───苛々する。でも、ぶん殴りたいっていう衝動とは違う。そういうのじゃない。もっと違うものだ。

 だからキスした。
 三橋はただ目を瞠いて、それから、大粒の涙を零した。




ホントのキモチ
Garako Inagaki Presents.





 同じクラスだったらまだマシだったのかも、と阿部は思う。野球の練習の時間ならほとんど一緒にいる。だけど、奴はいつも挙動不審でいまひとつ阿部の真意を理解しないでただ謝ることがほとんどだ。
 もう少しうち解けられたら───最初はそう思っていただけだった。田島や泉の通訳なしでも日常会話のキャッチボールが出来るようになれば、と。ただオレの言うことを聞いているだけでいいと思っていた頃とは違う。今はそうじゃない。三橋(コイツ)のために出来ることが何か、ということを考えると、どうしても自分の独りよがりで空回りになるような気がしてならないのだ。
 それは三橋のリアクションがいつも、言うなれば“怯えて”いるように見えるからで、阿部はその点については多少反省している。怒鳴ったり怒ったりするのは性分で、三橋に関するとそれが三割どころか十割増しになってしまうからだ。

 ───でもあいつも悪いんだ。
 ───オレにちゃんと返事しないから。
 ───オレに話しかけないから

 そのくせ無邪気に好きだとかありがとうとか、いきなり言ってくる。いったいどうしたらいいんだ、と集中していないと混乱してわけがわからなくなってくる。おまけに先に十六歳になってしまった。
「なんとなく三橋より年下ってのが腹立つ。十二月は遠いぜちくしょう」
「阿部ー、心狭いなー。まあオレももう十六だからお兄さんだけどな」
「うっせえ。花井ならなんとなく納得もする。タッパもあるし」
「ま、オレキャプテンだし」
「関係ねえ」
 花井と休み時間を使って小ミーティングをする。野球漬けの生活には慣れた。この学校に来て良かった、と思う。三橋に出逢えて良かったと思う。このチームメイトで甲子園に行けたら、そんな夢も見る。
 野球少年らしい生活の中で、三橋のことだけがひっかかっている。喉に刺さった小骨のように。



 練習試合のその日、三橋は軽い風邪をひいているように見えた。見えた、というのは阿部の主観で、チームメイトには“三橋が張り切ってる”程度にしか映らなかったと思う。軽くアップのキャッチボールをしただけで目が輝いている。輝く───違う、潤んでいる。
 どき。
 心臓が一瞬大きく鳴った。阿部は気づかなかったが、エースの不調を心配する音だけじゃなかった。
「おい、三橋!」
 駆け寄ると怒られると思ったのか、三橋が逃げ場を探すようにきょときょとする。そこをいつものように強引に捕まえた。手が少し熱いような気がする。
「お前、熱ない?」
「な、ないです」
「うそつくなよ?」
 声にドスが効いてしまうのはもう癖になっている。
 これがいけないのか、と思う半分、諦め半分。
「うそ、じゃ、ない……けど、」
「けど?」
「なんかちょっと、あつい……か、な」
「今日それほど暑くねーぞ。すんません! こいつ調子悪いみたいです! 休ませてやってください!」
「わ、わるくない! 投げられる! 投げる!」
「バカ、野球が出来るのは今日だけじゃねェだろ、あとのこと考えろ」
 当たり前のことがどうしてわからないのか、と苛々する。
 ベンチまで引きずっても、三橋はまだ抵抗する。
「監督ピッチャー交代です。こいつ風邪で、無理して投げさせて壊したくないです」
「わかった。じゃあ今日は沖くんと花井くんの継投でいきましょう。ちょっとー、みんな集まってー! ポジション交代!」
「お、オレ、投げ……」
「いいかげんにしろ!」
 一喝したら三橋はついに黙った。そのかわり、ベンチの隅で膝を抱えてうずくまってしまった。
「だいじょぶ? 今日もう帰ってもいいんだぜ?」
 心配したチームメイトがぞろぞろ集まってきても、首を横に振るばかりだ。いきなり投手指名された花井と沖は肩を暖めなければいけない。気にはなったが、アップに出る。後ろから三橋の小さな嗚咽が聞こえてきた。



