黄河文明
| 中国の黄河文明 黄河文明のおこり中国の黄河流域では、漢民族が定住して粟やきびを作る農業や牧畜が早くから始まっていた。大村落が都市国家へと発展し、紀元前1600年ごろ、殷は都市国家を統一しておこった。
 
殷の文化
殷はすぐれた青銅器の文化や漢字のもととなる甲骨文字をつくった。
周の王朝紀元前1100年ごろには、殷に代わって周が中国の北部を支配し、王は諸侯に領地を与え治めさせた。
春秋・戦国時代紀元前770年ごろに、周が衰え封建制が崩れると、諸侯は領土をめぐって争った。
 
春秋・戦国時代の産業春秋・戦国時代から、鉄製の農具が使われるようになり、牛を使う耕作も広まり農業生産が高まった。また、商業では貨幣がつくられ、塩・鉄などが取り引きされた。
孔子と儒教孔子は人間として行うべき道徳や政治の道を説き、儒教のもとをつくった。
 | 甲骨文字 亀の甲羅や牛の骨を火であぶり、表面に生じたひび割れで吉凶を判断する占いをし、この結果が甲骨の表面に象形文字だ刻まれたのが甲骨文字。
 
 殷王朝の都の跡
 黄河下流域で発見された遺跡で、地下深くから国王の墓が発見され、その他に亀の甲やけものの骨、貨幣なども出土した。
 
 孔子
 儒教のもとを開いた思想家で、君臣の区別を重んじ、思いやりの心(仁)をもち、孝行や忠義に励めば国がよく治まると説いた。「論語」は孔子の教えをまとめたもの。
 | 
| 秦王朝 
秦王朝
紀元前3世紀、秦の始皇帝が初めて中国を統一し、始皇帝は、北方の遊牧民の侵入を防ぐため、国を総動員して万里の長城を築いた。
 
始皇帝の政治郡県制度、貨幣の重さや長さなどの単位の統一をした。また、学問や思想の統制をし、孔子の教えをまとめた儒教の弾圧も行った。
秦の滅亡秦の始皇帝死後、厳しい政治に不満をもった農民の反乱により滅んだ。
 | 万里の長城 現在の万里の長城は16〜16世紀の明の時代につくられたれんが造りのものであるが、秦の始皇帝築いたのは土を盛ったものである。中国北部の山なみを越えて全長約2400キロメートルにもなる長さだ。
 
 秦の始皇帝
 紀元前221年に中国を統一した秦の皇帝は、初代の皇帝ということから始皇帝と名のった。
 | 
| 漢王朝(新王朝以前を前漢、以後を後漢) 
前漢
秦王朝の滅亡後、再び中国を統一した漢は、長安を都として中央集権政治を行った。
 
武帝の政治前漢の全盛期は武帝の時代で、武帝は儒教思想を国学に定め、朝鮮半島北部を征服し、楽浪郡以下4郡を置いた。
シルクロード中央アジアやベトナム北部、朝鮮半島と大規模な遠征を行い、西方との交通が開けて、中国特産の絹布を遠くのローマにもたらすシルクロードの開通で東西文化の交流も進んだ。
前漢から新へ前漢時代は行われた遠征によって人民は重税を課されていた。社会不安を招いたため、1世紀の初めには、外戚に位を奪われ国号が新と改められた時期がある。
後漢新王朝の現実無視の政治は一般農民や豪族の反乱で崩壊し、光武帝は漢を再興して都は長安から洛陽に移した。
 
中国文化の基礎儒教が重んじられて国教となり、漢詩・漢文が発達し、紙の製法も発明され歴史書もつくられた。
漢王朝の滅亡後漢の末期には幼帝が続き中央政治が乱れたり自然災害により農民達の反乱(黄巾の乱)がおこり、豪族が独立する勢いとなって漢が崩壊する。その後、中国は魏・呉・蜀の三国に分かれたが、中国と朝鮮、日本(倭)などとも交流は続いた。
 | シルクロード 漢とローマを結ぶ交通路であり、中国産の絹は西方へ運ばれ、西方からは、馬やガラス、宝石、仏教などが中国にもたらされた。
 
 紙
 紙が発明されるまでは、木の札や竹、絹の布にも字が書かれていた。紙の製法が発明されることにより、記録したものの持ち運びも便利になった。
 
 三国時代
 黄巾の乱鎮圧のために各地で豪族が挙兵する中、後漢に仕えた曹操・曹丕父子の魏王に権力が集中して、漢王朝滅亡後、正統王朝を称える魏と、蜀の劉備、呉の孫権がそれぞれ皇帝を称したので、三国分立時代が入った。
蜀は263年に魏に滅ぼされ、280年には魏を奪った晋が呉を滅ぼして中国を統一した。
 | 
| 朝鮮の始まり 
中国の支配
朝鮮北部から中国北東部にまたがる地域には、早くから朝鮮の国ができていたが、漢は大軍を送ってそれを支配した。
朝鮮の三国
漢の力が弱まってくると、高句麗が勢力を強め、中国の支配をうち破った。また、朝鮮南部でも百済と新羅が小国を統一した。
 
朝鮮の文化朝鮮の三国は、政治の制度や農業技術、学問、仏教などを発展させ、日本にもそれらを伝えた。
 |  |