嘘にまみれた「(エセ)自虐史観派」
―――「俺さま」さんからの御批判に寄せて―――
中宮 崇
「学術的」を騙る学者に支えられた「自虐史観」!
「自虐史観」の人間は、嘘がうまい。さらに深刻な事に、自分たちが嘘をついているのだということ自体に気づいていない。すでに精神病理学の段階に入っているように思える。そのあたりの心理は、
「平気で嘘をつく人たち」
M・スコット・ペック 草思社
に詳しい。彼ら「(エセ)自虐史観派」は「(エセ)市民運動」の心理が手に取るように分かるようになる。
例えば、「自由主義史観派」が「従軍慰安婦」による証言の矛盾を指摘すると、「おまえたちは、被害者の証言を疑うのか!」、「被害者が嘘をついているのか!」とくる。嘘をついているのは彼らの方なのだが。
冤罪を作り上げる「トンデモ捜査官」達
「証言」というものが、「一かけらの真実といくつかの勘違いと多数の認識不足」によって構成されているというのは、犯罪捜査や歴史学に関係する人間ならば誰でも知っている事であり、また知っていなければならない事である。それなのに「自虐史観派」は、「証言」は「100%の真実で構成されている」と勝手に仮定し、「証言」を丸まる鵜呑みにして悦に入っている。
そのことの危険性と欺まんを指摘する「自由主義史観」の人間に対して、「自虐史観派」は「証言者が嘘をついているというのか!」とくる。彼らのような狂信者とは、まともな話は出来まい。後で書くように、実は彼らは既に「運動」に乗っ取られているのであるから、オウムと同じで「狂信的」なのは当たり前なのであるが。
証言者の意見を疑ってはいけないというならば、例えば太平洋戦争開戦時のハワイ真珠湾で「ドイツ軍の飛行機を目撃した」という実際にあった「証言」をも疑ってはいけないというのであろうか?
「証言」というものが本質的に、ほんの一部の真実しか含んでいない以上、それら多数の証言の中から少しづつ「真実の一かけ」を集めてまわって「真実」と思われるものを再構成するというのが、捜査官や歴史家の本来の役割であり、その存在意義であるはずだ。そうでなければ、捜査官や歴史家などいらない。「証言」を丸々鵜呑みにするだけなら、捜査官や歴史家でなくても、赤ん坊でも出来るのであるから。
ところがそういう当たり前の態度を取ろうとする「自由主義史観派」の人間に対し、「自虐史観派」は「証言をすべて信じろ!」と強弁するのである。決して彼らのような人間を警察官にしてはいけない。戦前の特高警察国家以上の暗黒社会となってしまうのは確実であるから。
「自虐史観派」が常に言っている嘘、つまり、「自虐史観派は、全ての証言を嘘であると考えている」などという言葉、どの「自由主義史観派」がそんな事をやっているというのか?また、これもよくつかれる嘘であるが、「自由主義史観派は、従軍慰安婦や南京大虐殺などが無かったなどといっている」と言う嘘、どこの誰がそんな事を言っているのか、是非とも教えて欲しいものだ。
「自由主義史観派」が言っている事は、例えば「従軍慰安婦は、軍が強制連行したのではなく、業者が集めたのだ」とか「南京大虐殺で30万人殺されたといっているが、多くても15万であろう」といったような事であり、「従軍慰安婦はなかった」とか「南京大虐殺が無かった」などというトンデモ人間が、いったいどれほどいるというのか?
そのような特殊な人間のことを一般化し、あたかも「自由主義史観派」のすべてが「従軍慰安婦や南京大虐殺はなかった」と言っているかのような嘘をつくのはいったいどういう神経をしているのであろうか?彼ら「自虐史観派」いや、「エセ自虐史観派」の人間が正常なバランス感覚を持ち合わせてはいないという事の好例であろう。
まとめると、「自虐史観」の人間は「歴史の真実」など探求しようとはしてはいないという事だ。「証言は全く疑ってはいけない!」などというのだから、これは誰も否定できまい。一方、「自由主義史観派」は、少なくとも「歴史の真実」を探求しようという(見せかけかもしれないが)態度だけは取っている。
「自虐史観派」が頻繁につく嘘によって、「自由主義史観派」があたかも「従軍慰安婦」の歴史的事実を抹殺しようとしているかのように見られているが、そうではない。現に彼らは、「従軍慰安婦はあった」とことあるごとに明言している。「自由主義史観派」がやろうとしている具体的な行動でもっとも大きいものは、「新しい歴史教科書をつくる」ことである。つまり、今までの「自虐的」教科書とは別の選択肢を作ろうというのである。
ところが「自虐史観派」は、そのような自分の意見と異なる「選択肢」を用意される事そのものに我慢できないのだ。だから、「自由主義史観派」が教科書をつくること自体に強硬に反対している。本誌で扱った、「櫻井よしこ弾圧事件」と同じである。自分が気に入らない意見を消し去ろうとしているのだ。少なくとも、「自由主義史観派」はそのような言論弾圧は行っていない。
「歴史の真実」を探求していない「自虐史観」
「自虐史観派」の理論的リーダーたる「日本の戦争責任資料センター」の上杉氏や、中央大学の吉見教授は、さかんに「我々は学術的な研究を今まで長年してきたのだ」と言う。「朝生」のときも言っていた。それどころか、「我々は学術的な研究をやってきたのだから、こんなテレビの場に出てきて議論するべきではない」などと言うものまでいるという。これほど市民を馬鹿にした態度を取る学者もまれであろう。
