暴走レポート−1
「神」を気取るメディアギャング
中宮 崇
マスメディアの人の道にもとるゴーマンな実態を糾弾する『暴走レポート』。くしくも第一回目にやり玉に挙げるのは雑誌『放送レポート』。報道の自由のためなら何をやってもよいというのか?
さて、『放送レポート』なる隔月間のマイナー雑誌がある。毎号マスメディアに関する話題を中心に扱う雑誌なのだが、その5月号でペルー大使公邸人質事件における報道のあり方が特集されている。
その想像力の無さ、メディア中華思想のゴーマンさは全くあきれるばかりであり、「人の命よりも報道の自由」という非人間的な「メディアギャング」とでも言うべきマスコミ人たちの本音を垣間見ることのできる第一級の資料といえる。
共同通信の開き直り
そのなかでももっと愚劣なのが共同通信社社長の原寿雄による
「人質事件報道を考える」
なる記事。これは3月に広島で開かれた「マスコミ市民集会」なる講演会の内容をまとめたものである。よくもまあ、市民の前で堂々とこんな非人間的な講演を開けたものである。突撃取材で人質解放をおじゃんにしてしまうほどの極悪企業、共同通信社の親玉としては当然の発言といえないこともないが。
要するにドン原は、「人の命なんぞよりも報道の自由の方が重要である」と言いたいのである。なにしろ、目の前で少女がハゲタカに食われようが、人が刺されそうになっていようが、それを目の前にしたジャーナリストが彼らを放っておいてカメラを回してもいいと言うのだから。そして周囲から批難されても、「勇気を持って立ち向かい、負けてはならない場合がある」のだそうだ。
「報道の自由」を金科玉条のごとく奉るこの手のメディアギャング達は、「報道の自由」の存在意義を理解できるほどのおつむは持ち合わせていないようである。基本的に、我々が有している様々な権利は、我々自身の幸福や福祉の増進のために存在するのである。
贈賄現場を暴くために政治家のプライバシーを侵すといったようなことにならば、「報道の自由」を主張することは確かに我々の福祉の増進のためになる。しかし、死につつある少女を見捨ててその姿をカメラに収めるということによって、我々にいかなる幸福がもたらされるというのか?人が刺されるのを放っておいてシャッターを切り続けることによって、我々にいかなる福祉の増進がもたらされるというのか?
少女を見捨てたカメラマンはピューリッツア賞を獲得した。結局のところ、メディアが「報道の自由」を主張する場合のほとんどは、「メディア人の幸福の増進」が目的とされているのであって、我々市民の幸福のことなどこれっぽっちも考えてはいないのである。
メディアギャングのゴーマンな介入
次に、編集部がまとめた記事、
「ペルー日本大使公邸内取材への批難の嵐と
テレビ朝日のお粗末な対応はなぜだ!」
という記事。
普段ろくにテロについて勉強さえしたことがないドシロートが何を言うのか全く片腹痛いが、要するに、「突撃取材はたとえ突発的なものであっても人質の安全を脅かすことはないし、事件の解決も遅らせてはいない。それどころか、ペルー当局による武力突入を抑止したという意味においては、全くすばらしい行為である」というのだ。とんでもない思い上がりである。少なくとも、テロについて1時間でも勉強してから物を言うべきであろう。
まず、「突撃取材はたとえ突発的なものであっても人質の命を脅かすことはない」との主張。確かに状況によっては、なんら危険の無い場合も有得る。しかし、どんな場合でも危険はないとでもいいたげなこのような戯れ言にいかほどの妥当性があるというのか。もしそんなことを本気で信じているのなら、例えばイラン大使館人質事件や、浅間山荘事件のときに「突撃取材」してみればよかったのだ。身をもって自らの愚を思い知らされたことであろう。
次に「解決を遅らせてはいない」という主張。これは全くのでたらめだ。現に共同通信社の「突撃取材」によって、人質50人の解放の約束がぶち壊されたことは周知の事実である。
これに関しては記事の中で、「ゲリラ側は「大統領は嘘をつくな」と猛反発している」などと馬鹿なことを書いているが、このようなデマまがいの書き方は読者を騙そうとする犯罪的な行為である。確かにMRTA(ゲリラではなくテロリストである)はそのような反論を行ったが、反論をしたのはヨーロッパにいる「外部の」MRTAスポークスマンであって、大使公邸に居座っている「当事者の」MRTAではない。ましてやボスのセルパが反論したわけではない。
外部との通信手段が限られているセルパが、交渉内容について外部のMRTAと緊密に連絡を取り合っているとは考えられない。つまり、セルパ自身の反論で無い以上、ヨーロッパのMRTAが何を言おうとそれは単なるプロパガンダ、もっと言えばメディア向けの「嘘」に過ぎない可能性が大きいのである。メディアギャングどもにはその程度のことを考える脳みそも無いのである。いや、ひょっとしたらわかっていて嘘を垂れ流しているのかもしれない。
最後に、「突撃取材は武力突入を抑止した」という主張。もはや、「馬鹿は死んでしまえ」と言ってやりたい。「武力」の存在意義は、「行使」のためよりは「プレゼンス」、はっきり言ってしまえば「脅し」のためにこそあるのである。これは軍事学上の常識であるし、今回のようなテロ事件についても同様に言えることである。ペルー当局にとって、「武力」は人質の無事解放のための交渉におけるもっとも有力な切り札なのである。その切り札をメディアギャングどもは「抑止した」などと恥ずかしげも無く自慢するのである。
ペルー当局から「武力」というカードを奪っておいて、一体どのようにMRTAと交渉せよというのか。金を与えろというのか?凶悪な犯罪者を釈放してやれとでも言うのか?結局のところメディアギャングどもは、自ら「俺達はMRTAの手助けをしているのだ」と声高に叫んでいるようなものなのである。
つまり、あたかも人命を重視しているがごときふりをしているメディアギャングどもは、実は人質の解放を遅らせ、その命を危険にさらすことをやっているのである。そりゃあそうであろう。事件が長期化した上に人質の命が失われた方が、短期間に無事に解放されるよりも遥かに「メディア人の福祉の増進」という目的が達せられるのだから。
なかみや たかし・本誌編集委員