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日本長距離カー・フェリー40年史

石山 剛

1、はじめに

 北海道、本州、四国、九州の4つの島(本土)と、その他の島々からなる日本は、昔から海運が盛んである。本土と離島を結ぶ船の他、 1884年からは近代的な鉄道連絡船が、日本の海域に就航した。鉄道連絡船の主な航路は、稚泊航路(稚内―大泊(現、コルサコフ)、 167km)、青函航路(青森―函館、113km)、宇高航路(宇野―高松、20.7km)、関釜航路(下関―釜山、226km)の4つ であり、とりわけ関釜航路は、当時の大日本帝国にとっては、本国と植民地である朝鮮を結ぶ重要な植民地航路の1つであった。

 第二次世界大戦以前は、これらの航路の他に、大陸と日本本土を結ぶ航路(その全ては植民地航路)と南北アメリカ、オーストラリア、ア フリカ、そしてヨーロッパと日本を結ぶ遠洋定期船航路があり、日本郵船、大阪商船(現、商船三井)等がこれらの航路を経営していた。

 第二次世界大戦中、これらの日本の商船は軍によって徴用され、輸送船等として使用された。しかしその殆ど全てが海の底に沈んだ。戦争 捕虜を狭く暑い船倉に押し込めて、本土に多数あった捕虜収容所に移送したことから、これら日本の商船は、不名誉なことに「地獄船」として 歴史上、知られている。唯一、生き残った遠洋定期船は、病院船として使用された「氷川丸」(11,622gt)という小さな船だけだっ た。この船は現在、横浜に保存されている。

 1945年8月、第二次世界大戦は終結した。日本は植民地を全て失い、離島航路と、鉄道連絡船のうち青函航路、宇高航路、その他の短 距離航路だけが、日本のフェリー航路として生き残った。

 日本で最初の「カー・フェリー」は、1934年3月に就航した「第8わかと丸」と「第9わかと丸」(43gt)だと言われている。運 航事業者は「若戸渡船」で、この両頭船はトラック2台とオート3輪4台を載せて、九州北部の若松と戸畑間の僅か600mを結んだ。

 1950年、朝鮮戦争が勃発し、日本はアメリカ軍に多くの物資を供給した。この戦争を切っ掛けに日本経済は復活した。

 1954年4月11日、明石(本州)と岩屋(淡路島)間の明石海峡(9.3km)と、福良(淡路島)と鳴門(四国)間の鳴門海峡 (14.8km)を結ぶことによって、阪神(大阪・神戸、本州)と四国を、淡路島を経由して結ぶカー・フェリー航路が開設された。就航し た船は「あさぎり丸」(229gt)と姉妹船の「若潮丸」という両頭船。地方自治体の兵庫県が明石海峡航路、徳島県が鳴門海峡航路を経営 していた。後に、日本道路公団が経営主体となった。

 日本では300キロメートル以上の航路に就航するカー・フェリーを「長距離カー・フェリー」として、特に区別している。この分類は、 船自体とは全く無関係な分類であり、単に歴史的沿革的な理由に基づくものに過ぎない。しかし長距離カー・フェリーの多くは大型船であり、 トラックのための「海のバイパス」という独特の性格を有している。この点で、旅客のための「海峡渡船」として発展して来たヨーロッパの カー・フェリーとは全く異なる特色を持っており、その特色が船型や航路に反映されている。

 以下では、主として日本の長距離カー・フェリーの歴史に絞って解説していくことにする。

注:日本の測度法では、総トン数の算定において、閉囲場所である車輛甲板を含まない。

2、1968年―1975年

 1960年代、日本は自動車、造船、鉄鋼、電化製品等の産業が発達し、1968年にはGNPが資本主義国の中で、アメリカに次いで2 位となった。当時の日本における高速道路網は未発達であり、例えば阪神(大阪・神戸)と九州の小倉を結ぶ国道2号線は、激しく渋滞してい た。

 そこで神戸から小倉まで、船でトラックを輸送しようと考えた人物がいた。関光汽船社長の入谷豊州氏である。彼の考えは、フェリーをト ラックのための「海のバイパス」として利用しようというものであった。しかし当時の日本では、フェリーとは、本土と離島を結ぶ「海の架け 橋」と見なすのが一般的であり、道路と並行してトラックを船で運ぶという着想は極めて独創的なもので、入谷氏を除いて、誰もその考えが成 功するとは思ってはいなかった。

