人格者の華麗なる破綻
中宮 崇
米市場開放に反対する族の、無知と偏見に満ちた生態!
井上ひさしと言えば、「ひょっこりひょうたん島」でも有名な、優秀な作家である。最近はその遅筆がたたって、劇の公演のスケジュールに台本を間に合わせることが出来ないという事件を何度か引き起こしているため、「公演つぶし」という悪名だけが一人歩きしているきらいはあるが、社会人としてはともかく、彼の作家としての優秀さにはなんら疑問をはさむ余地はない。
ところでその井上であるが、彼は日本の食糧問題、特に米問題について、かなり以前から積極的に発言しているし、著作もいくつかある。しかし、私が見たところ、ことこの問題に関しては井上には、作家として見せてくれているような優秀さを見てとることは出来ない。
井上は米保護論者だ。海外からの米を始めとする農作物の輸入には反対の立場をとっている。また、この手の論者に一般的に見られるように、米問題を「文化論」として捉えるという姿勢を隠そうともしない。
しかし、井上を始めとする米保護論者の言い分には、明らかな間違いや嘘、誤解等が非常に多い。今回は、以前井上が『日本の論点』(文芸春秋)で書いた文章をもとに、保護論者の主張を一つ一つ検証して行こう。
「自由競争」の嘘
井上は『日本の論点』の中で、
「食文化の核―――
コメこそ「保護する」と
なぜ明言できないのか」
という記事を書いている。
世界の農業輸出入問題は主に、ガット・ウルグアイ・ラウンドの枠組みに沿って話し合われている。ところが米保護論者は、故意か単なる無知からかは分からないが、それについて明らかな間違いを垂れ流している。井上もこう書いている。
ウルグアイ・ラウンドやガットで、自国も含めて農業保護をや
め、世界全ての農産物を自由競争にするべきだとアメリカ
はブチ上げている。
これは大嘘である。アメリカはそんな事は今まで一度も「ブチ上げて」はいない。
問題は、「自由競争」という言葉の使い方にある。「自由競争」と言うのは、関税障壁や、輸出入規制を始めとする法的規制、農家への補助金などを全て撤廃し、農作物の生産販売を完全に農民一人一人の自由な意思決定に任すと言うことを意味する。
ところがアメリカが言っていることは、「法的輸入規制を止めなさい。その代わり、高い関税をかけて輸入を制限するのは構いませんよ」と言うことなのであって、誰も「関税を撤廃しろ!」などとは言ってはいない。ましてや「補助金の廃止」などもってのほかである。そもそもアメリカは、自国の農産物には莫大な補助金を毎年支出している。
一般的に言って農業に関しては、世界中の国が多かれ少なかれ何らかの保護策を講じている。だから保護することそのものへの海外からの批判は、もともと少ない。批判の多くは、「法律等によって完全に輸入を禁止している」ことへの批判であって、それらの法律を撤廃して高率でもよいから関税による保護政策や農家への補助金政策への転換を行うことによって、わずかでも輸入の可能性を作りたいというのが海外の批判者の本音なのだ。
「法律等によって、米は一粒たりとも輸入させません」と言うよりも、「米の輸入には1000%の関税を掛けます」と言う方が、まだ輸入の可能性はあるのだから。
そういう海外からの批判の声を、「自由競争」などという専門用語をわざわざ使用して捻じ曲げる意図は、一体どこにあるのであろうか?
米は役たたず?
今あなたは、ある貧しい国にいるとする。そこに物乞いの子どもが大勢やって来て、あなたに金をせびった。あなたはその中の一人に一枚のコインを渡した。
さて、あなたのこの行為は、全く無駄で無意味なものなのであろうか?大勢の中の一人にだけしかコインを与えなかったことは、誰にも与えなかったことよりも悪いことなのであろうか。そもそも、物乞いの子供たちにお金を与えるという行為自体を「偽善」と言ってしまえるであろうか?
何もしないよりは、誰にもコイン一枚与えないよりは、一人だけにでも何かを与える方が意味があることであるに決まっている。そのような行為を「偽善」と批難する者たちでも、その「偽善」とかいう行為によって子どもが一食分のパンを得ることができたという事実を否定することは出来ない。
ところが井上ひさし氏はどうやら、そういう場合にはコインの一枚も与えるべきではないと考えているようだ。彼はこんな事を言っている。
(貿易摩擦解消のために米市場を開放すべきという意見も
あるが)米を開放したところで、貿易摩擦解消には全く役立
たない…(略)…たとえコメをすべてアメリカから輸入したと
しても、貿易黒字解消には焼け石に水である。
多少なりとも米市場を開放すれば、貿易黒字は間違いなく、わずかながらでも減る。その減りかたが微々たるものであるからといって、井上のように「開放すべきではない」などと言ってしまうのは短絡的もいいとこである。
アメリカの米は高い?
