手に、いれる
Garako Inagaki Presents.
どうしてこんなことになっちまったんだろう。阿部は横で眠る三橋の顔をまじまじ眺めながらひとりごちた。規則正しい寝息だ。頬には涙の痕がある。
───泣かせちまった。
苦い思いがこみあげてくる。泣かせるつもりじゃなかった。でも、三橋は苦痛の呻き声をあげながら、涙をぼろぼろ零していた。そんな顔がまた劣情を煽った。抑えきれなかったのだ。
なんでこんなことになっちまったんだろう。
その問いは何度も何度も頭を巡る。出口のない迷路にはまりこんで、答えなんかどこにも見えやしない。
キスした。
触れた。
抱いた。
三橋は逆らわなかった。ただ、泣いていただけだ。びっくりしたような顔をして、阿部にされるままになっていた。シャツを脱がされた時も、下半身に触れた時も、三橋はただ身を竦めただけで、抗おうとはしなかった。
つけこんだような気もする。
三橋は阿部(オレ)に逆らえない。
逆らうことに、異常な恐怖を感じている、と思う。だから意地悪のつもりで言ってみた。あまりにも、阿部に対して三橋がきちんと向き合わないから。
苛々していたのだ。三橋にも、三橋の全てが気になって仕方がない自分にも。
「なあ、三橋。オレの言うことならなんでも聞くのかよ」
「う、うん」
「本当に?」
「……うん」
「なんでも?」
三橋は首を縦に振った。
───こいつ、壊してやりたい。
今三橋を形作っている負の要素、全部壊してやりたい。阿部のもどかしさを全部ちゃんと受け止めて欲しい。そんなのはただの我が儘だと阿部はわかっていた。三橋は阿部以外の人間には、それなりに普通に接する。阿部にだけ、いつも顔色を伺うような素振りをする。畏怖、という感情が顔にそのまま出ているように思う。
そうし向けてしまったのは自分だとはいえ、“阿部君が好きだ”とか素直に言ってきた頃と明らかに態度が変わっていると心中穏やかであるはずがない。
それが今日、ついに爆発した。
きっかけは些細なことだった。ロッカールームでの着替え中にただ阿部が「おい三橋」と声をかけただけなのに、三橋はまるで兇暴な動物に睨まれたかのように身を竦めた。それをチームメイトが軽く笑ったのだ。
「阿部、おまえもうちょっと三橋と仲良くなれねーの?」
「三橋って阿部にはいつも怯えてるよなぁ」
「まああれだけ怒鳴られてたらな」
「ほとんど毎日だもんな」
口々に言われ、さすがに阿部も腹に据えかねて反論した。
「だってコイツ、いっつもオレにちゃんと返事しねェんだもん」
「そりゃ阿部が怖い顔してっからだろ。なあ三橋」
話をふられた三橋は逃げ場を探してきょろきょろしている。その態度でまた笑いがおきた。
「阿部、もうちょっと三橋に優しくしてやれよー」
「あ、そうだ、二人で帰れば? 少しはシンボクが深まるかも」
「それいいね」
「ちょっと待てよ」
「じゃあ、オレらお先に〜」
驚くべき速度で彼らは支度を終えて我先に出て行ってしまった。後には阿部と三橋だけが残された。
「……チッ、あいつら」
吐き捨てるように阿部が呟くと、小さな声で三橋が謝った。
「ご、ごめんなさ……」
「おまえのせいじゃないだろ。いや、おまえのせいなのか。なんだかわけわかんねェ」
やや混乱して阿部は頭を乱暴に掻いた。それだけの仕種なのに三橋の視線がまた左右に動く。腹が立ってきた。
「……逃げてェの? そんなにオレが嫌い?」
「ち、ちが」
「じゃあ何。ここから一歩でも早く出たいんだろ」
「阿部君、怒って……る」
「そうかもな」
突き放すような物言いに、三橋が俯いた。
「だああっ、泣くな! なんでおまえはそうやってすぐ泣くんだよ。小学生かっ」
「ごめんなさ、い」
「謝るな」
「ごめ……」