 1968年8月10日、阪九フェリーの新船、「フェリー阪九」(4,979gt)が神戸港を出帆し、日本の長距離フェリーの歴史が始 まった。11月には「第六阪九」(5,011gt)が神戸(本州)―小倉(九州)航路に就航してデイリー・サービスを開始した。入谷の新 事業は多くの人々の予想に反してトラック運転手によって歓迎され、大成功を収めた。この2隻の船は、鉄道連絡船を参考にして設計されたも のと言われている。

 阪九フェリーの成功に引き続いて、彼は1969年6月に新日本海フェリーを設立した。1970年8月には北海道の小樽と本州の敦賀・ 舞鶴を結ぶ航路を開設し、「すずらん丸」(9,053gt)を投入した。本船は冬季の日本海の高波を避けるために、船首に独特のドームを 持った船で、「海の新幹線」と人々に呼ばれた。本船は当時、日本最大のフェリーであったが、旅客のための公室は殆どなく、専らトラック輸 送に特化したものであった。新日本海フェリーはその後、日本最大のフェリー会社に成長した。

 同時に1969年6月には、彼は下関に関釜フェリーを設立している。1970年6月に「フェリー関釜」(3,875gt)が日本の下 関と韓国の釜山を結んだ。第二次世界大戦後、初の国際フェリーであり、韓国の釜関フェリーとの共同運航であった。

 かくしてここにSHK Lineグループが成立し、同グループは今日においても、日本のフェリー業界の中核を占めており、クルーズ産業にも進出している(日本クルーズ客船)。

 入谷の成功を見て、多くの企業が「カー・フェリー」という新事業に新規参入し、1970年代前半には、日本でカー・フェリーがブーム となった。多くのフェリー会社が設立されて、多くの航路が開設され、そして多くのカー・フェリーが建造された。

 大部分の会社は、トラックのための「海のバイパス」という入谷のビジネス・モデルを真似ていた。しかし「海のバイパス」としての利点 を活かせなかった企業の中には、失敗するものもあった。例、(セントラル・フェリー、川崎―阪神、1971年―1972年)、(広島グ リーン・フェリー、広島―大阪、1972年―1982年)、(フジ・フェリー、松阪―東京、1974年―1979年)。

 一方、観光客に照準を合わせた豪華カー・フェリーを運航するところもあり、1970年代には様々なタイプのフェリーが建造された。こ の時期に建造されたフェリーの多くは、現在でもギリシャやペルシャ湾、フィリピンで見ることができる。

 こうして1975年には、現在の日本のカー・フェリー航路網がほぼ完成した。しかし1973年の石油危機を契機に、日本のフェリー産 業は、暗く長い冬を過ごさなければならないこととなったのである。

3、1976年―1995年

 前述したように、日本の長距離フェリーはトラックのための「海のバイパス」として生まれた。しかし旅客を重視した豪華船を就航させた 会社もあった。

●日本カー・フェリー(川崎―日向航路)
 「ふぇにっくす」(5,954gt、1971年)、「せんとぽーりあ」(5,960gt、1971年)、「ぶーげんびりあ」 (5,964gt、1971年)

●関西汽船(大阪・神戸―今治―松山―別府航路)
 「ゆふ」(3,360gt、1971年)、「まや」(3,229gt、1971年)

●照国郵船(鹿児島―奄美―徳之島―沖永良部―与論航路)
 「クィーンコーラル」(6,430gt、1972年)

●日本高速フェリー(名古屋―高知―鹿児島航路、東京―那智勝浦―高知航路、大阪―鹿児島航路)
 「さんふらわあ」(11,312gt、1972年)、「さんふらわあ2」(11,314gt、1972年)、「さんふらわあ5」 (12,711gt、1973年)、「さんふらわあ8」(12,759gt、1973年)、「さんふらわあ11」(13,599gt、 1974年)

 しかし1973年の石油危機により燃料価格が高騰し、しかも不況により観光客が減少して、豪華フェリーを運航していた会社は大打撃を 受けることとなった。1976年に鹿児島商船が、鹿児島―神戸間に豪華フェリーを就航させる計画があったが、実現はしなかった。次々と豪 華船は日本近海から姿を消し、貨物船のような船に代わって行ったのである(例、新日本海フェリーの「ニューすずらん」 (16,250gt、1979年)「ニューゆうかり」(16,239gt、1979年)、阪九フェリーの「ニューやまと」 (11,919gt、1983年)「ニューみやこ」(11,914gt、1984年)等)。

 かくして1968年に誕生した日本の長距離フェリー業界は、早くもつまずき、1970年代半ばからは長い低迷の時代を迎えることと なった。一部の船舶愛好家を除いては、船旅を楽しむ人は少なく、国内では鉄道、航空機、バス、自家用車で旅行するのが一般的であった。ま たこの頃から、国内の船旅よりは、むしろ航空機で行くグアムやハワイを含む海外旅行に人気が集まり始めていた。

