売れるためならどこまでも
中宮 崇
「カミカゼ記者」人見剛史に見る、日本マスコミの腐れ体質
雑誌『創』7月号に、1月7日にペルーの大使公邸への「カミカゼ突入」を実行した、テレビ朝日系列広島ホームテレビの人見剛史の
「ペルー日本大使公邸内取材の全経緯」
と題した文が載っていた。
彼の無謀な行為については、人質からも批難の声が出ているのであるが、彼の言う事を一つ一つ見て行くと、あの行為が、無思慮・無責任な功名心だけに基づいたものであったということが実に良く分かってくる。
人見の「カミカゼ取材」は彼の独創でもなんでもなく、12月31日に行われた共同通信原田浩司記者の「カミカゼ取材」を真似した物にすぎないのであるが、その悪どさは先人のそれを遥かに超える。
生命よりも取材!
同号には、別記事で批判した浅野健一同志社大学教授による記事も載っているのであるが、その中に、5月12日に行われた「ペルー問題に関するANN系列労組討論集会」における人見の発言の様子や、浅野が個人的に人見と話した会話の内容などが描かれている。
人見の無責任・無思慮・独善性を最も表しているのが、以下の発言である。
そのとおり、二番煎じです。
これは、「(人見の行為は)原田記者の取材の二番煎じという声があるが?」との質問に答えた物である。
つまり人見は、取材によって新たに明らかにされる事やそのほかのメリットが何もないとわかっていて、「カミカゼ取材」を行ったと言うのだ。
人見の行為が人質の生命に危険を及ぼす可能性や交渉に及ぼした影響についてはいろいろ言われているが、彼の行為によって危険が及ぶ可能性がわずかながらでも上昇するのは明らかである。また、人見自身が言っているように、交渉への影響が全くなかったとは言い切れないし、実際に、人質解放の約束が反故にされてしまったという事も報道されている。
そういう危険上昇等のデメリットと、取材によるメリットとを比較検討して、「これは取材すべきだ!」、「いや、こいつは取材すべきではない!」と判断するのが、ジャーナリストというものであろう。ところが人見は、取材によるメリットなど何もなかったと考えていたわけだから、彼の行動はただ、人質を危険に陥れただけという事になる。
もっとも、「人質の生命の危険や交渉への影響と、取材によって人見自身が受けるメリット」とを比較検討した結果「取材しよう!」と考えたという可能性はある。それはそれで別に良い。人はだれしも、心のどこかに卑しい物をもっているものだ。だが、それならば少なくとも、「市民の知る権利のために!」といった類の発言はするべきではない。卑しい動機を持つのは勝手であるが、その正当化のために市民をダシにされてはかなわない。
朝日の非人間性
朝日は、自分たちの取材等の行為によって、人々がどれだけ迷惑を被っているかを全く考えてはいないようだ。
人見はこんな事を言っている。
今回の事で、報道される人たちの痛みが分かった。自分が
報道されて初めて知った。
報道による人権侵害の例は、今までにも多々あるし、最近では松本サリン事件において、一被害者が犯人として扱われて平穏な生活を破壊されたという大事件があった。人見はどうやら、そういう報道被害の歴史について全く無知であったようだ。これは、朝日が、社員に対する教育を完全に怠っているという事を意味する。
朝日のような独善的なメディアにとっては、報道される対象の痛みなどは考慮する価値などないのであろう。そしてそういう社風の下、報道による人権侵害行為はこれからも続けられてゆく事になろう。
ぼんやりとした確信
人見はよく、「十分安全性を考えた上で、生命の危険がないと確信して入った」と主張する。しかし、「十分考えた」割には、その「考え」の根拠となるものを開陳してくれている所を見たことがない。根拠も無しに「確信」できるという精神構造も非常に興味深いのであるが、人見にとっての「十分考える」という行為は、「ぼんやり考える」というのと同義であるようなのだ。
彼はこんな事を書いている。
ぼんやりと邸内取材を考えはじめた。人質や交渉への影響
はないか。入るとしたら誰とどういう形で入るのか。独断で入
れば、会社をクビになることも考えなければならない。い
ろいろなことが次から次へと頭に浮かんだ。考えれば考える
ほど邸内に入って取材すべきという気持ちが強まった。
こんないい加減な、根拠も何もあった物ではない浅薄な思い込みだけで、彼は「カミカゼ取材」を敢行したのだ。自分の首についてうんぬんする以前に、もっと考えなければならなかった事が山のようにあったろうに。
また、こんなさりげない自慢もしている。
「ゲリラは取材を受けたがっており、記者を拘束したり、危
害を加えるようなことはない」と考えた私の判断に誤りはなかっ
た。
こんなことは、小学生にだって分かるであろう。MRTAはマスコミを徹底的に利用しようとしていたのであるから、人見のような「利用価値のある人間」を粗末に扱うはずが無いではないか。それにこの引用部分では、自分の安全については言及しているが、人質については全く触れていない。彼の人柄が良く分かるであろう。
