一年! 早くしろ!」
 興味が湧いたが、それ以上のことを突っ込んで聞ける雰囲気ではなかった。
 ま、そのうち知る機会もあるやろ。高校は三年間もある。
 楽天的な織田は、その機会が案外早く訪れることをまだ知らなかった。



 春休みから合流した外部生を交えて練習を続け、寮生活にも慣れ始めたゴールデンウィーク最終日、一年生だけで練習試合をすると聞かされた。二年生以上は遠征中だから、という理由でだ。
「けったいなこともあるもんやなぁ」
 織田や他の外部生は暢気に構えていたが、校名を聞いたエスカレーター組の顔色が変わったのを見ておやと思った。
 ぼそぼそと隠れるようにそこここで内緒話が始まり、その中から洩れ聞こえる「三橋」という言葉に聞き覚えがあった。
 確か、高校から別ンとこ行った奴や。
 なんでこないにこいつら動揺しとるんやろ?
 ふと叶のほうを見た。叶は、無表情に、唇を噛んでいた。今にも泣きそうに見えた。逆に、待ち遠しくて仕方ないようにも見えた。

 ───おそらく、その両方だったに違いない。



 試合は三星の敗戦で終わった。先輩や監督が戻ってきたら、きっとこっぴどく叱られるだろう。今年から新設の格下チーム相手に何をやってるんだ、と。
 しかし織田には得るものが多い試合でもあった。この三星で四番を取る、出来れば来年の春には、もっと欲を言えば一年のうちから。野心はある、自信もある、努力も出来る。その織田が最後、あのヘロ球に空振り三振させられたのだから。
 世の中にはまだまだ面白い奴がいるっちゅうこっちゃな、と楽観的に反省する。それでおしまいのはずだった。
 叶の涙を見るまでは。



 すっかり暮れなずむ山々を背にした三星の部活棟に叶の姿がないことに織田は気づいた。さっき、西浦の連中が帰って行く時に何か、あったらしいことはチームメイトの様子を見ていればわかる。憑き物が落ちたような、という表現が近い。“ミハシ”の亡霊に縛られていた彼等がようやく解き放たれたという雰囲気だ。その中に叶を探しても、見あたらなかった。着替えを済ませている様子もない。ブレザーを羽織った織田はネクタイを振り回しながら何気なく焼却炉のほうを回ってみた。まだ学校内部で知らない場所がいくつかあったから、という理由だけだ。簡単な探索のつもりだった。
 しかしそこに叶がいた。しゃがみこみ、膝に顔を埋めるようにして、───泣いていた。

 足音にはっ、と顔をあげた叶の目からはぼろぼろと涙が零れていた。そしてそれを乱暴にアンダーの袖で拭う。
 織田は少なからず動揺した。見てはいけないものを見てしまった、そう思った。しかしいまさら踵を返すのも出来ない。何より、涙に濡れて光った叶の大きな目が吸い込まれそうな色をしていて、動けなくなった。
「な、なんだよ織田、なんでこんなところにいるんだよっ」
 照れ隠しのように叶が大きな声で叫ぶ。織田は思わず気圧された。
「そ、そんなん……たまたまや。ほんまやで。たまたま」
「み、見るなよ」
「すまん、でももう見てもうた」
「───じゃあ忘れろよ」
 んー、と織田は頭を指先で引っ掻いた。そして叶の目の前まで行って、しゃがみこんだ。
「───ミハシ、か?」
 ぎく、と叶の猫のような目が動く。図星らしい。目を逸らし、眉を顰めてしまった。
「関係ないだろ」
「ないこともないわなあ。さっきまで試合しとったし」
「しつこいな。もういいだろ」
「あかんねん。いったん気にしてもうたら、あかんわ、叶」
 叶はますます不機嫌な顔になる。
「それに、おまえさん今めっちゃ傷ついてる、って顔や。ほっとかれへん」
「……同情なんかいらない」
 低い声で叶は呟いた。
「同情のつもりでもないで。そやったら好奇心と思ってくれたってええ」
「おまえ、変な奴だと思ってたけど、本当に変だな」
「どーも」
 ようやく叶が、呆れたように笑った。つられて織田も笑った。叶の涙が涸れたことに安心している自分を、織田は不思議に思った。今までこんなふうに他人の笑顔を見たことがなかったかのように。



