搾り取られる脂(その2)


                            中宮 崇


知性無き動物でも、真理を生み出す事はある!


 前回は主に、欧米諸国や「環境保護派」などの陰謀による反捕鯨運動の経緯について見てきた。今回は、彼らがなぜそのような行動に出るのかを、その主張を一つ一つ見てゆく事によって検証してみよう。

 前回も書いたが、連中の主張はだいたい、以下の三つに分類する事ができる。


   鯨は、高度な知性を持っているので、それを食用にするな
   どというのは野蛮である。

   IWCは「鯨はたくさんいる」などと言うが、実際に鯨の数がど
   のくらいなのかは誰にも分からない。

   日本などによるモリ等を使用した捕鯨方式は残虐であり、
   鯨に必要以上の苦痛を与えている。


環境保護派は、利己的な差別主義者である。それは、一つ目の主張から明らかである。


ネオナチとしての「環境保護派」


 そもそも、鯨が他の哺乳類に比べて特別高度な知性を持っているなどと言う主張の根拠が一体どこにあるのか教えて欲しいものである。お互いにコミュニケーションしているから?ネズミだってお互いに意思を伝え合って生きている。彼らは、「ネズミも殺すな!」と言っているか?言ってはいない。

 「鯨は高度な知性を持っている」などという主張には、何ら根拠はない。少なくとも、私は知らない。他の読者の方々はご存知か?この事は、少なくとも「環境保護派」は、自らの主張の根拠について説明責任を果たしていない事を意味する。彼らの行動を見る限り、単なる思い込みと主観とによって、「鯨は他の動物に比べて特別なのだ」と思い込んでいるに過ぎないとしか思えない。麻原の言う、根拠無き独善的な戯言をそのまま盲信して大量殺人を行ったオウム信者と同じである。

 百歩譲って、「鯨は人間並みの高度な知性を持っている」と仮定しよう。が、それでも「鯨は保護すべき」などということにはならない。なぜか?

 簡単な事である。彼らの差別主義者としての本性を暴くためには、こう問い掛けてやればよい。


   では、高度な知性を保有していないものは、殺してもかまわ
   ないのですか?


 環境保護派は、この質問に答える事はできない。なぜなら、答えてしまったら、自分たちの、ナチス顔負けの邪悪な本性を人目にさらしてしまう事になるからだ。

 環境保護派には、菜食主義者はそれほど多くはない。肉食を許容している者の方が多いであろう。つまり彼らは、


   鯨は頭が良いから食べてはいけない!


と我々日本人を居丈高に脅しつける一方で、牛や豚、鶏などを日夜流れ作業の屠殺場で大量に殺しては、胃袋に流し込んでいるのである。そして、そのような自分たちの卑劣な行為を正当化するためには、先ほどの質問に対しては彼らはこう言わざるをえない。


   牛や豚、鶏は、頭が悪いから食べてもよいのだ!


 つまり連中は、知性の高低で動物を序列付けする、露骨な差別主義者なのである。

 このような彼らの支離滅裂かつ独善的な主張が、以下のような主張に発展しないと誰が言い切れるのだ?


   知性の劣った人間は、高い知性を持つ人間によって何をさ
   れても、たとえ殺されても構わない!


 「環境保護派」は、こう言うかも知れない。


   鯨と人間とは違う。人間だけは特別なのだ。知性が低い者
   でも、無条件に保護されるべきだ!


 ここで連中の大いなる矛盾が露呈する。「環境保護派」はこう言っているはずである。


   人間と自然との共生!

   この地球は、人間だけのものではない!

   動物は皆、友達である!


他にも、連中が言っているこの種の戯言は多いが、これだけを見ても、先の「人間だけは特別!」という言い訳は到底することができないことが分かる。

 「共生!」を唱える一方で、「人間だけは特別」?それでは、「共生」に名を借りたただの「主従関係」、あるいは「奴隷関係」ではないか。

 「動物は友達」?その一方で、「人間だけは特別」?私なら、そんな「自分だけは特別」などと思い込んでいるような連中は友達にはしない。


ゲッペルスの末裔、「環境保護派」


 次に、


   IWCは「鯨はたくさんいる」などと言うが、実際に鯨の数がど
   のくらいなのかは誰にも分からない。


という主張についてみてみよう。ここまでくると、「環境保護派」などと称する連中がただの馬鹿に過ぎないということが、良く分かる。いやいや、ただの馬鹿なら、まだ害はない。彼等は、ナチスを情報操作等によって支えたゲッペルス氏の忠実な後継者でもあるのだから。

 「鯨の実際の数は誰にも分からない」などと言いながら、一方で


   鯨は絶滅の危機に瀕している。


などと、どうして恥ずかしげも無く言えるのだ?