打つ手なしだ。こんな相手とどうやって仲良くなれっていうんだ。投手と捕手、それでいいじゃないか。それ以上の何を要求するんだよ。練習や試合ではちゃんとやってる。それで何が不満なんだ。三年間、捕手として尽くすことを決めたんだ。でもそれは捕手としてだ。私生活までこんな面倒な奴となんで仲良しこよししないといけないんだ。チームだからか? でも三橋はオレにほとんど服従しちまってるじゃないか。本当はオレだって───
オレだって、三橋ともっと、───親密に、なりたい。
それも本心だった。阿部はそれをずっと見ないようにしていただけだった。
「おまえ、オレのサインには首振ってないよな」
「う、うん、約束……した、から」
「オレのこと好きだって言ったよな」
「す、好き、です」
「なんで敬語……はあ」
そんな言葉が聞きたいんじゃない。もっとちゃんと、もっと、もっと───こんなのはあまりにも違っている。
こういうときにどうしたらいいのかまだ十五歳の阿部にはわからない。心の機微を熟知している大人ならば相応しい振る舞いが出来るんだろう。だけど阿部はただ、未知の感情をもてあましてそれを怒りに似たものにすり替えてしまうだけだ。それが三橋との溝を深めていることは、勿論解っている。解っていても、どうにも出来ない。
「オレがおまえを好きって言ったの、覚えてる?」
三橋がはっと顔をあげて、まっすぐに阿部を見た。そしてゆっくり肯いた。
「でも、今のオレはおまえを好きとか、よくわかんねェ。おまえ、ちゃんとオレと話してくれないし、さっきオレのこと好きって言ったけど、ぶっちゃけ信用できない」
言い募るうちにどんどん自分が嫌いになっていくように思う。まるで虐めだ。仲良くなれって言われたのに正反対のこと、してる。
───みっともねェ、オレ。
「阿部君のこと、好きって、うそじゃ……ない」
「じゃあなんでそんな態度なの、いつも」
「それは」
「答えられないだろ。それが答えなんじゃねェの?」
「ちが、う」
「違わない」
「ちが……っ」
「だから泣くな!」
思わず怒鳴ってしまい、阿部は自棄になった。
「なんでこんなんなんだよオレら。もっと割り切ったほうがいいのかもな。野球以外では完全に他人、みたいに」
そんなこと本気で思っている筈がない。その逆なのに、言葉は棘を持って口からどんどん溢れ出す。三橋はついにしゃがみこんでしまった。阿部はようやく我に返る。
「……わりぃ」
「オレ、そんなの、いや、だ」
途切れ途切れの声が洩れてきた。
「───」
「オレが悪い、のは、わか……てる」
「───」
「でも、いや、だ」
「じゃあ、どうしたいの」
「───」
「答えられないだろ」
堂々巡りだ。こんな問答をいくら続けても意味がない。
「阿部君の」
三橋が、まっすぐ阿部を見た。その眦からまた一筋涙が頬を伝い落ちた。ボールを持ってない三橋が阿部を直視するのは、多分初めてだった。
「いうこと、なんでも……きくから、きらわない、で」
なんてこと言うんだ。
動揺を通り越して阿部は腹が立ってきた。
胸の奥から渦巻く感情がこみあげて、また怒鳴りそうになるのを抑えるのが精一杯だった。かわりに、皮肉な声が出た。
「なあ、三橋。オレの言うことならなんでも聞くのかよ」
「う、うん」
「本当に?」
「……うん」
「なんでも?」
三橋は首を縦に振った。
壊したい。
全部、壊したってかまやしない。自分も、三橋も。
いきなり細い腕をとって、引き寄せ、口づけた。一瞬三橋は身体を硬くして、目を皿のように瞠いた。
長いキスの間、三橋はされるままになっていた。
「───これでも、なんでも聞く?」
三橋には阿部の真意が全く読み取れない筈だった。なんでこんなことをするのか、と。実際阿部にもわかっていない。ただ、したかったからした。───それだけだ、と阿部は自分の心の底を覗くのをあえて止めた。
