「地球にやさしい」殺人予備軍
中宮 崇
「地球にやさしい」などいう標語を唱える連中は、大量虐殺犯と化す可能性がある!
一時、「地球にやさしい」などという、今から考えると実に浅薄極まりない標語が流行した時期がある。人類の歴史を見ても、「標語」などという物が幅を利かせている時期というのは、後世から見ればただの狂気の時代である事が多い。「欲しがりません、勝つまでは」などという標語が流布していた時代の事を考えて見るとよい。
そして、そうした狂気の時代の担い手、あるいは提灯持ちは、当然のごとく、標語の威を借りる狐どもの層と一致する。
「地球にキビシイ」アウトドア派
環境保護派は人々に、「休みの日に自然と触れる」ことを、よく薦める。「地球にやさしい」運動のころは、特にその傾向が強かった。
その結果、現在にまで至る「アウトドア・ブーム」なる、「地球にやさしい」という仮面を被った、実のところ「地球にキビシイ」馬鹿げた流行が発生してしまった。
新聞も、テレビも、雑誌も、事あるごとに「自然との触れ合い」を唱えた。親子連れのキャンプがもてはやされ、そのためのグッズや器具も、このころに急激に発達した。
その結果、人々は「地球にやさし」くなったか?ひょっとしたら、そうした「地球にやさし」くする気持ちを芽生えさせた者もいるかもしれないが、少なくとも、表面には現れてきてはいない。
その代わりにはっきりと表面に現れてきたのは、山や川に大量に捨て置かれた、ゴミの山である。その中には、生ゴミや屑紙よりも、プラスティックやポリ袋、空缶等のもっとも「地球にキビシイ」ゴミの方が多い。「地球にやさしい」などという、実に魅力的な標語の尻馬に乗った馬鹿な連中が、実はもっとも「地球にキビシイ」悪質な環境破壊を行っているのだ。
そもそも滑稽なのは、「地球にやさしい」とか「自然に溶け込もう」などと言ってやってきた連中が、プラスティック容器から取り出した食料を、カセット・ガスコンロを使って調理しているという事である。そんなに自然に溶け込みたいのなら、魚を釣って、キノコを狩って、木切れを集めて燃やして調理すればよい。人間にとってもっとも基本的な営みの一つである「食」を文明の利器に頼ったままでいて、何が「自然に溶け込もう」だ。
そういう支離滅裂な行為の愚かさに気付きもしない馬鹿どもに限って、用済みのプラ容器やガス缶はそのまま捨てていってしまうのだ。
やがて企業は、そうした馬鹿なサルどもの利用価値に気付いた。先に述べたように、「アウトドア・グッズ」なるものを大量に開発・生産し始めた。そうした「アウトドア・グッズ」の中でもっとも醜悪なのが、RV車なるものである。
この、やたらでかくて車高の高い、威圧感のある4WD車は、「アウトドア派」なるサルどもに大人気となった。あんなもので川の中を走っておいて「地球にやさしい」もなにもあったものではないと、私などは考えるのだが、知性も羞恥心にも欠けるサルどもにとっては、他人がどう思っているかなどということは全く関係ないのであろう。
まあ、それでも、山の奥で勝手に環境破壊を楽しんでいてくれるだけなら、まだ普通の都市住民にとって害はないのであるが、あんなもので町中を走ろうとするのだからたまらない。燃費も悪いし排ガスは撒き散らすし、道路には負担を与えて傷つけるし、車高が高いものだから視界も悪く、歩行者にとって危険極まりない。あんなもの、「地球にやさしい」点などただの一つもない。あのような怪物に比べれば、普通の乗用車の方が、よっぽど地球にやさしい。
「アウトドア派」が壊す生態系
アウトドア派は、日本の生態系を既に、とり返しがつかないまでに破壊してしまっている。貴重な草花や高山植物を勝手に採って持ってかえるなどというのは、まだかわいいものだ。
例えば、「自然を歩こうツアー」などと称するものがあるが、これなどは、生態系の破壊もいいところである。
湿地などは特にそうであるが、自然というものは地域ごとに独特の生態系を形成している事が多い。例えば観光客が、湿地の中に一本だけ通っている遊歩道を歩いているとする。そうすると、道から少し逸れたところに、珍しい草花を見つけた。それを採りに観光客は、遊歩道を逸れて湿地に足を踏み入れる。
