ちんこ世界論(1)
 気が向いたのでこんなページを作ってみます。

 モトネタは「人工世界論」です。相手にするのもバカらしいような珍説ですが、せっかく考えてくれたのですから一緒に楽しんでみれば「締め切りに追われてアップアップしている」今日この頃の、アタマの柔軟体操になるかも知れません。

神の存在を信じるか、信じないかという問題は信仰ーつまり心理的な問題であるから、このようなことに正確な答えを与えることはできない。しかし純客観的に、神が存在するか、存在しないかということは答えられる、なぜならそれは単に科学的な問題だからである。この世界が基底現実ではなく、人工世界であることが証明されれば、当然神の存在が証明されたことになるだろう。 →人工世界論、冒頭より

 のっけからステキな状態です。神が存在するかしないか?は「科学的な問題」だそうです。 さて、科学的な問題とはいったい「どんな問題」なのでしょう。いわゆる「自然科学」の問題だとするなら…

自然科学 しぜんかがく 、natural science)とは、一定の方法により一般的な法則を導き出すことで 自然 の成り立ちやあり方を理解し、説明・記述しようとする 学問 の総称。 →出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

 とあるように「一定の方法により一般的な法則を導き出す」という過程が、科学の目的の前提にあるようです。つまり、ここでいう「神の存在証明」においては「神の存在を一般的にする」ことができれば良いわけです。ところが、神というのは基本的に「超越存在」であろう、と私は思っています。おそらく、多くの人もそう認識していることでしょう。ところが、自然科学とはその名の通りに「自然」を扱う学問であって「超自然」だとか「超越存在」を扱う学問ではありません。さらにいうならば「超すごい!」から神なのであって、自然科学で語れるような存在であるならば、それはもう神とはいえません。

 また「一般的な法則」とは、ある条件を満たしたならば、いつでも、誰にでも検証可能な法則を示したものです。つまり、ある実験の結果が、別の人によっても、さらにまた別の人によっても、同じ条件さえ整えれば「共有できる」ことが科学の条件であるようです。もし本当に、神の存在が「単に科学的な問題」なのであれば、この方法論を用いて神の存在を証明することができるでしょう。

 ところが「 この世界が基底現実ではなく、人工世界であることが証明されれば〜」とあるように、筆者は間接的に神の存在証明が行える、としたようです。ちょっとだけアイディアマンですね!しかし難解な用語が出てきました。「基底現実」です。基底現実っていったいナンなんでしょう?

基底:基礎となる底面、基礎となっている事柄、基本、根底、 線形空間の任意のベクトルをその線形結合で一意的に表せるベクトルの組(数学用語)。 →goo国語辞典より

 どうも意味が通じませんね。そこで、もう少し調べてみると

基底状態:ある量子力学的な系の定常状態のうちで、エネルギーが最も低く、安定な状態。 →同じくgoo国語辞典

 と、いうのがありました。でもやっぱりよく分かりません。筆者はこの世界が「基本的な現実」だとか「量子力学的に定常状態な現実」ではない=「人工世界である」ことが証明されれば、神の存在が証明できる、と言いたいようですが、ちんぷんかんぷんです。そもそも基本的な現実ってなんでしょう?定常状態ってなんでしょう?すごく形而上学的な話ですね。しかし科学は形而上学ではありません。

 うんと善意的かつ恣意的にに解釈して、筆者の主張を、この世は「作られたものではない」と「作られたものである」の二極対立にすると、なんとなく意味が通じます。私たちが現実と認識するこの世界が「被造物」であるならば、それは「誰かに作られた」ものであるから、その誰かとは神である、と言いたいのでしょう。しかし、仮にこの世界が「作られた」のだとした場合、なんでそれを神としなければならないのでしょう?

今までありとあらゆる神学者、哲学者が神の証明に挑戦し、すべて失敗に終わった。だから今度も失敗するだろう、と考えるのが普通である。 →人工世界論より

 はぁそうですか…。筆者はいったいなにを言っているんでしょう。かなり「妄想壁」が強いか、なにも知らないか、知っていても忘れてしまうか、のどれかと思えます。確かに、アイザック・ニュートンをはじめ、多くの科学者や哲学者が神の存在を証明(あるいは不在証明)しようとしました。しかし、それは「失敗」だったのでしょうか?その時々の知識の範囲において、あるいは社会通念の中において、それらの証明は一定の「評価」を得ていました。
  あるいは、神学者による宗教的な「神の存在証明」は失敗でしょうか?少なくとも、巨大宗教の信者たちは、信者であるというグループ内において普遍的に神の存在を受け入れています。これのどこが失敗なのでしょう?