 案の定月曜、三橋は学校に来なかった。見舞いがてら様子を見るか、と考えて、なんでオレがそこまで───
「あ、阿部くん」
「監督」
「ちょっと三橋くんの様子見てきてくれる? 家はわかるよね。あの子のことだから、エース降ろされたって勘違いしてそう。まあ、ついでに少し君たち仲良くなってきなさい。阿部くんいつも怒鳴ってばっかりでしょ」
「それはあいつが」
「はいはい言い訳はいいから、ランニングがてらとっとと行ってこい!」
「……わかりました」
 ちぇ、モモカンには見抜かれてる。オレと三橋が野球のこと以外でいまひとつ踏みこめてないことを。試合になれば、オレたちは最高のバッテリーだ、だけど───



 家には三橋の家族は誰もいないようだった。玄関のチャイムを鳴らしても応答はない。迷ったが、勝手にあがりこむことにした。どうせ三橋は居留守を使ってる。一応、声だけはかける。
「三橋ー、いるんだろ。あがるぞー」
 しーんと静まりかえっているが、人の気配はする。さては布団にくるまって───いつものように怯えているんだろうか。
 暗い気分になって、阿部は深い溜息をついた。
 とんとんと階段をあがり、少しだけ躊躇してから勢いよく引き戸をあける。案の定、布団の塊がびくっと動いた。
「───起きてんじゃねェか。具合はどうだ」
「……」
 ずかずかと歩み寄り、枕の傍に腰をおろす。布団虫は出てこない。
「あのなあ。まず言っておくけど昨日の試合でお前は投げちゃいけなかったんだよ」
「……っ」
 泣いている。そんなに悔しいのか。勘違いだときちんと説明しなきゃならないけど、通じるかどうか怪しい。
「練習試合なんだから不調を感じたら休むのもエースの仕事だ。大会になったらそんなこと言ってらんないかもしれないけど、あくまで練習試合なんだから、そのへん思い違いしてもらったら困る。聞いてんのかっ」
「聞いて……ま、す」
 ようやく返事があった。また怒鳴ってしまったことに少し自己嫌悪を覚えながら、阿部はつとめて優しい声を出そうと努力した。
「だから、お前は体調管理をちゃんとやって、メニューこなして、オレのミットめがけて投げるのが仕事だって言ってんの。目先の試合で万一のことがあったらオレも困るっていうのわかる?」
「……」
 また黙ってしまった。納得してない。こいつの頭の中にあるのは、ただ“投げたかった”それだけだ。
「投げたかったんだろ」
「うん……」
「オレだってそれはわかる。わかるけど」
「投げた、かった」
「わかるったら」
「オレ……オレ……」
「あーもう、めんどくせェな! 顔出せ顔!!!」
 ばっ、と布団をめくると目を真っ赤に腫らした三橋の顔が出てきた。慌てて隠そうとしても、手遅れだってわかってない。
「まだ熱あんのか」
「う……ない、です」
「どれ」
 額に手を当てると、それほど熱くはない。
「仮病で休んだのか」
 全力で首を横に振る。
「違うんならきちっと明日までに飯食って治してこい。試合はまだあるんだから」
「でも、でも」
「でも、なんだ」
「昨日……投げたかった……」
 なんて強情なんだ。

 ───だけどそんなところがどうしても気にかかる。
 ───どうしても、目が離せない。

「なあ三橋……」
 三橋がようやく顔をあげて阿部のほうを見る。布団の上で正座する格好になっている。オレは生活指導の教師かよ、と多少情けない気分になった。
「もっと、いろいろ───いろいろ、ちゃんと話してくれよ。そうじゃないとオレはいつもお前を怒鳴ってばっかりだし、お前はキョドってばっかりだ。そういうのはバッテリーとしていいとは思えない。オレにも反省する点は一杯あるから、お前も考えてくれ」
「だって、あ、べくんは、すごいから」
「そういうんじゃねーんだよ……」
 全然わかってない。
 視線を合わせようとしない。マウンドだと、あんなにまっすぐこっちを見ているのに。今は遠い。こんなに近くにいるのに遠い。
 不意に虚しさが突き上げてきた。
「もういいや。まあ、それなりに元気だってわかったし。オレ、帰るわ。ちゃんと安静にして飯も食えよ。あと体重は必ず測れ」
「……っ!」
 三橋が目を大きくひらいてようやく阿部を見た。そこには“絶望”みたいなものが浮かんでいた。