草花を採ろうとした事だけでも十分犯罪的ではあるが、それよりも遥かに犯罪的なのは、「湿地に足を踏み入れる」という行為、それ自体である。
靴の裏には、知らないうちに草木の種子等が付着していることがある。そうした種子や胞子などが、人が足を踏み入れる事によって、抵抗力が特に低い湿地の生態系を破壊してしまう事があるのだ。実際、日本国内の湿地の一部では、そうした生態系の破壊に直面した結果、観光客の受け入れを制限したり禁止してしまったりしているところが出てきている。
これなどは、アウトドア派のただの「無知」から発生した事なのであるが、アウトドア派の「見栄」と「偽善」とによってもたらされた、より悪質な生態系破壊も存在する。
代表的なのは、釣り愛好家達である。連中の中には最近、釣りを「スポーツ」などと考え、釣った魚を食べずにそのまま水に戻してしまう者が増えてきている。針を喉に引っかけられた魚にしてみれば、「そんなことをするぐらいなら最初から釣りなどするな!」と言ってやりたいところであろうが、こんなのはまだ良い方で、何と、自分たちの「スポーツ」のために、他の地域から、全く別種の魚を持ってきて放すという事までする阿呆がいる。有名なところでは、ブラックバスが挙げられる。
この強い生命力の魚は、元々海外種なのであるが、釣りに適しているという事で釣り師どもによって日本中の湖などにばらまかれ、その結果、日本の在来種は全国各地で、絶滅の危機に瀕している。鮎などの、日本の食文化と密接に関っている魚が、「地球にやさしい」などと唱える阿呆たちが持ち込んだ魚たちによって、駆逐されようとしているのだ。
さらに阿呆なのは、一時流行った「カムバック・サーモン」なる運動。「千歳川にサケを戻そう!」というのなら十分分かるが、なんと一部の、知性に乏しい市民団体は悪乗りして、「多摩川にサケを戻そう!」などと言っていた。果たして、多摩川にいつサケがいたのか、是非とも教えて欲しいものだ。
確かに太古の昔には、多摩川にもサケが上ってきていた。しかし、今は上ってこない。理性無き市民団体はその理由を、「川が汚くなったからだ」と思い込んでいたが、とんでもない妄想だ。
多摩川では既に、江戸時代にだってサケの姿は見られなかった。こうした事実を直視せず、よく「生活廃水が多摩川を汚したせいだ」などと考えられるものである。「市民団体」とか「環境保護派」などと称する連中の浅はかさが窺い知れよう。
では、なぜサケは多摩川から消えてしまったのか?犯人は、気候の変動だ。多摩川周辺の平均気温が、サケの溯上する南限を越えてしまったのが原因なのだ。環境破壊でもなんでもない。自然の営みの中の一つの現象なのである。
そういった科学的な思考の出来ない市民団体は毎年、サケの稚魚を多摩川に放すことによって、サケの大量虐殺を行っていたのである。
大量虐殺への道
以上見てきたように、「地球にやさしい」などと言う連中は実は、環境を破壊し、生態系を乱し、動物を大量虐殺する極悪人なのである。いくら無知から出た行為であるとはいえ、到底許されるべき性質のものではない。
しかし、我々人間も実は、連中の無知によって虐殺される可能性をはらんでいるのである。
例えば、「合成洗剤追放運動」である。これは、「自然にキビシイ合成洗剤ではなく、自然にやさしい石鹸を使おう」という運動であるのだが、こんな馬鹿げた運動を進められたのでは、いつか人類は、連中のような無知蒙昧な族によって滅ぼされてしまうであろう。
彼らが石鹸の使用を薦める理由は一つ。
石鹸は、天然の原料でできているから
というもの。なるほど、天然の原料ならば自然にやさしいと言うのであろう。こういう馬鹿を放置しておいたらいつか、川に原油やトリカブトなどが流されてしまう事にもなりかねない。これだって「天然の原料」だからね。いやいや、そこまで行かなくても、天ぷら油をそのまま垂れ流す程度の事はやりかねないであろう。
確かに、自然は保護すべきだ。しかし、「アウトドア派」や「地球にやさしい派」といったような生活から遊離した連中の手に自然を委ねてしまっては、知性と羞恥心とからは無縁な連中によって、自然は食いつぶされてしまうであろう。環境保護のためにも、大量虐殺の恐怖から逃れるためにも我々は、まずはそういった連中を駆除するという作業から始めるべきであろう。
なかみや たかし・本誌編集委員