暴走レポート−3(その2)

本読まずのデタラメ批判


                             中宮 崇


中村教授は、本を読んでいないか読む能力がないか、悪意を持ってデマをばらまいているかのいずれかである!


 さて、名門一橋大学で教授などをなされている中村政則氏が、天下の岩波書店からお出しになった


   「近現代史をどう見るか―――司馬史観を問う」


という本について、引き続き書くとしよう。

 この先生、大学教授でありながら、しかも天下の岩波から出た本でありながら何と、自分が批判しようとしている司馬遼太郎の本も、「自由主義史観派」の本も、ろくに読んではいないのだ。本も読まずに、その本について批判する、まったくいい加減な人間である。大学教授からしてこの体たらくなのであるから、他の「自虐史観派」の連中なんぞ、そもそも語るに値しない程度の下らん奴等と見られてもやむを得まい。

 あるいは、実は読んでいるのであるが、わざと嘘と悪意に満ちた書き方をしているのであろうか?まあ、どちらにせよ、人間としてもろくなものではないという事は確かである。こんな大嘘つきでも大学教授などという職業に就いていられるのであるから、日本の高等教育の惨状はご理解いただけるであろう。

 中村がどれだけいい加減な人間であるかという事は、その1でも十分明らかであろうが、さらに駄目押しをしておくことにしよう。

 さて、中村のデタラメさ加減の決定的証拠を見てみよう。中村は「廃藩置県の歴史的位置―――藤岡説の問題」という節で、司馬と「自由主義史観」の頭目、藤岡信勝東大教授を、以下のように批判している。少し長くなるが、全部引用してみよう。


   ちなみに、司馬遼太郎は廃藩置県を「明治維新以上に革命的
   であった」(『「明治」という国家』)と最大限の評価を与えてい
   るが、どういう訳かこの文章では士族の軍事的・経済的特権を
   奪った明治九年の廃刀令・秩緑処分(中宮注:この書き方は
   間違い。正しくは「秩禄処分」)についてほとんど触れていな
   い。これでは相次ぐ士族反乱や西南戦争がなぜ明治九、十
   年に起こったかはほとんど理解できない。また司馬史観を信奉
   する藤岡信勝は、「私自身が『今の教科書ではだめだ、及ば
   ずながらも、歴史教育の改革に取り組まなければならない』
   と思った原点」は廃藩置県の評価にあったとしている(西尾幹
   二・藤岡信勝『国民の油断』)。

       途中略

   藤岡が明治維新についていかに一知半解の知識しか持って
   いないかが良く分かる。


 そもそも、「秩禄処分」の文字も満足に書けない程度の人間が、他人を「一知半解の知識しか持っていない」などと批判すること自体滑稽であるが、この文章は、中村が司馬や藤岡の本をまともに読んでいない、あるいは読解力がない、もしくは悪意を持ってわざとデタラメを書いているという決定的な証拠となっている。

 中村は「どういう訳かこの文章では士族の軍事的・経済的特権を奪った明治九年の廃刀令・秩緑処分(あ〜、恥ずかしい)についてほとんど触れていない」などと書いているが、どういう訳だか分からないのは中村の脳みその方である。

 当該文の直後に司馬は、「反乱という爆発は、後日おこります。正し今回はその爆発については述べません。」と書いており、秩禄処分や反乱に触れていないどころか、後でわざわざ丸々一章を割いて、秩禄処分と士族反乱について詳細に描いているのである。中村センセイはよほどお忙しいのか、自分が批判しようとする本はわずか一、二行しかお読みにならない主義なのかもしれない。好意的に解釈すればそうなろう。もっとも、普通に考えれば、「悪意を持って司馬と藤岡を貶めようとしている」と解釈されてもやむを得まい。

 司馬が当該文で秩禄処分等にほとんど触れなかったのは、中村が言うようにそれを無視したからではなく、あまりに重要で一言では語れない(まるまる一章を必要とするほどの)ような重大事であると認識していたからなのであるのに、しかもそのことは、司馬の本をきちんと読んでいれば馬鹿でもわかる事なのに、そのような「馬鹿でもわかる」ことが中村にはわからなかったのである。しかし、「自虐史観」の人間には、どうしてこういう下らん人間が多いのであろうか?

 また、引用文からわかるように中村は、藤岡が廃藩置県という言葉のみを用いて、「秩禄処分」という用語を全く使っていない事がご不満なようだ。「一知半解の知識しか持っていない」などとまでおっしゃっている。全くどうしようもないおつむだ。

 藤岡が「秩禄処分」という言葉を使っていないのは当たり前だ。ここでは藤岡は中学歴史教科書の問題を論じているのであるのだから。いったい、中学歴史教科書のどこに、「秩禄処分」という言葉が使われているというのか?

 中村が、「明治維新について語るなら「秩禄処分」という言葉を用いないといけない」と思っているのならば、攻撃すべきは藤岡ではなく、中学歴史教科書なのだ。まるでヤクザと変わりないインネン屋中村センセイには、ご理解いただけないようであるが。「一知半解の知識しか持っていない」のは、実は中村の方なのである。


                              なかみや たかし・本誌編集委員


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