「おめでとうございます!」の狂気
中宮 崇
4ヶ月ぶりに解放された日本人人質に、犠牲者の事を省みず「おめでとうございます!」との声をかける日本の馬鹿メディア人たち!3名の犠牲者にしてみれば、なにがめでたいものか!
4ヶ月以上にわたった不当な拘束から解放され、バスに乗り込む人質たち。彼らの表情に現れた安堵と疲労感の入り交じった複雑な感情が、ブラウン管を通じてさえひしひしと伝わってくる。
自らの手柄のために人質の命を顧みない卑劣なる日本の報道陣たちの存在は、ペルー当局の武力突入を確実に困難なものにしていたはずである。「犠牲が相当出ているに違いない」、普通の頭を持っていればそう考える。
ところが、どこまでも破廉恥な日本人報道陣たちは、解放された人質たちを目の前に口々にこう叫んだ。「おめでとうございます!」。
運良く助かった人々の陰に、少なからずの犠牲者が存在するに違いないという赤ん坊でも想像できそうな事が、馬鹿マスコミ人たちの貧困な頭には浮かばなかった。そして彼らは、日本語でしか「おめでとうございます!」を言わなかったのである。
日本人相手に商売をしているこの手の卑劣漢どもの貧困なおつむには、ペルー人の人質たちに言葉をかけてあげるという「商売にならない」行為を行おうという考えは、これっぽっちも浮かばなかったのである。そして数ヶ月にわたって現地に張り付いていた連中が、「おめでとうございます!」という現地語の一つも勉強しておこうとはしなかったのだ。普段我々に「国際化」の必要性を偉そうに訴え続けているマスメディアの人間のやることがこれなのである。
解放の喜びに満ちた映像を眺めつつ、私は暗澹たる思いに押しつぶされそうになった。なんたる想像力の無さ!なんたる常識の無さ!これらの馬鹿どもが、毎日偉そうに現地の情報を「実況生中継」するだけでなく、過去の武力突入についての勉強にほんの一時間でも時間を用いてたならば、我々は決してこのような破廉恥な映像を見せつけられる事はなかったに違いない。そしてこの映像に対するアナウンサーどものコメント、「作戦は成功に終わりました」。正気ではない。
武力突入、それは、極めて危険なカードである。過去の事例を見ても、犠牲者が出なかった例はまれである。人質に「おめでとうございます!」と日本語だけで呼びかけた報道陣たちには、この知識は確実に無い。
日本国内では、海外での航空機事故などの場合には必ず、「日本人の乗客はいないと のことです」という愚劣なコメントを付け加える。普段から外国人労働者の権利を擁護する事に余念の無いメディアや知識人、人権団体の連中に限って、それらの外国人たちがこのような無神経なコメントにどれだけ苛立たされているか考えが及ばないのである。
同様の事が今回の「おめでとうございます!」についても言える。今回は日本人からは一人も犠牲者が出なかった。犠牲となったのは、全員ペルー人である。
命を懸けて突入した隊員が死に、ペルー人の人質にも犠牲が出た。そこに「おめでとうございます!」である。ペルーの人々は、一体どのように感じるであろうか?
事件の前はペルーを無視し、事件の最中はペルー当局の足を引っ張り人質の命をチップとし、事件解決後はペルーの人々の心を逆なでする日本人取材班達。彼らを送り込んだ放送局、新聞社は、MRTAの悪行を棚に上げてフジモリ政府の粗探しに血道を上げていたはずである。朝日新聞などの一部の馬鹿はこう伝えた。「高い塀に囲まれて、贅沢三昧のパーティー騒ぎ。ペルーの貧しい人たちは一体どのように感じているだろうか?」と。
それほどペルーの人たちの心に気を配っていたなら、「おめでとうございます!」という言葉が出てきたであろうか?実際には彼らは、ペルー人の事などこれっぽっちも考えてはいなかったのである。そのことがいっきに明らかとなったのが、「おめでとうございます!」という掛け声なのである。
「おめでとうございます!」。この言葉の裏には、日本のマスメディアの倫理の無さ、想像力の欠如、他人を思いやる気持ちの無さその他もろもろといった、彼らの犯罪的側面が集約されている。普段はエラソーに我々市民に説教を垂れ、いざとなると自分たちはそれを守れないメディア。彼らを放置しておくのはあまりにも危険である。
今、ゴロツキメディアに翻弄されている我々市民にできる事、それは、メディアの伝えることを鵜呑みにしない事、伝えられる内容について自分の頭で考えてみる事である。そうしてメディアを我々市民への真の奉仕者と変革させる事ができて始めて、諸外国の人々は日本に声をかけてくれるだろう。「おめでとうございます!」と。
なかみや たかし・本誌編集委員