しかし、奇妙な事に、彼らの言うところの「学術的研究」とやらの論文を見たことのある方が、一人でもおられるか?いるはずがない。なぜならば、「学術的論文」などもともと存在しないからだ。
学問には「学会」というものがある。当然歴史学にもいくつかの学会が存在する。論文というものは、そこで認められて初めて「学術的論文」と言えるのだ。ところがそのような論文は、彼らは一つも書いてはいない。わけの分からない嘘だらけの駄文はいくつも書いているが。
「学会」で認められなかったという事は、その論文が「客観的ではない」、「事実に基づいていない」ということである。つまり、「学術的に言えば」、「自虐史観派」は「主観的」な「嘘」の文章ばかり垂れ流して、それを勝手に「学術的」などと称して市民を騙しているのだ。これが「歴史の真実」を追求していると称している者の態度であろうか?つまり理性と良識の府である歴史学学会は、彼ら「自虐史観派」のことを「客観的で事実に基づいた事を書く勢力」とは認めていないのだ。
そんないい加減な人間が「中央大学教授」などという地位についていられるという事を取っても、日本の大学教育の御粗末さが見て取れる。良識ある市民は決して、相手が「大学教授」だからというだけでその意見を信じ込んではいけない。彼らがどんな「学術的論文」を書いているか(あるいは吉見教授のように全然書いていないのか)を確かめてから判断しなければならない。
こんな大嘘つきたちがいつまでも学者としてのさばっていては、「自由主義史観」に論理的に理性的に立ち向かえる勢力はいつまでも生まれない。「自虐史観の人間は、全員嘘つきである!」と一まとめにされて批難されるに決まっているのだから。
「運動」に乗っ取られている「自虐史観」
「自虐史観」はすでに、ひょっとしたら最初から、左翼勢力に乗っ取られている。例えば朝日新聞、共産党、労組、日教組、そういった連中が主導権を握っている。彼らがどれほど露骨に関与しているかは、「朝生への鎮魂歌」でも暴いた通りである。
従って、かれら「自虐史観派」の意見を一つづつ議論して修正し、「歴史の真実」を探求しようとする行為はもはや不可能である。オウムと一緒で、まとめて解散させてしまうしか方法はない。そうしないとこのままでは、「自由主義史観」の圧倒的勝利で終わってしまう。
従って本誌の立場は、「自由主義史観派」と対等の歴史論議の出来る「真の自虐史観」の確立、そして、今現在のさばっている「エセ自虐史観派」の撃破である。
少なくとも筆者は、「従軍慰安婦」を教科書から削除しようとする「自由主義史観」の立場に賛成する事は出来ない。きちんと教えるべきだ。一方で、嘘にまみれた現在の歴史教科書にも反対である。また、「エセ自虐史観派」がやっているような、「自由主義史観派」への言論弾圧にも反対である。彼らが「新しい歴史教科書」を作りたいというのならば、作らせればよい。選択の機会を広げる行為を、なぜ弾圧せねばならないのか?
「私は従軍慰安婦であった」という証言者が多数いる事は紛れもない事実である。また、彼らの中に、金欲しさで嘘をついていた者がいたという事も、既に暴かれた事実である。勘違いによると思われる証言の矛盾も、多数指摘されている。
しかし、だからと言って「従軍慰安婦はいなかった」というのは全くの暴論だ。「証言」という一次史料を扱う以上、それはどうしても付きまとう暗部であって、それを理由に「証言はすべて嘘だ!」と言い切るのは馬鹿げている。現に、そんな事を主張している人間は、「自由主義史観」の人間の中にさえもまれだ。「証言」の矛盾を突いている人たちは、単に「歴史の真実」を探求しようとする当然の作業を行っているに過ぎない。それを「証言が嘘だというのか!」と批難するのは、それこそ暴論である。
証言者が多数いるという事実は、少なくとも、性的に多大な辱めを受けたアジアの女性たちが確かにいたのだという事を示していると私は思う。それは「戦争」という悲劇に伴う人類が忘れてはならない暗部であり、そのことはしっかりと、子供たちに教えてゆかなければならない。その意味で、筆者は「自由主義史観」に全面的に賛成する事は出来ない。しかし、「歴史の真実」を探求しようとするやりかた、「新しい歴史教科書」を作ろうとする態度、つまり、彼らの「手法」には大いに共感している。
一方、相手の意見を圧力をかけて封殺したり、「証言」は100%信じるという理性を欠いた完全に恣意的な態度、意見の異なる相手について、嘘でも中傷でもなんでもありの汚い手、「歴史的事実」として確定していない事を無理矢理教科書に載せようとする強引さ、間違いを指摘されても謝罪どころか訂正さえも満足にしない卑怯な点といった、「自虐史観派」の「手法」にはまったく同意できない。しかし、「日本の戦争犯罪を教科書に載せる」という「自虐史観派」の「理念」には大いに共感している。
つまり筆者は、「自由主義史観」の「手法」と「自虐史観」の「理念」には賛成するが、「自由主義史観」の「理念」と「自虐史観」の「手法」には賛成できないという事である。ここから、「エセ自虐史観をつぶし、真の自虐史観を!」という筆者の立場が出てくるのである。
最後にもう一度、筆者の立場を。今現在既に、「自虐史観派」は「運動」に乗っ取られており、まともな歴史論議など出来るような勢力とはなっていない。このままでは、「自由主義史観派」の一人勝ちになってしまう。それを防ぐためには、大きな顔してのさばっている現在の「(エセ)自虐史観派」を叩き潰し、真の「自虐史観派」を作り上げなければならない、そういう風に考えているのである。
なかみや たかし・本誌編集委員