 1985年9月のプラザ合意以降、円高が急速に進み、一方で原油価格が下落した。こうした動きは、当時世界一の地位にあった日本の造 船業に打撃を与えることとなった。しかし長年もがいていた日本のフェリー業界にとっては、転機となったのだった。というのは、造船業界が 不況のため船価が下落して代船建造が容易になり、一方、原油価格の下落によって営業収支が好転したからである。更に1989年には日本は 記録的な好景気となり、本格的なクルーズ船が建造され(例、「おせあにっく ぐれいす」、「ふじ丸」等)、レジャー産業も発達した(例、 リゾート、ゴルフ場、テーマパーク等)。このような背景の下、所謂、豪華クルーズフェリーが日本でも建造されるようになり、70年代に大 量に建造された古い船が、地中海やフィリピンに売却されて行った。ヨーロッパで日本の古いフェリーが注目されるようになったのは、この頃 のことである。

 最初のクルーズフェリーは、四国の松山・今治と本州の神戸を結ぶ短距離航路に登場した三宝海運の「ほわいとさんぽう2」 (10,182gt、1981年)であった。瀬戸内海に就航しているカー・フェリーの中では豪華な公室を持つ船であり、話題を呼んだ。

 長距離カー・フェリーにおいては、新日本海フェリーと太平洋フェリーの新船が注目された。いずれも豪華な客室と公室で、観光客を惹き つけようとするクルーズフェリーであり、かっての貨物船のような船とは全く異なるものであった。

●新日本海フェリー
 「ニューはまなす」(17,261gt、1987年)、「ニューしらゆり」(17,261gt、1987年)、 「ニューあかしあ」 (19,750gt、1988年)、「フェリーらべんだあ」(19,904gt、1992年)、「フェリーあざれあ」 (20,552gt、1994年)、「フェリーしらかば」(20,555gt、1994年)

●太平洋フェリー
 「きそ」(13,691gt、1987年)、「きたかみ」(13,937gt、1989年)、「いしかり」(14,257gt、 1991年)

 太平洋フェリーの3姉妹は、日本を代表するクルーズフェリーであり、とりわけ「いしかり」は、その内装の豪華さとサービスの良さで人 気を集めた。太平洋フェリーは、日本における「Silja Line」と言っても過言ではない。事実、日本のフェリー会社の幹部は、北欧のクルーズフェリーを視察して歩いたものである。

 この他の豪華クルーズフェリーとしては、近海郵船の「サブリナ」(12,521gt、1990年)、「ブルーゼファー」 (12,500gt、1990年)、有村産業の「クルーズフェリー飛龍」(16,494gt、1995年)、「クルーズフェリー飛龍 21」(14,700gt、1996年)が挙げられる。いずれも旅客を重視したカー・フェリーであった。

 第二次世界大戦で廃墟と化した日本を再建すべく、ひたすら蟻のように働いて来た日本人は、ここに至って初めてクルーズを楽しむことが できるだけの生活水準に達したのである。しかし幸せな日々は長くは続かなかった。1991年には株価や地価が暴落し(バブル崩壊)、再び フェリー業界は、もがくことを余儀なくされたからである。

 4、1996年―2008年

 日本経済は90年代に入って低迷し、フェリー業界は貨物と乗客の減少に再びあえぐこととなった。日本政府は不況を打開するために経済 的な規制を緩和し、免許によって保護されて来たフェリー会社は、初めて真の自由競争に曝されることとなった。このとき、日本にも格安航空 会社が生まれたが(1996年)、ありがたいことに大手航空会社との厳しい競争により、フェリーの脅威となる程の成長を遂げなかった。む しろ日本の長距離フェリー会社は、RoRo船(貨物フェリー)やその他の貨物船との競争に直面することとなったのである。ここで2つの興 味深い動きを見ることができる。

 一つは旅客を鉄道や航空機と奪い合うことを諦める動きである。東京と北九州を結ぶオーシャン東九フェリーは、コストを削減するため に、旅客と乗員を大幅に減らした「カジュアル・フェリー」という称号を与えたフェリーを就航させた(「おーしゃんのーす」 (11,114gt、1996年)「おーしゃんさうす」(11,114gt、1996年))。このフェリーは148人乗りのレストランを 持たない自動販売機だけのハイテク船であり、「洋上サービス・ステーション」とも言える簡素なフェリーである。更に東京と釧路を結ぶ近海 郵船(現、近海郵船物流)は、遂に旅客運航を止めて、RoRo船に切り替えてしまった(1999年)。