 筆者は「失敗である」と述べているものの「なにがどのように失敗なのか?」については、少しも触れていません。あるいは、失敗であると主張する「根拠(ソース)」を提示することもしていません。科学とは「仮説と実証」を作法とします。ところが筆者は「ただ主張するだけ」なのです。

科学知識に乏しい者でも、この世界がある種の物理法則によって動いていることに疑いを挟む者はいないだろう。もしその物理法則の中に人工物が混じっていたら、人工世界だと疑わざるを得ない。 数学者、科学者によれば、自然な論理は+、−、×、÷、=の五つで、二乗して−1になる虚数iは物理的に存在せず、数学の中だけで出てくるもので、これは人間が人工的に発明したものである、ということになっている。 →人工世界論より

 きました!ここが序盤のカナメです。
  科学知識に乏しいのはおそらく筆者ですが、 この世界は「ある種の物理法則」によって動いているのではなく、(人間の考えた)物理法則によって支配されている、と「人間は観測している」のです。もしかすると、別の方法(視点)で観測すれば違う法則が見えるかも知れません。あるいは見えないかも知れません。しかし、私たちが人間である以上は「人間にできること」という制約に阻まれるのです。これがつまり、人間および科学の限界です。私たちは観測そして実証可能な領域しか「見えない」のです。また、それが「科学であるのなら」見えない領域について言明することは、すなわち科学的ではないことを意味し、自己矛盾してしまいます。

 「 もしその物理法則の中に人工物が混じっていたら、人工世界だと疑わざるを得ない。

 確かに、たとえば生物の遺伝子コードの中に我々が使うような自然言語が混ざっていて、「こんにちは!」などと書いてあったのなら、創造主のイタズラを想定せざるを得ないでしょう。それは「人間が作ったものではないはず」だからです。ところが、物理法則(の公式)は科学の方法論に基づいて、人間が仮説をたて、観測した事象を、ほかの人間にも共有できるように「モデル化」したものです。この、モデル化において数学や論理学がつかわれるのです。

 「 数学者、科学者によれば、自然な論理は+、−、×、÷、=の五つで、二乗して−1になる虚数iは物理的に存在せず、数学の中だけで出てくるもので、これは人間が人工的に発明したものである、ということになっている。

 「数」の歴史において、自然数だけが「実在」し、その他の数は「空想の産物だ」とする主張は「前時代」にはありました。ウィリアム・ロワン・ハミルトン(1805〜1865)のような数学者でさえ、負の数を導入するのにおおいに手こずったものです。しかし今日、そんなことを主張する数学者はいません。もしいたのなら、その人は数学者でもなんでもない、ただの無知な人でしょう。

 同様にして「虚数は空想である」という主張も、基本的な数学への誤解のひとつとして存在します。それはつまり「数えられるものだけが実在する」という主張と変わりません。
  虚数および複素数は、オイラー(1707〜83)によって名付けられた比較的「新しい」数の概念です。なるほど「数える」という原始的な意義において虚数は必要ありません。というよりも、たいていの「自然数以外の数」は、数えることには向いていません。

 ところがあらゆる数は「実用的」なのです。それは数えることを離れて「演算する」という目的において意義を持つものです。たとえば円周率(π)は、非常に実用的な数ですが、これを「実在する」と言えるでしょうか?円周率とは、言うまでもなく円の直径と円周との比率を表した数であり、一般的に用いられる「3.14」の数値はこの近似値です。近似値の桁を限りなく伸ばして演算すれば、その計算結果は限りなく実測値に近づいていきますが、決して一致することはありません。しかし、完全ではないが十分完全な答えというのは実用に耐えるのです。この思想は古代ギリシアですでに発見されていました。

 数が『実在する』とは、いったいどういうことでしょう?筆者はこれにこたえていません。どこにいるかも分からない「空想の数学者」という権威を持ち出して、架空の存在に証明を委ね、自分ではなにもしていないのです。もちろん、ここに出てきた「架空の権威」は、どこにも存在せず、筆者の「脳内」にのみ住む誰か(または記憶)なのでしょう。しかし敢えて「数が実在する」という言明を考察するなら、実在する以上はその数が「現実の何か」を表すはずです。

 テニスボールを数えて見ます。1個、2個、3個・・・さてこうやって数えてみましたが、この行為のどこに「ボールの形状」だとか「材質」だとか「色」だとかが現れるでしょう。あるいは分子的な組成やボールというものが生まれた歴史について、数がなにかを明示するでしょうか。いやもっと単純に「テニスボールが1個」「テニスボールが10個」と数えることによって、なにか現実に影響を与えることがあるでしょうか。

かず すう number )とは、数量を表すために用いられる抽象的な概念である。

数字 はしばしば混同され、また混同しても問題がない場合もあるが、本質的には異なることに注意されたい。数字とは数を表すための記号である。これに対して、数とは我々の頭の中にある極めて抽象的な何かである。

例えば、 リンゴ が1個あるのと みかん が1個あるのは全く異なる事実であるが、我々はそこに何らかの共通するものを見出し、それを 1 と名付けている。 1 という数それ自体はリンゴやみかんではないし、それが存在するという事実を指す訳でもないし、まして縦や横に引かれた短い 線分 のことを言うわけではない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