 ───阿部くんに嫌われたくない。

「ま、まって、阿部くん」
「んぁ」
 立ち上がりかけていた阿部はもう一度座り直した。三橋の瞳がまた潤んでいる。
「だーーーーもう、泣くな!」
「ぅ……えぅ……ごめん、なさ、い」
「謝るな!」
 どうしてこんなふうになってしまうのだろう。大粒の涙をぼろぼろ零す三橋を見ていると、不思議な感情が不意に湧いてきた。
 いつものように、手を握ってみる。
 そのまま、じっと見つめ合う恰好になった。
 三橋はまだ、嗚咽を堪えている。時折、眦から涙が頬を伝う。



 ぐいと引き寄せ、抱きしめてみた。



 三橋は一瞬身体を硬くして、それからゆっくりと力を抜いた。逆に阿部は両腕に力をこめていく。時計の針の音が耳朶を打つ。ゆっくりと身体を離して、目を逸らさないようにした。
「落ち着いたか」
「あべく……」
「オレはお前が好きだよ」
「オレも阿部くん……すき、だ」
 もっと三橋のことが知りたいだけなのに。どうしていつも怒鳴ったりびくついたり、そんな間柄でないといけないんだ。半分は自分のせいだと思う、だけど三橋にも努力して貰いたい。

 ───もう、一方通行はご免なんだ。

 厭な想い出が蘇りかけて、阿部は小さく首をふった。昔のことだ。今は目の前にいるこいつに尽くすのが、一番大事なことなんだ。だけど尽くすだけでなく、見返りが欲しいと思うのは我が儘なんだろうか。信頼───そんな言葉も、こんな三橋を見ていると疑いたくなってくる。
 花井と話したことを不意に思い出した。
「お前、もう十六歳だろ」
「あ、う、ん」
「オレはまだ十五だ。誕生日十二月だから」
「え……」
「悔しいけどオレはまだ十五だ。お前、現時点でオレより年上なんだから少ししっかりしてくれ」
「あ、あ……」
 やべぇ、混乱させちまったか。三橋はわかりやすく“阿部くんが年下だなんて思えない”っていう顔をしている。

 ───苛々してきた。

 言葉はもう尽きた。もっと近づくにはどうしたらいい? こいつがオレを好きというのは本当だろう。それは言われて嬉しい、だけどそれだけじゃ駄目なんだ。考えても堂々巡りで結論は出ない。



 身体が勝手に動いた。気づいたら、キスしていた。三橋はただでさえ大きな目をぐいと瞠いて、何度か瞬きした。

 ───オレ、今何した?

 阿部はがばっと立ち上がり、惚けたような表情(かお)をしたままの三橋を見ないようにして声を投げつけた。
「オレ、練習戻るからな! 明日はちゃんと学校来いよ! 朝練はしんどいようだったら休んでもいいから、モモカンにもそう言っとくから! 邪魔したなっ」

 ───オレ、三橋に何した?

 階段を駆け下り、スパイクをつっかけて走り出す。グラウンドに戻って、頭を冷やして、考えないと駄目だ。
 ふと、駆け足がゆっくりと止まる。
 ……そうか。



 なんて簡単なことだったんだろう。



 オレは三橋が好きなんだ。だから、もっと知りたかった。キョドらずに、こっちを向いて欲しかった。笑って欲しかった。
 だからキスした。
「はは……」
 情けない。じんわり涙が滲んでくる。慌ててそれを拭う。拭った手をふと眺めて、三橋の体温(ぬくもり)を思い出す。
 温かかった。
 鼓動がおさまらない。これは、ただ走ったせいだけじゃない。もっと全然違うものだ。
 思わず空を仰いだ。憎々しいほど青い空だった。赤くなっているであろう顔をぱんぱんと叩いて、気を取り直す。
「まあ───やっちまったものは、しょうがないか」



 呟いて阿部は、グラウンドに向かってまた走り出した。








end.





14thJune.2007