情報独占の落とし子


                            中宮 崇


「自虐史観派」を生み出したのは、日本国政府である!


 従軍慰安婦問題においては、「自虐史観派」は、


   政府は強制連行の資料を隠している。今のところは証拠文
   書は発見されていないが、全ての資料が公開されれば、必
   ず証拠は見つかるはずだ


とよく主張する。

 そもそも既に5年近くの歳月を研究に費やしていると常々公言している「自虐史観派」の研究機関「日本の戦争責任資料センター」が、未だに証拠資料を発見できていないというのもなんとも無能というか情けないというか、他に言いようがないのであるが、彼らのような嘘つきたちの気持ちもわからない事はない。

 「UFO研究家」なる人たちが世の中に入るが、彼らはよく、


   UFOや宇宙人が存在しているという証拠を、政府は隠して
   いる!


などという世迷言を言うが、なんとも「自虐史観派」の主張とそっくりではないか。

 彼らのような奇人達をまともに相手にする必要は全くないが、そのような「奇人」が発生してしまうという、この社会のメカニズムやシステムについては、考慮する価値があろう。奇人の発生がより少なくなるようにできないであろうか?

 それは出来る。簡単な事だ。彼ら「奇人」たちが常用する「口実」を封じてしまえばよいのだ。つまり、


   政府は証拠を隠している!


という安易な言い訳を使えないようにしてしまえばよいのである。具体的に言うと、政府等の行政機関の情報・資料は「原則公開」にしてしまえばよい。

 現在日本においては、行政機関が保有する情報は原則非公開である。公開されている情報は、行政機関が「これなら発表しても大丈夫だ」と自らが判断を下したものに限られている。そのため、市民が情報を閲覧しようとする場合、閲覧のための「正当な理由」を提示してやらなければならない。理由が正当ではないと判断された場合には、閲覧は許可されない。だから、情報公開に関する裁判は、「情報公開要求が正当なものであるかどうか」を問うものとなる。

 「原則公開」へと制度を変えてしまえば、市民と行政機関との立場は完全に逆転する。つまり、市民が情報を閲覧する場合には、その理由を提示する必要などなくなるのだ。理由がなんであれ、原則的に閲覧は許可されなければならない。行政機関がどうしても情報を公開したくない場合には、その理由を市民に対して提示しなければならない。その理由が正当なものと判断されなければ、情報の公開を拒む事は出来ないのである。だから情報公開の裁判は、「情報公開をしたらまずいかどうか」を問うものになる。

 このように制度を変えてしまえば、もはや「政府は強制連行の証拠を隠している」とか、「UFOや宇宙人が存在するという証拠を隠している」などということは言えなくなってしまう。なぜなら、そもそも証拠を隠すという行為自体が不可能となってしまうからだ。つまり考え方によれば、


   「自虐史観派」や「UFO研究家」のような奇人達を生み出し
   たのは、行政機関による情報独占が原因である


とも言えるのだ。

 ところで、朝日新聞などのメディアや「市民団体」、「進歩的知識人」などはよく「情報公開法」の必要性を主張するが、どうも私には、彼らの意図が良く分からない。情報公開が法律化された場合、例えば従軍慰安婦問題に関して「強制連行の証拠が発見できない」ことの責任は、今までのように政府のせいにすることは出来なくなる。何しろ「証拠を隠す」ことは違法とされるのであるから。そうすると、証拠が発見できない事の責任はだれに帰せられる事になるかというと、「強制連行の証拠は見つかっていないが、強制連行の事実はあったのだ」と主張する朝日新聞のようなメディアや市民団体が当然責任を取らなければならなくなるであろう。つまり、「証拠が発見されない」原因は、彼らの怠慢と無能が原因という事になるからである。

 今までの「原則非公開」の制度の下では、朝日新聞を始めとする「自虐史観派」のような無責任、無能な族がでかい顔をして偉そうに何かを主張する事が出来た。しかし、「原則公開」の制度の下では、そのような厚顔無恥な行為は事実上不可能となるであろう。彼らはそのあたりのことをどのように計算しているのであろうか?本誌でも暴いてきた彼らのデタラメさ加減を考えると、ひょっとしたら、そもそも合理的な計算が出来るような脳みそを備えていないのかもしれない。

 情報公開が制度化された場合、行政機関の責任は格段に軽減される。例えば薬害エイズ問題の場合、今までは「なぜエイズ情報を公開しなかったのか!」と厚生省を批判する事が出来たが、それが出来なくなるのだ。それどころか、新聞社やテレビ局などの報道機関が、「なぜエイズに関する公開情報を調べて取材をしなかったのか!」と批判されるという事態も十分に有得る。

 つまり、情報公開は同時に、民間の側の責任が今までよりも格段に重くなるという事でもあるのだ。厚生省はエイズ問題に関して、「何もしなかった事による責任」を問われているが、こんどはメディアが、いや、もしかしたら我々市民自身が「何もしなかった事による責任」を問われてしまう事になるかもしれないのだ。

 実際、情報公開が既に制度化されている国々では市民の間にもそのような意識が広く共有のものとなっており、日本などとは比べ物にならないほどの数の、市民による行政監視団体が存在するし、メディアも、行政情報のチェックには多大の労力を投入している。果たして今の日本で、そのような事が可能であろうか?残念ながら、今までの事を考慮すると、とても可能であるとは思えない。メディアは信用できないし、「市民団体」もそのような重い責任を担えるほど成熟したものは少ない。

 つまり、このままでは「情報公開」のための法律が出来るだけで終わってしまい、その法律が有効に利用されるような状況が生まれる可能性は極めて低いという事なのだ。「情報公開」は、それ自体が目的ではない。市民の生活を向上させるという大きな目的のための一つの手段にすぎない。「手段」だけを愚直に要求し、その背後にある大いなる目的については何ら考えようとしない今のメディアや市民団体は、下手をすれば、民主主義社会の破壊者となる危険性を秘めている。そのような愚劣な連中の力を殺ぎ、ホンモノのメディア、市民団体を作り上げない限り、いくら「情報公開法」を作ったとしても市民生活向上の役には立たない。それどころか逆に、市民生活が破壊されてしまう事にもなりかねない。

 なにも、彼らのような連中の「情報公開法」立法化努力を妨害する事はないが、その成果は、彼らのような無責任無思慮な族によってではなく、ホンモノの市民によって生かされなければならないであろう。本誌はそのような、ホンモノの市民の手助けになれれば幸いである。

                              なかみや たかし・本誌編集委員


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