 つまり、どんな数も、虚数単位iも、抽象的な「概念」であって現実ではないのです。数は現実と「関連づけられる」ものですが、現実そのものではありません。数はすべて人間が「道具」として考案したものであり、惑星や生き物や重力や量子のように、あらかじめあったものではありません。

因果律を整理して言うと、原初知的生命体の誕生→数学の発展、虚数iの発明→人工世界建設の際に使用→シュレディンガー方程式→人工世界内部に人間という知的生命体が登場→人間が数学を発展させ、虚数iを発明→人間がシュレディンガー方程式を認識→人間が虚数iに気付く→因果律を遡って推論→原初知的生命体の認識 ―――神の証明その1。 →人工世界論より 

 筆者は『神の証明その1』の結論として、シュレーディンガー方程式の中に虚数iが登場することを取り上げ、虚数は人工の数であり、シュレーディンガー方程式はこの世界の根源的な性質を表すものなのだから、この世界は「人工物」である、と結論しています。バカをいうもんじゃありません。シュレーディンガー方程式は、この世界の根源的な性質を「表そう」とはしていますが、それがすべてを「表している」わけではないのです。それは、非常に実用的な量子力学という科学の中で用いられる「仮説」ですが、その仮説はいつでも覆される「用意」ができています。

 因果律を整理して言うと、筆者は数学知識に乏しく、それも私のようなド素人よりもさらに乏しく、どこかで聞きかじった知識か脳内妄想で「虚数は人工物だ」という前提を見つけてしまい、しかも自己批判力に欠けるのでそれが「絶対の真実」である、と勘違いしてしまったようです。さらにシュレーディンガー方程式も「人工物」であることに気付きません。筆者はほとんどなんにも見えていないのです。
  数学、そして数が人工物である以上、それを応用して編み出したどんな方程式も人工物です。それは現実世界に関連づけられ、便利なものですが現実そのものではないのです。筆者が行っている主張は、最初から人工物であるものを見て、「あ〜これは人工物ですね」と言っているだけのことです。ほかの誰でも知っていることに、「いまさら気付いた」だけのことです。しかも重要な知識が欠けているために、それが「神の証明」になる、と思い込んでいます。

 筆者は「反論しろ」、という割に議論には応じません。それでもやっと出てきた言葉がこの程度です。

うーむ、この程度の反論しか上がってこないとは・・・じゃあ、アニメ声質感の存在は何かを指定してください。空間ですか、クォークですか、脳の複雑な構造体ですか?46億年使用されない質感が唐突に脳内に生じても、何の問題もないと?進化論によれば、生に必要ないものは消えるはずですが。 →筆者の言葉

 「この程度」の反論しかない、とするならば、それは「その程度」の言明しか筆者が行っていないからです。人工世界論が「バカ理論」であることを論じるのに、高度な数学や論理は必要ありません。人工世界論が「笑っちゃうほどくだらない」からこそ、同じようにくだらない反論で十分なのです。

 最後に、筆者の述べる「進化論」ですが、ここでも彼は根本的な間違いを犯しています。ニュートンの運動法則などの基本法則は「いつでも正しい」もので、ニュートン力学で記述可能な現象という「範囲」において絶対です。しかし科学法則にはそれ以外のものが多数あります。進化論はその最たるもののひとつで、統計法則の集まりです。しかも力学の基本法則に比べて遥かに複雑な「生物の変化」を扱う科学ですから、さまざまな例外を含むのです。しかし全体の傾向としては「生存に有利な形質は生き残り、広まる」と述べているのであり、これは「今のところ、正しい」とされています。

 「生に必要なものは消えるはず」と述べる筆者は、間違いなく進化論を知りません。おそらくその片鱗さえ知らないのでしょう。中立説を持ち出すまでもなく、生存に有利でも不利でもない(と思われる)中立的な形質および表現型は生き残ります。筆者は「アニメ声質感の存在」が生存に不利だと述べたいのでしょうか?

 結局のところ筆者は、自分の知識で説明できないことを、なんでも「神の存在証明」にしているだけです。しかも自分には十分な知識がある、と思っているので、その説明の不備に気付かず、それを指摘されても「この程度」と片付け、議論に応じることがありません。しかしそれは、裏を返せば自説があまりにも荒唐無稽で無根拠であり、科学的方法論に基づかないことを「知っている」証拠といえます。

 それでは、『ちんこ世界論』をご覧ください。

ちんこが萎えている状態が基底現実だとするなら、ちんこが勃起した状態は励起現実である。自然物であるちんこが人工物である二次元エロ絵や萌えアニメ顔や声に反応するのは、この世界が神によって励起されたことの証明になる。我々のちんこが三次元の存在である生物としての異性にだけではなく、二次元の被造物にも勃起させられる事実は、この世界が「膜宇宙=ブレインワールド」であり、ホログラムのように投射された虚像であることの証明ともなるだろう。神は我々の世界を二次元から創造し、ちんこの勃起によって励起させ、三次元として認識させているのである。→ちんこ世界論による「神の存在証明 その1」

 まぁ、こんなとこでしょうか…。

 2005/05/11:大文字ナン