「歴史オンブズマン」を雇おう!


                            中宮 崇


今はやりの「オンブズマン」、それがもっとも必要なのは、教科書会社である!


 さて、再び従軍慰安婦問題である。この問題においては、主に「自虐史観派」と「自由主義史観派」という二つの大きな勢力が論争している。

 両者の主張を聞いていると、「歴史の真実」というものについての考え方の違いが極めて大きい事がわかる。


   「自虐史観派」…慰安婦に対して強制があったというのは
     「紛れもない事実」であり、これを疑うような連中は「歴史
     修正主義者」である。そんな連中と、そもそも議論などす
     る必要はない。


   「自由主義史観派」…慰安婦に強制があったかどうかは、
     今の時点でははっきりした事は言えない。残っている史
     料を見た限りでは、なかった可能性の方が大きい。
     もっと研究を進めるべきであるし、今の時点で教科書に
     書くのは時期尚早である。


もっとも、「自由主義史観派」には、「どんなことがあっても、教科書には書くべきではない」という人間もいるにはいる。

 しかし、両者の言い分を比べてみた場合、「慰安婦の人権を護る」などと言っている「自虐史観派」に言論ファシズムの匂いがぷんぷんするのは、いったいどういうことであろう?相手の言い分を全く聞く必要がないなどと平気で言えるとは、いったいどういう神経をしているのであろうか?

 少なくとも「自由主義史観派」は、歴史の真実を究明しようという姿勢がまがりなりにも感じられる。しかし「自虐史観派」には、それが微塵も感じられない。「俺達の考えは絶対だ!」というわけだ。控えめに言っても歴史家としては失格であるし、それどころか人間としての品性にも欠けていると私は思う。

 さて、「地球は俺達を中心に回っている」などと考えている連中の事は放っておいて、「歴史の真実」というものをどのように追求したら良いかを考えてみよう。

 最近、「アジア共通の教科書を作ろう!」などという運動が進められているようだ。私に言わせれば、ちゃんちゃらおかしいおとぎ話である。そんな絵空事を唱えている連中は、中国の歴史教科書を見て見たことがあるのであろうか?ないに違いない。見たことがあってそんな事を言っているのだとしたら、相当な楽天家か、現実感覚に欠けた夢想家かのどちらかであろう。

 そもそも、まだまだ研究が不十分な近現代史において、「歴史の真実」の追求作業を怠ったままで教科書を作り上げようということ自体、傲慢かつ無責任である。

 各国の歴史教科書を数多く見てゆけば、歴史というものがいかに自国に都合よく教えられているかは明らかである。そこで教えられているのは「歴史の事実」ではなく、「自分たちに都合の良い事実」なのである。学習能力も批判精神も欠如している「自虐史観派」にはわからない事であろうが。

 では、日本もそれら諸外国の真似をして、「都合の良い事実」を並べた歴史教科書を作るべきか?私は決してそれが良いとは思わない。「自由主義史観派」は、「自国に誇りの持てる歴史教育を!」などと言うが、全く無意味だ。テレビ、新聞、インターネットと、この情報過多の時代に、歴史教育だけで自国に誇りが持てるようになるのなら、こんな都合の良い事はあるまい。その意味で私は、「自由主義史観」は「コンビニエンス史観」であると考える。

 もはや「自国に誇りを持つ」などと言う事は、少なくとも日本では全く望みがたいものになってしまっていると思う。いや諸外国だって、あれほど都合の良い歴史教育をしていながら、日本ほどではないにしても既に、「自国への誇り」などという意識は薄れてきているのではないか?

 歴史教育などに関係無く昔から、心有る者は自ら歴史を学んで、自国に誇りを持つなりけなすなりしてきたし、それ以外の者は、ほとんど何も考えずに授業を聞き流してきたのではないか?

 歴史教育などというものが有効性を持つためには、生徒達に対する強権的な力が必要なのではないだろうか。戦前の日本にはそれがあったからこそ、教育勅語を丸暗記させるとか教科書を暗唱させるなどという馬鹿な詰め込み教育が可能となり、その結果として数々の軍国少年、軍国少女が生まれたのではないか?つまり、強権的な力を伴わない歴史教育などというものに、果たしてそれほどの影響力があるのか、ということなのである。そんなものよりも、テレビの影響力の方がずっと大きいのではないだろうか。

 中国や韓国などであれほど反日的な歴史教育が可能なのは、いまだある種の強制力が教育の場に残されているからであるし、またそれ以上に、社会の雰囲気がそのような歴史教育を許しているからという面の方が強いと思う。つまり、歴史教育によって反日的な社会的雰囲気が作られるのではなく、反日的な社会的雰囲気によって、歴史教育が規定されていると逆に考えた方が、より現実を正しく見る事が出来るのではないかと思う。

 そう考えた場合、前出のような「アジア共通の歴史教科書を!」というスローガンがいかに現実から遊離しているかが分かってくるであろう。各国におけるそれぞれの社会的雰囲気を手付かずにしておいて、しかも「歴史の真実」の追求もおざなりにしておいて歴史教科書だけを小手先でいじくりまわすというのは、ほとんど意味を成さない。

 さて、既に「自国への誇り」などというものの復権がほとんど不可能である以上、その事実を認めた上で逆に、それを利用するような方向で歴史教科書を作って行くべきだ。日本は諸外国の旧弊に追随するのではなく、そのような新たなる道を切り開く事によって、21世紀のパイオニアとしての役割を果たしてゆく事が出来るようになるのではないか?今までと同じ事、みんながやっているのと同じ事をそのまま真似してやっていたのでは、何の進歩もあるまい。

 そこで一つ提案をしたい。日本は新たなる歴史教科書の編纂のために、「歴史オンブズマン」とでもいう人たちを雇ってはいかがであろうか?つまり、日本の利害とは全く無関係な人たち、具体的には外国人の歴史家などを雇って、その人たちに日本の近現代史を洗い直してもらうとともに、新たなる歴史教科書の編纂を頼むのである。

 ルース・ベネディクトの『菊と刀』などの例のように、日本に関する研究は日本人自身よりも外国人の方が、優れたものになるように思える。それは(完全にとはいかないまでも)ある程度日本の利害とは距離を置けるということが、真実を捉えるという作業において極めて重要な利点となっていることの証明ではないか?

 古代ギリシャでは、「国家の法律を作る場合その作業は自国人ではなく、外国人に依頼するべきだ」という考えがあった。それと同じような事を、現代日本でやってしまおうというのである。

 もちろん、「反日外国人」とか「ちょうちん持ち外国人」といったような連中を排除するために、オンブズマンの選定には細心の注意が必要であるだろうし、それについてはまた別に考えるべき事が多く存在するであろう。しかし、それを言っていては日本の教科書編集者の選定だって同じ問題が伴うわけであるから、それを理由に「外国人に歴史教科書の編纂を頼む事は出来ない!」などとという事は出来ない。

 「国家によるオンブズマン選定はいかん!」と言うのなら教科書会社が独自に選定して、会社ごとにオンブズマン組織を保有すればよいだけである。いずれにしても、今現在の歴史教科書よりは遥かに正気を保ったものが出来上がると思うのであるが、いかがでしょう?

 あれ?でも自ら歴史研究までしてしまうようでは、「オンブズマン」とは言えないか(笑)。


                              なかみや たかし・本誌編集委員


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