 もう一つの動きは、豪華クルーズフェリーの就航である。2002年から2004年にかけて、新日本海フェリーは、「らいらっく」 (18,225gt、2002年)、「ゆうかり」(18,225gt、2003年)、「はまなす」(16,810gt、2004年)、 「あかしあ」(16,810gt、2004年)の4隻を就航させた。いずれもバルコニー付きの豪華な船室を自慢とするクルーズフェリーで ある。しかし70年代の豪華フェリーとは異なり、貨物を収入源にしている点に特徴がある。特に32ノットの高速フェリーである「はまな す」と「あかしあ」は、それまで3隻が29時間で結んでいた舞鶴―小樽航路を、2隻で20時間で毎日結ぶものであり、大幅なコスト・ダウ ンを図って高速RoRo船に対抗するものである。その上で豪華な旅客設備を提供して旅客を惹きつけようとしている。2005年1月には、 太平洋フェリーの豪華フェリー、「きそ」(15,795gt)が登場した。

 しかし競争に敗れて、航路の廃止や合併、廃業を余儀なくされるフェリー会社も続出した。とりわけ異常なまでの石油価格の高騰が、フェ リー会社の経営を圧迫している。

 例えば、瀬戸内海で競合する航路を経営している関西汽船とダイヤモンドフェリーは、2005年4月1日より「フェリーさんふらわあ」 の商標を用いて共同営業をすることにして、経費の削減に努めている。また2007年7月には、ダイヤモンドフェリーは、志布志(九州)と 大阪(本州)を結ぶ航路を経営していたブルーハイウェイライン西日本を吸収合併した。

 一方、川崎(本州)―日向・宮崎(九州)航路、貝塚(本州)―日向・宮崎(九州)航路を経営していたマリン・エキスプレスは、新設の 宮崎カーフェリーに資産の一部を譲渡して、2005年12月には特別清算した。保有していていた「パシフィック・エキスプレス」 (11,583gt、1992年)、「フェニックス・エキスプレス」(11,580gt、1993年)、「フェリーひむか(旧れいんぼう べる)」(13,597gt、1996年)は売却された。

 また大分(九州)と横須賀(本州)を結ぶ航路で、2004年4月から2隻の中古船で運航を始めたシャトル・ハイウェイ・ラインは、 2007年9月に74億5000万円の負債を抱えて破産した。

 北海道の首都、札幌に本拠を置いていた東日本フェリーは、その最盛期には、11航路に、ギリシャ神話や北欧神話等に因んだ神様の名前 を付けた船、22隻を運航していることで知られていた。しかしホテル部門、レジャー部門の事業収益が伸び悩み、景気の低迷による貨物輸送 の減少にも直面した。とりわけ福岡に設立した九越フェリーが大きな負担となり、東日本フェリーは、2003年6月に会社更生法の適用を東 京地方裁判所に申請することを余儀なくされた。東日本フェリーは、2007年7月に長距離フェリー事業から撤退した。現在は、新しい経営 陣の下で、函館(北海道)と青森(本州)を結ぶ航路にオーストラリアのIncat製の高速船、「ナッチャンRera」 (10,712gt、2007年)、「ナッチャンWorld」(10,712gt、2008年)を就航させ、再建途上にある。このよう に、日本のフェリー会社を取り巻く環境は厳しく、離島航路を経営する小さな運航事業者の中にも、廃業を余儀なくされるところが続出してい る。

 今日、日本政府は、所謂モーダル・シフトを推進して地球の温暖化を防止すべく、貨物輸送をトラックから鉄道・フェリーに転換しようと している。交通渋滞を解決すべく生まれて来た日本の長距離フェリーではあるが、今日では地球環境を保全するものとして再評価されている。

 日本の長距離フェリーは、一部の航路を除いて、貨物輸送が経営の根幹をなしており、旅客輸送は付随的なものである。したがって、今 後、多くの人々がフェリーを使って日本の領海で航海を楽しむ時代が到来すると考えることは、あまりにも楽観的である。しかし一方におい て、「海のバイパス」としてのフェリーの機能が注目されてもいる。私は船舶愛好家の1人として、フェリー業界の発展を願っている。

Information

 これは、ギリシャで出版が計画された書籍のために私が2008年に書いた原稿の日本語の草稿です。それまでにドイツのFerries 等に発表した原稿などを基にして書いたものですが、残念ながら、この書籍は出版されることはありませんでした。そこで、ここに掲載するこ とにしました。

 2008年当時のものなので情報が古くなっていること、欧文で書くことを予定して書いた草稿なので、多少、日本語として不自然なもの になっている点は、ご了承下さい。