 実際に「環境保護派」は、公の場でこの種のどうしようもない戯言を平気で言っている。

 例えば、93年に京都で開かれたIWCの年次総会において、IWC科学委員会は南極海における鯨の数を76万頭と発表した。これに対して連中はクレームをつけた。また、IWCが基準として採用しているRMPと言う算定方法にもインネンをつけた。

 RMPは、調査捕鯨などをもとに海域全体の鯨の量を推定する方法であるのだが、「環境保護派」は、この方式そのものに文句をつけた。しかも、調査捕鯨まで全面的に禁止するよう主張した。

 これでは、いったいどうやって、正確な鯨の数を算出しろと言うのであろうか?IWCの「76万頭説」に反対した「環境保護派」は、結局自らは、科学的に根拠のある鯨の数を発表する事は出来なかった。しかも、数を推定するほとんど唯一の手段さえも、全面的に使用不能にしろと言っているのだ。これを「馬鹿」といわずして何といえば良いのか。

 つまり連中にとっては、鯨の数などどうでもよいのだ。どんなにたくさん海にあふれていても、鯨は獲ってはいけないのだ。そして、「鯨はたくさんいる」ということが世界にばれないようにするために、「鯨の数の調査は禁止せよ!」とまで言う。これほど露骨な情報操作行為は、ヒットラーでもやらなかった。なぜなら、「環境保護派」と違ってヒットラーは、羞恥心も(邪悪ではあるが)知性も持っていたからだ。


踊り狂う猿


 最後に、


   日本などによるモリ等を使用した捕鯨方式は残虐であり、
   鯨に必要以上の苦痛を与えている。


という主張。モリを用いた捕鯨方式が残虐だと言うならば、まずはもっと「残虐でない」代替的な捕鯨方式を提言してからにすべきであろう。さもなければ、「鯨は何があっても獲ってはいけない」と言っているのと同じで、ただのイチャモンにすぎない。

 そもそも、拷問をしているわけではあるまいし、殺される方にしてみればモリだろうが大砲であろうが大差はあるまい。少なくとも、狩猟や釣りを「スポーツ」として楽しんでいるような連中が言うべき事ではない。

 大体連中は、毎日食べている牛や豚、鶏がどのように殺されて精肉にされているか分かっているのか?首を絞められ、あるいは首を切られ、そうやって食肉製品とされていく牛豚鶏が、「残虐な殺しかたをされていない」と、なぜ言い切ってしまう事ができるのか、連中のような邪悪な人間の思考は、全く理解不能である。

 最近は、「環境保護派」はガスによる「残虐でない」牛豚の屠殺方法を推奨しているそうだ。なるほど、ガスなら残虐でないのか。彼等の貧弱な頭の中には、ナチスのガス室で虐殺された数多くのユダヤ人達の姿が浮かぶ事は永遠にあるまい。

 さて、日本の「人権派」とか「市民団体」、「進歩的文化人」といった連中は、こうした欧米の「環境保護派」の猿まねに余念が無いが、先日ある雑誌で、慰安婦問題などでその知的退廃が問題となっている教科書会社が、こうした「環境保護派」の尻馬に乗った悪ふざけをしていることを知った。

 問題の教科書は、高校日本史向けの


   「ワイド 日本の歴史B」(自由書房)


の中の、日本の伝統的な捕鯨の様子を描いた絵に添えられた解説。なんと、あろうことか、こんな事を書いている。繰り返すが、これは高校生用の歴史教科書である。


   紀州太地浦の捕鯨。銛(もり)がつぎつぎと打ち込まれ、高
   波をたてて逃げまどうマッコウクジラの目が、いかにも悲しそ
   う。土佐光則筆


 きっと、この説明を書いた人間は、菜食主義者なのであろう。屠殺場に運ばれてゆく牛や豚の悲しげな目を見たことが無い事は確実である。

 そして、わざわざこういった変更した説明を書いていると言う事は、高校生全てに「菜食主義者になれ!」と押し付けているのであろう。自分の勝手な趣味を、歴史の授業を悪用して押し付けようとするとは、日本の教科書会社は何を考えているのであろうか?この一事だけを見ても、連中の悪質な洗脳作戦の実態が窺えるであろう。

 欧米産の「環境保護派」もずいぶん馬鹿で卑劣ではあるが、日本の猿達は、それにさらに輪をかけて低能で悪質だ。もっとも、共産主義や人権思想、フェミニズムなどの例を見ても分かるように、後進の猿達が、本家よりも馬鹿かつ悪逆な猿踊りを演じると言う事は、歴史上にいくらでも事例が残されているのであるが、。


 以上見てきたように、捕鯨に反対する「環境保護派」には、一片の正義もない。ただ己の利己的な差別主義の忠実なしもべとなっているに過ぎない、ナチスよりも差別的で残虐な反日テロリスト集団なのである。

 そして、そういった連中の尻を追いかけて喜んでいる日本の環境保護派は、何と教科書会社にまで入り込んで、歴史を捻じ曲げ、生徒をベジタリアンとして洗脳しようとしているのだ。

 確かに、環境は保護するべきだ。しかしその場合の「保護」は、「環境保護派」のような支離滅裂な「保護」とは根本的に異なる。

 「環境保護派」の言う事の中にも、ただ一つ、聞くべきものがある。それは、


   動物には、知性の優劣があるのだ。


というものだ。確かに彼ら「環境保護派」の醜態を見ていると、この主張だけは真理であると言う事が、十分すぎるほど伝わってくる。時には、知性の劣った連中の中から真理が生み出される事もあるのだと言う好例であろう。


                              なかみや たかし・本誌編集委員


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