三橋は茫然としている。阿部はもう一度、今度は正面からゆっくり唇を寄せて捉えた。ゆっくり舌を絡めて吸う。合わせた部分が音をたてた。
「───これでも?」
三橋は耳まで赤くして、それでも抵抗しない。
阿部は半分意地になったような気持ちで阿部は口吻を繰り返した。そのうち、自分も“欲情”していることに気づいた。
───オレ、三橋に欲情してる。
だからなんだ、構うもんか。ここまでやっておいて引き返すほうがおかしいじゃないか。怯みそうな自分に言い聞かせる。
着替えかけていたユニフォームを乱暴に脱ぎ捨てる。三橋のアンダーシャツの下に手を差し入れた。汗でしっとり湿っている。首筋に舌を這わせた。塩気のある、三橋の身体の味。
ぞくり。
「……ふ、っ」
三橋が声をあげる。阿部は自分の欲望に素直に従った。
組み敷いて、熱を帯びた身体と身体を合わせる。細い細い三橋の肢体。開かせて、隅々まで蹂躙する。三橋はついに「いやだ」と言わなかった。そのかわり、涙を零した。涙の意味はわからなかった。ただ、その涙が阿部をますます駆り立てた。───
“行為(それ)”が終わったあと、自然に抱きあっていた。ひんやりした夜気が熱った躯に心地よい。腕の中の三橋はいつのまにか眠っていた。頬に涙の痕が残っている。
急に激しい罪悪感に襲われた。
なんてこと、しちまったんだろう。
三橋は子供のような顔で眠り続けている。風邪を引かせたらいけない、と阿部はゆっくり身支度をととのえてやった。汚れたところは特に丁寧に拭き取った。それでも起きる気配はない。自然に髪に手がのびた。ゆっくりと梳く。猫っ毛がふわふわと指に絡みつき、その感触は阿部をけして不快にさせなかった。贖罪のつもりはなかった。ただ、目を醒ました時に、非難のまなざしで見られるのは耐えられない、と思った。
───何かが、変わったんだろうか。
変わってない、とは思いたくなかった。獣のように交わった後でまで、何も変化がないとしたら、それはあまりにも虚しい絶望。この“行為”の意味することが何か、くらい阿部にもわかっている。何故三橋だったのか、止めることが出来なかったのか。あの時のように「阿部君が好きだ」と、まっすぐに言ってくることはもうないのだろうか。支配と隷属、そんな関係になってしまうのだろうか。
───もう済んでしまったことだ。
確かに何かが変わる。阿部の中でも変化が起きてしまっている。一線を踏み越えた禁忌の甘い果実、貪ってしまえば楽園を追放される、その誘惑に勝てなかった。後悔などしたくはなかった。だが、三橋はもう阿部を拒絶し、けして近寄らなくなるかもしれない。今まで以上に距離を置くかもしれない。その想像はあまりにも辛いものだった。
自業自得だ。阿部は自嘲する。自業自得。
だけど、淡い期待は拭いきれない。もしかしたら、こうすることで漸く阿部の心は三橋に通じたのかもしれない、という希望。儚いそれに縋りたい自分を阿部は嘲った。そんな馬鹿なことがあるもんか。こんなに酷いことをされて、誰がそいつのことを理解できるって? 三橋にとってはただの暴力じゃないか。
三橋はまだ、静かに眠っている。
きっと空には月が出ている。雲がそれを隠そうとしても、朧気な光だけは地上に届いている。弱々しくても、必ずそこに在る。
阿部は三橋の軽い躰を、ゆっくりと背負った。
「遅くなっちまったな」
このまま、永遠に目醒めなければ───そんな願望(ねがい)さえ。
この僅かに平穏な時間の終わりが来ないように。
三橋が、自分の掌の中にいる、そんな錯覚が消えないように。
阿部はゆっくりと歩き出した。
end.
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