朝日がこうした大事件に、この程度の知的レベルの人間を派遣してよしとしていたというのは、それだけでも十分犯罪的な事であろう。
また、人見はジャーナリストの役割というものを全く理解していないようだ。それを示しているのが以下の発言だ。
ゲリラはロケット砲のような武器を持っているのだから公邸の
周りにいるのも危ないと言えば危ない。それでもメディアが
いたのは、安全と確認したからだろう。
「ロケット砲」発言の馬鹿さ加減は置いておいても、メディアの居る所、安全なりという発想自体信じ難い。サラエボやカンボジア等の危険な戦場にも、(欧米の)ジャーナリストは存在するが。
大体、日本のメディアは、安全な所にしか行かないというのであろうか?「市民の知る権利」のためなら多少の危険は侵すというのが、真のジャーナリスト魂というものではないのか?日本人ジャーナリストが世界の戦場に現われないという事実は、他人の安全は全然考えなくても、自分たちの安全だけは最大限考えているという事なのかもしれない。
反省・反論無き愚痴の羅列
人見の記事は14ページにも及ぶが、その内8ページほどは、自分を拘束したペルー当局に対する愚痴と当てつけである。様々な批判への反論もせず、取材行為を「安全」と考えた根拠も示さずと、本質的な問題を完全に無視して、貴重な誌面を浪費する自己保身に汲々としている。
だいたい、人見の行為を正当化する連中はよく、「ペルー警察は、人見を止めなかったではないか」と言う。周知のように、当局は公邸への勝手な立ち入りは禁止していた。それなのに「止められなかったのは、止めなかった奴が悪いのだ」などと平気で言う。なるほどつまり、「見つからなければ何をやってもよい」というのが、彼らのような連中の考えなのであろう。そういう人間を親に持ってしまった子供たちの将来を、危惧せずにはいられない。「見つからなければ、法律違反の盗みでもやってよいのだ」などと考える人間になってしまうのであろうから。しかも親は、「盗みを止める事の出来なかった店員や警察が悪い!」などと抗議するのであろう。日本の将来は暗い。
垂れ流し報道の無責任さ
人見は「カミカゼ取材」の際に、内部に無線機を残してきた。そして後に、それを利用して内部の人質と交信を行っている。それによると、人質達はペルー当局による威圧行為に懸念を示していたのだそうだ。
ペルー当局は大音量の音楽をかけたり、ヘリを飛ばしたりと、様々な圧力を加えていた。それについて人質たちが、「止めてください」と言っていたと言うのである。
犯人たちに銃を突きつけられて監視されている人質たちが、思いを自由に表明できるはずがないという考えは、彼の貧弱な脳みそには全く浮かばなかったのだ。MRTAに言わされたのだという可能性について、思いも及ばないらしい。
さて、事件が何とか解決され、(もと)人質への取材も全く自由になった現在、人見はなぜ「あの時にあなた達が言った事は、脅されて言わされた事ではないのですか?」と取材しないのか?人見どころか、他の記者たちも誰一人としてそういうことを行おうとしないのだ。まったく怠慢としか言いようがない。この一件だけを見ても、マスコミ連中が「市民の知る権利」のことについてなど全く考えてはいないということが分かる。単に自分たちの功名心と、面白半分の遊び心で行動しているだけなのだ。
幼稚な「反権力」指向
人見は「カミカゼ取材」時に、公邸2階の取材をセルパから断られている。
警備上の理由からだろう
などと納得している。自分に危害を加える事はないとたかをくくっているのか、ペルー政府が相手ならたとえ断られても禁止されてもしつこく、ルールを無視してまで取材するくせに、銃を持っているテロリスト相手だと急に腰が引けるのだ。
同様の事は日本のマスコミ全体についても言える。人見は取材後、ペルー当局に拘束され、ビデオテープも一時押収された。それについてマスコミ人たちは、いっせいに「報道の自由の侵害だ!」と抗議をした。
ところで、事件が武力突入によって解決した4月22日、あるマスコミが、ペルー奥地で活動中のMRTAに取材を行っていた。ところが、武力突入の事実を知ったMRTAは、記者からビデオテープを押収した。奇妙な事に、日本のマスコミがMRTAに「報道の自由の侵害だ!」と抗議を申し入れたという事は、全く耳にしない。卑劣な犯罪集団を密かに応援しているのか、単純な反権力意識ゆえかは知らないが、彼らの御都合主義の一端を垣間見る事ができる。
人見記者は、典型的な日本のマスコミ人のようである。少なくとも、典型的な「朝日人」ではあろう。こういったいい加減な連中が堂々と生きて行けるという、日本マスコミ界のお寒い現状をいつまでも放置しておいて良い物であろうか?
次に彼らの利己的功名心の餌食とされるのは、我々かもしれないのだ。
なかみや たかし・本誌編集委員