永田町後悔記(その2)


                            中宮 崇


仲間に見捨てられる、可哀相な清美ちゃん


 かつて、お気楽市民団体の「ピース・ボート」のリーダーであった辻本清美であるが、衆議院議員としての活動を開始してからは、昔からの仲間達からの失望と怒りの声の矢面に立たされることが多くなってきているようである。

 「市民団体」という圧力団体の威を借りて、自分が過去に、無責任な戯言をどれだけほざいていたか、そのことを今更ながら思い知らされている恰好になっていると言えよう。

 未だ「市民団体」の立場にある彼女の(かつての)仲間たちは、当然自らの盲に気付く事は(自分が議員にでもならない限り)永遠に無かろうが、彼等のそばには、「他人に言うようなことを自分が出来るかどうか考えてから物を言え!」と言ってあげる大人はいないのであろうか?

 さて、清美ちゃん、さすがに(旧)仲間達の馬鹿さ加減には辟易させられているらしく(もっとも、それは数年前までの彼女自身の姿でもあるはずなのだが)、雑誌『週刊金曜日』に連載している「永田町航海記」という文の中で、時折それについての愚痴をこぼしている。まあそれでも、かつての自分自身の姿を反省・総括した上でなら、まだ良いのであるが、単に弁明と文句たれに終始しているその文章からは、彼女のような「市民団体」の人間の根源的なろくでも無さが、実に良く伝わってくる。

 例えば、「NPO法案(市民活動促進法案)」について、1/10号の中でこんな事を書いている。


   あるNPO活動家に「いまのままじゃ、こんな法律、ないほう
   がいい」と言われてしまった。


 NPO法というのは、市民活動がやり易くなるような環境を整備することを目的とした法律で、言ってみれば、市民団体にも、宗教法人のように法人格を持たすことが出来るようにしようという法律。

 この法案は与党案では、所轄庁による市民団体の認証取り消しや、立ち入り検査についての規定が盛り込まれていて、これには「市民主義」と言いながら実は単なる「エリート主義」の市民団体の連中は、こぞって反対した。彼等のような人間は、


   自分たちは特別な人間だから、けっしてオウムのようになる
   ことはない


と信じ込んでいるのであろう。そのこと自体既に、オウム以上に危険な狂信者なのであるが。

 これらの規定については、辻本ネーヤンも当然反対。

 彼女は規定を削除すべく交渉を行うのであるが、他のいくつかの点で修正は認めさせたものの、この部分については譲歩を引き出す事は出来なかった。

 彼女は当該文において、ほとんど意味を成さないような修正を、自らの手柄として声高に自慢した後、先のNPO活動家の言に対してこう言っている。


   政治の場では自分の意見がすべて通る訳ではない。「こ
   こがよくない」と声高に叫ぶだけでも意味を成さない。


 あのね〜、あんた、政治屋になる前は、「ここがよくない」と声高に叫んでいたのではないの?現に、こうも書いている。


   私も立場が違ったら彼(NPO活動家)と同じことを言ってい
   る可能性が大だ。


 つまり、せっかく政治家になっても、何も学んでいないということか?政治家を辞めたら、また以前と同じように、無責任に「ここがよくない」と声高に叫ぶのか?

 大体、「政治の場では自分の意見がすべて通る訳ではない」とは何事か。そんなことは、政治の場に限らず、普通の社会生活においては常識であろう。しかし、彼女が何気なく書いたこの言葉に、実は「市民団体」というものの恐ろしさが隠されている。

 つまり、「市民団体」というものは、普通の社会と違って、「自分の意見がすべて通る」場所なのだ。普通の社会では、色々考え方が違う人間がたくさんいるから、「自分の意見がすべて通る」ということはほとんどない。

 ところが「市民団体」というものは、自分と同じ考え方をする連中しか集まらない。まさに、「類は友を呼ぶ」だ。そういう、似た者同士のかぼちゃ頭ばかり集まっているからこそ、「自分の意見がすべて通る」のであり、「全会一致で賛成」などという、ファシスト国家顔負けの奇妙な現象が頻発する。

 同様の愚痴は、5/23号の中でも見られる。そこでは、「男女雇用機会均等法」の改正に賛成した後の様子が描かれている。

 周知のように、均等法の改正により、今まで女性に対して行われてきた多くの保護措置が撤廃された。そんなものに賛成してしまったのだから、脳みそも責任感もないかつての仲間たちが怒るのも当然であろう。なにしろ、


   「それでも、あんた、女なの」

   「子どもを産んだこと、ない人でしょ。育てたこと、ないんで
   しょ」

   「深夜業もしたことないくせに」


などとまで言われたのだそうだ。

 しかし、これらの発言を見ても、「市民団体」などというものに関っている人間が、全くどうしようもないほどろくでもないゴロツキであるということが、よく分かる。

 まず連中は、差別主義者だ。「それでも、あんた、女なの」という言葉が、そのことを示している。

 次に連中は、オウム信者やUFO気違いと同類だ。「子どもを産んだこと、ない人でしょ。育てたこと、ないんでしょ」とか、「深夜業もしたことないくせに」という言葉がそのことを示している。「見たことも経験したこともない人間が、何を言うか!」という類のこれらの発言は、裏を返せば、「見たり体験したことはそのまま信じる」ということであり、更に言えば、「実際に見たり体験したりした人の言うことなら、鵜呑みにする」ということだ。こういう鳥頭は、麻原昇晃のいいカモになることであろう。

 だいたい連中が、「見たことも経験したこともない人間が、何を言うか!」などという戯言を本気で信じているのなら、連中のような学習能力に欠ける人間は、社会におけるほとんどの問題について発言権を失わなければならないことになる。原発やペルー問題などについても発言するべきではなかろう。慰安婦についても何も言うべきではないね。

 で、辻本ネーヤン、この手の「市民団体」の連中の馬鹿さ加減や、「なんでも反対!」の愚かさに気付いたのは良いのだが、主義主張に一貫性が欠けていたり、やっていることと言っていることがちぐはぐだったりするのを見ていると、まあこのあたりが、彼女のような市民運動出の人間の限界なのかもしれない。


 犬に向かって、「なぜおまえは、いつまで経っても人語を話さない!」と叱っても無駄というものだ。辻本清美のような(かつての)市民運動家に対して、これ以上のものを望むのは酷であろう。0点だったものが5点ぐらいにはなったのであるから、これはもう、「躍進」と言っても過言ではあるまい。

 せっかく少しは進歩したのであるから、馬鹿犬が「お手」を覚えた時と同じ程度には、誉めてあげてもよかろう。


                              なかみや たかし・本誌編集委員


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