強奪される「知る権利」
                                    宮前 寿郎



我々から「知る権利」を奪うのはペルー当局ではなく、ゴロツキマスコミ人である!


 長きにわたったペルー人質事件においては、昨年末に引き続き、1月7日になってまたもや「カミカゼ取材」が試みられた。今回の犯人は、テレビ朝日系広島ホームテレビの人見記者である。

 前回「カミカゼ取材」を試みた共同通信の原田記者と共通するのは、両者とも、自らの愚行を正当化するために数々の嘘をつきまくったということであるが、それは彼らマスコミ人がいつもやっている事であるから今さら目くじらを立てるのも大人げないかもしれない。

 そんな数々の悪事の積み重ねなんぞ一発で吹き飛ばされてしまうほどの凶悪かつ卑劣な犯罪を彼らは犯しているのである。それは「市民の知る権利の強奪」という罪である。

 彼らは「市民の知る権利」のために公邸に突入したのだと弁明した。権利のためなら人質の命を危険にさらしても構わないのかという議論はひとまず置いておくとして、いつ我々が「公邸に突入して中の様子を見てきてください」と彼らに頼んだというのか。自らの手柄獲得のために勝手に我々市民の意見を代弁して利用する、これが「市民の知る権利の強奪」でなくて何であろうか。

 マスコミは自らの犯罪的行為を正当化するためにいつもこういうのである。「市民の知る権利のためである」と。彼らは市民にアンケートでもしているのだろうか?いつだれが、彼らにそんな馬鹿なことして欲しいと頼んだというのであろうか。

 彼らが本当にそれほど「市民の知る権利」を尊重しているというのならば、私は一市民として彼らに要求しよう。「北朝鮮に潜入して、本当に国民が飢えているのかどうか調べてきてくれ」と。「ボスニアやチェチェンに行って、弾が飛び交う中戦いの実態を調べてきてくれ」と。「爆発した原子力施設の中に入って、放射線を浴びてでも破裂したドラム缶をテレビカメラに収めてきてくれ」と。

 他人の命を犠牲にしてまで「市民の知る権利」とやらを尊重しているというのならば、当然これらの要求全てに応じてしかるべきであろう。実際、欧米のジャーナリスト達は少なからず、そのような極めて危険な取材を自らの命を懸けてまで行ってきた実績があり、実際に多くの命が失われてきた。

 だが、それほどまでに「市民の知る権利」を後生大事にする(振りをしている)日本のマスコミ人が、いったい今までどれほど死んでいるというのか?戦場などの危険に身を投じて「市民の知る権利」に身をささげている日本人ジャーナリストがどれほどいるというのか?そのような危険地域にごくまれに見られる日本人ジャーナリストも、新聞社やテレビ局に属さないフリーの人間ばかりである。

 要するに彼らは、自分たちののぞき趣味と手柄欲しさのために「市民の知る権利」を騙っているだけなのである。だいたい考えて見るとよい。オウムによる坂本弁護士殺害事件の引き金になったといわれる「TBSビデオ事件」の時、TBSは我々市民の「知る権利」を満足させるような内部調査を行ったであろうか。全ての責任を一プロデューサーに押し付けるための「特別番組」とやらでお茶を濁したのではなかったか。


 彼らがのぞき趣味と手柄欲しさのために取材をするのなら、それはそれで良いのである。世の中にはそう言う卑しい人間の働ける場も必要であろう。数多くの報道の中から、我々市民自身がどれが正しい報道でどれが批難されるべき報道かを判断すればよい。許せないのは、勝手に我々市民の名のもとに「知る権利」が騙られているという点なのである。いくら卑しくても、そこまで卑しくなられては困る。そのような盗人どもをすべて豚箱にほうり込み、日本マスコミの新生を図る、それこそが我々市民にとってのベターな選択なのではなかろうか。


                                 みやまえ としろう・学生



編集部注:本来投書としてお寄せいただいたものを、編集部が一部編集した上、記事として掲載いたしました。


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