井上による巧妙な、事実の「目くらまし作戦」について見てみよう。
彼は、アメリカの米の値段が日本の4分の1に過ぎないのは、アメリカ人がズルをしているせいだなどと言う。少なくとも、読者にそういう誤解を与えるような書き方をしている。以下原文。
じつはアメリカのコメ低価格が、大規模農業経営や機械化に
よる効率化の賜物ではなく、政府による膨大な補助金によっ
て成り立っているという事実をご存知であろうか。
確かにアメリカは、自国の米に対して膨大な額の補助金を支出している。その結果、アメリカ米の価格がより低くなっているのは間違いない。しかしだからと言って井上のように、「アメリカ米が日本米より安い原因は、大規模農業経営のせいではない」などと言えるのか?
井上は、「アメリカが補助金政策を止めれば、日本米の方がアメリカ米より安くなる」と考えているのであろうか。馬鹿も休み休み言って欲しいものだ。
また、欄外にはこんなことまで書いて読者を騙そうとしている。
国際的な食糧不作で食糧危機となった1972〜73年当
時…(略)…コメの国際相場は6倍近く高騰したが、自給を
保っていた日本は影響を受けずにすんだ。
「だから米は輸入するな!」と言いたいのであろうが、これはほとんど詐欺師の手口だ。
米の国際価格は確かに6倍に高騰した。しかし、その高騰のピークの価格は、平時の日本米の価格よりもさらに数倍安いのだ。
つまり、彼が読者をたぶらかすために書いた文章は、正確に意味を記すと、こうなるのである。
コメの国際価格は6倍近くに高騰したが、自給を保っていた
日本は影響を受けず、国際価格の十数倍の価格の米をい
つものように消費者に無理矢理押し付け続けることができた。
外国人は馬鹿な怠け者?
井上は、外国の農民を「馬鹿で怠惰などうしようもない連中」であると考えているようである。以下の文を読んで欲しい。
コメを輸出しているのは、アメリカを除けばおもに東南アジ
アの小さな国であり、これらの国では自給を最優先し、そ
のうえで余った分だけを輸出している。
つまり、「世界で流通している輸出用の米は非常に少ないから、米を輸入に頼っていると大変なことになる」と言いたいらしいのだ。
ところで、日本人の大好きなエビや、一時的流行に終わってナタデココなどが、東南アジアの人々の間で生産ブームを巻き起こしたことをご記憶の方もいるであろう。それまで影も形も無かった「エビ養殖場」などが、雨後の竹の子のように一時林立した。
井上はなぜ、同じようなことが米については起きないと考えることができてしまうのであろうか?今、世界の輸出用米の流通量が少ないのは、日本が買ってくれないからであって、市場を開放して米を買ってあげるようにすれば、それこそ雨後の竹の子のように米の生産者は増えるであろう。そうすれば自然に、輸出用米の量も激増するに決まっている。
井上は、海外の農民への不当な蔑視や差別をいい加減に止めるべきだ。
いけにえバンザイ!
米輸入に反対する人間はよく、「米は日本の文化だ!」などと言う。井上もこう言っている。
アメリカなどは、日本はコメの消費が減っているのに、なぜそ
れを作る農家を保護するのだと言う。しかしそれは、その国
の文化の問題であり、他国から批難されることではない。
なるほど、他国の「文化」は批判してはいけないと言うのか。そういえば、かつては「食人」や「いけにえ」を「文化」とする社会があったが、井上はそれらも「文化だから批判してはいけない」と言うのであろうか?
インドには(法律上は禁止されているが)未だに、「カースト制」と呼ばれる厳格な身分制度が存在する。井上に言わせると、それも批判してはいけないのであろう。
だいたい、大量の危険な農薬にまみれた、今やばあちゃん、じいちゃん、かあちゃんの「三ちゃん」しか作り手のいない米を、「文化」などと言ってしまえる神経からして尋常ではない。
米は日本人にとっては確かに重要なものである。農家に対する何らかの保護政策は続けてゆくべきであろう。しかしそのことは、現在の保護政策をそのまま続けていて良いと言うことを意味しない。今のままのことを続けてゆけば、市場開放などする前に日本の稲作は自然に壊滅する。
井上のような族は本当は、今のままの愚劣な農業政策を支持することによって、日本農業を枯れ死させたいのかもしれない。
井上はこう言う。
たとえ日本の経済力でコメを確保したとしても、そのために
国際価格がはね上がったら、他のコメ輸入国に対し、日
本はどう責任をとるのか。
そんなことまで心配してあげるとは、井上は何と立派な人格者なのであろう。
ところで井上くん、あなたの公演のチケット、高すぎて私のような貧乏人には買えないから、責任とってよ。
なかみや たかし・本誌編集委員