「三橋は幼なじみなんだ。小学校の時にあいつ転校してきて、三星入って一緒に野球やろうって」
「ふうん」
「でもあいつ、三星の理事長の孫だから。ヒイキの話、試合中にもしたろ」
「ああ。まあエスカレータ組の連中は相当キてたみたいやし」
「それはもう解決したんだ。オレらが悪かったってさっき謝ったから」
 へえ、と織田は叶を見直した。
「戻ってこいよって言ったんだ。でも───」
 叶は言葉を切った。織田は黙って待っている。
「今度こそ、ちゃんと“野球”一緒に出来るって思ったから。戻ってくれると思ったんだ。でも」
「あいつはもう、あっちのチームの人間やろ」
「……うん」
「それが淋しくて泣いてたんかい」
 叶が眉をつり上げる。瞳が燃えるようだ。
「淋しくて悪いかよ!」
「わるない、わるぅない」
 慌てて取り繕うと、炎は静かな色に戻った。この気性の激しさは、投手に向いている。そしてそういう投手はスキだ、と織田は思っている。
「あいつ、行っちゃったんだ」
 拗ねるような口調で叶が続ける。空はあっというまに黄昏て、夜気が降りてくる。それでも叶は動こうとしなかった。
「……冷えるで。着替えな」
「うん」
「立てるか」
「もう構うなよ」
「まあええやん。オレな、おまえに興味わいた」
「はあ!?」
「部室まで一緒に行ったる。そんくらいええやろ。また淋しなって途中で泣いたりせんようにな」
「しない! バカ!」
「西のほうではアホいうねんで」
「バカでアホだ!」
 はいはい、と織田は小さい背中が先を行くのを、ゆっくりとついていく。先刻の、燃える双眸が脳裏に焼きついていた。
「泣くんやったらオレの背中で泣けやあ」
「知るか!」
「強がるなやー」

 ───おもろいやっちゃな。

 その時はそう思っただけだった。



 夏の大会が始まって群馬県地方予選一試合目、叶は最終回だけ登板し、見事にアウトを三つ取って試合(ゲーム)に幕を引いた。織田はベンチ入りはしていたが、一年生である手前試合には出ず、専ら伝令やコーチャーを勤めていた。
 はよう公式で四番打ちたいなあ。
 それは叶のためだ。叶の後ろで守り、叶のために打つ。それは想像するだけで楽しい。あの炎のような激情と、普段装っている冷静は彼の投げるフォークそのものだ。試合後、織田は叶から「三橋も勝った」という連絡が来たことを聞いた。叶は相当嬉しそうで、織田も思わずにっこりしたくらいだ。よかったなぁ、と頭をぐしゃぐしゃ撫でてやったら勿論怒鳴られたけれど。

 ───修ちゃんて。ガキんときみてェにさ。でもみんなには言うなよ。

 それを織田に言った叶の顔こそ、子供のように無邪気で、織田に決意させるには十分だった。
 三橋のことばかり気にしている叶。三橋とまた名前で呼び合えるだけでこんなに喜ぶ叶。そしてそれを誰にも言えないでいる叶、叶が好きだ。
 でもそんなことはどうでもいいことだ、と織田はシンプルに考えている。打てばいい。もし叶が打たれたら、そのぶんだけまた打ってやればいい。野球と同じことだ。想いの深さなんて自分勝手なものだから叶が三橋しか見えてないにしても、織田はそれで構わない。そのうちこっちに気づくこともあるだろう、くらいに考えている。

 ───なんたって、高校は三年間もあるんや。



 バッターボックスに立って、息を吸い込み、フルスイング。思いっきり引っ張る。
 打球は気持ちよく弧を描いて飛んでいく。遠く遠くのびて、外野の一番深いところに届く。白い球は緑色の芝生によく映え、跳ねていく。
「ナイバッチ!」
 叶の、その声さえ聞ければ今はかまわないのだ。三星の四番は、エースのために打つ。


 遠くない、その未来に。









end.





24thJuly.2007