「朝生」への鎮魂歌 その1


                           中宮 崇


田原総一郎無き「朝生」は、既に死んだ!


 当初、討論オタク向けの深夜番組に過ぎなかったテレビ朝日「朝まで生テレビ」は、今や押しも押されぬメジャーとしての地位を確固たるものとしている。日本に満ち溢れる様々なタブーを打ち破り、日本のディベート文化の先駆者としての役割を果たしたこの番組の存在は、恐らく日本テレビ番組史の黄金版に永く刻み込まれる事になろう。

 しかしその朝生の栄光が、司会の田原総一郎の個人的手腕に大きく頼っていたのだという事も、最近明らかになりつつある。

 田原は最近、健康上の理由などからレギュラー司会の座を明け渡し、徐々に朝生との関わりを薄くしていっている。それに伴い、朝生がどうも最近おかしくなってきている。

 田原が司会をつとめない回は各界の人間が司会をする事になるのだが、そのほとんどがひどい出来に仕上がっている。特に昨年放送された「女子高生とニッポン」の回は女子高生を全く馬鹿にした相当ひどいものであったが、それさえも1月31日放送の「従軍慰安婦問題と歴史教育」のめちゃくちゃさ加減には足元にも及ばないであろう。


土俵は完璧!


 そもそも司会の「婦人公論」編集長水口義郎からして、頭から「自虐史観派」の人間であり、既に討論の公平性を欠いていた。ところがそんなのは序の口、実はこの番組自体、「自虐史観派」によって仕組まれたものだったのである。「自由主義史観」と「自虐史観」のぶつかり合いは、「従軍慰安婦は強制連行されたのか?」という「歴史上の事実認識」の検証が大きな争点となっているのであるが、この司会者は頭からその問題を無視し、「日本はどうしたらアジアから赦してもらえるのか」という問題だけにスポットライトを当てるコメントを冒頭に行っていた。

 また、朝生は毎回、一般の視聴者をスタジオに何十人か集めるのであるが、そのほとんどが実は、「自虐史観派」の市民団体や左翼組織が動員して押し込んだものである。彼らだけでそのような「陰謀」を実行できるはずはないから、おそらくテレビ朝日の人間も一枚かんでいたのであろう。その仕組まれた「一般視聴者」が、反対派の意見をいちいち野次り封殺しようとてぐすねを引いて待機しているのだ。

 その結果、スタジオで意見を述べた「一般視聴者」とやらは、実は民青(共産党下部組織)の人間であったり、漫画家小林よしのりを弾圧した「市民運動」の人間であったり、自虐史観の有力団体、出版労組の人間だったりと、とても「一般の視聴者」とは思えない連中ばかりであった。しかも彼らは、卑劣にも自分たちの身分を隠していた。ただ隠すだけならまだしも、「我々一般の市民にとっては」などととんでもない枕詞を使って、視聴者を積極的に騙そうとしていたのだ。たまにこの番組に出てくる「右翼」団体の一水会などが、堂々と自らの身分を明かすのとは対照的である。

 ちなみにスタジオで「一般視聴者」を騙って発言していた出版労組の人間は、「櫻井よしこ弾圧事件」の立役者でもあり、後にテレビ東京の教科書問題特集で自らの言論弾圧を「当然の行為」として肯定する発言をしていた。

 つまり、「自虐史観派」は既にこの時点で、司会者とスタジオの「一般視聴者」を抱き込む事に成功していた。そういう、とても「公正な討論」など望むべくもない圧倒的に偏った舞台を用意した上で、宿敵「自由主義史観派」を迎え撃ったのである。ここまで小細工をしておいて勝てなかったら、ほとんどただの馬鹿なのであるが、後で書くように彼らは勝てなかった。目の肥えた市民たちは、ここまで視聴者をなめきったマインドコントロール作戦に今時引っかかるようなことは無かったのである。


おれたちゃ王様!


 そもそも、番組に出演した「(エセ)自虐史観」の人間は、「俺達はえらい!地球は俺達中心に回っている!」といったような態度の人間が多かった。

 例えばドイツ在住の「ジャーナリスト」梶村太一郎、何を思ったのかこの男、冒頭から「私はわざわざ遠いところやってきた」などとやり始めた。別にこんな人間にわざわざ日本に来て欲しくなどないのであるが、いったい彼は何が言いたくてこんな言い方をしたのであろうか?

 それに梶村は「わざわざやってきた」などと言いながら、番組より少し前の「自由主義史観」の記者会見などにも「わざわざ」顔を出していたのであるが…。しかもその「記者会見」の場で、「ジャーナリスト」でありながら「議論」を挑むという、全く「事実の公平な報道」などからかけ離れたことを平気でやるような人間であるのだ。

 また、このような連中の常なのであるが、勝手に何かを代表して物を言うという忌むべき特徴が挙げられる。例えば梶村は、勝手に「海外在住の日本人」を代表して「あんたらのせいで、海外在住の日本人は恥ずかしい思いをしている!」などと言い、神奈川大学教授の尹健次は勝手に「在日朝鮮人」を代表して物を言い、琉球大学教授の高嶋伸欣は勝手に「教師」を代表して物を言い、元朝日新聞の下村満子やルポライターの西野留美子は勝手に「女性」を代表して物を言う。いい加減にしてもらいたいものだ。自分たちの事を何様だと思っているのか?「他の人たちも自分と同じように考えていて当たり前だ」などと思っているのであろうか?そうでなければ、こうも勝手に何かを「代表して」物を言う事などできまい。

 さて、ドイツ在住の「ジャーナリスト」梶村太一郎についてもう少し書こう。彼はジャーナリストというよりも、どうも総会屋に近いような性質の人間である。相手の発言を絶えず野次り茶々を入れ、自分の意見と反対側の人間の意見を全く聞こうとしない。しかも司会者も彼と結託しているらしく、討論を妨害するようなこの一連の行為を全く制止しようとはしなかった。その上「自由主義史観派」の主張中に「それは調査した事なのか?」などと自ら問い掛けておいて、自分達に都合の悪い「調査報告」を提示されるという思っても見なかった事態が発生すると、「都合のよいところは取材するのだな!」と捨てぜりふ。まあ、まともな人間ではあるまい。

 一番傑作だったのは、小林よしのりが「今のところ強制連行を証明する史料は出ていない」と発言したときに、「じゃあ、私が後から(証拠の史料を)見せてやる!楽しみにしておけ!フン!」と言い捨てた場面。あんたは餓鬼か。しかも後で扱うように、その「見せてやる」資料とやらが全く御笑い種で、ただの中国のプロパガンダ文に過ぎなかったのだから情けない。

 また、「外人」代表として出演していたデイブ・スペクター、彼も相当イッチャッテいて、「自由主義史観」の人間に対して言いたい放題。「覚醒剤でもやっているんじゃないの?」、「狂信者」、「自民党のアブラぎった人たちから金もらっているんでしょう?」、「本の印税が入ってくる金持ちの言う事じゃあ説得力ないよ!」などと、よく放送コードに引っかからなかったものだと感心するぐらいの下品で根拠無しの発言ばかり。ところが「自虐史観派」に丸め込まれている司会者は、にやにや笑いを顔に浮かべるだけで、注意しようともしない。

 ちなみにデイブ・スペクターは今回「味方」である下村満子のことを以前、「下の名前は、別の読み方をしたら放送コードに引っかかるくせに!」などというなんとも信じがたい発言もしていたのであるが、よくこんなのをまじめな討論番組に出すものだ。

 思った以上に長くなりそうなので(何と、予定した内容の半分も書いていない!)、続きは次回。


                              なかみや たかし・本誌編集委員


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